2 歴史に関わる言葉
植民地の発見
Botany Bay スピアーズ洋子
オーストラリアの東海岸、シドニーから8kmほど南下したところにあるこの湾が、オーストラリアと英国で有名な地名となったのは、キャプテンクックが1770年に、初めてこの地に上陸したからにほかなりません。それから17年後、英国から囚人を乗せた最初の船が Botany Bay に向かったのは1787年のことでした。しかし、実際に最初の入植の地となったのは、 Botany Bay ではなくPort Jackson でした。理由は Botany Bay の湾が浅く、港に向いていないこと、西風をまともに受けること、真水の入手が難しいこと、などが判明したからでした。船は舳先を変えて、現在の Port Jackson に向かい、ここが最初の入植の地となりました。しかしこの事情は、本国の英国には直ぐには伝わらず、Botany Bay は、地の果ての恐ろしい流刑の地としてのイメージが定着したのでした。
当時、英国では「詐欺や盗みなど、悪事を働くと、Botany Bay に送られる」という歌が歌われたということです。当時行われていたムチ打ち刑で、Botany dozen というと、12回ではなく25回のムチ打ちのことでした。このように当時の英国では Botany Bay といえば、泣く子も黙る恐ろしい名前であったわけです。
Port Jackson
Port Jackson はシドニー港のことです。1787年に囚人を乗せた最初の船が Botany Bay に向けて出航しましたが、着いてみるとBotany Bay は港として不向きなことがわかり、そこからさらに20kmほど北上したところに、港に最適な湾がみつかりました。 1788年1月26日、船は碇を下ろし、最初の入植がはじまりました。そこが後に世界でも最良、風光明媚として知られるようになったPort Jacksonのシドニー港でした。この船が到着した1月26日を記念して、建国記念日にあたる Australia Day が定められました。
開拓時代
Rum traffic
Rum traffic はオーストラリア植民時代の初期に spirit (ウイスキーやジン、ブランディー、ラムなどの強い酒)の取引に関わる言葉として使われました。
植民当初の New South Walesと Van Diemen's Land(現在のタスマニア)では、ぜいたく品が不足、特にアルコール類が不足していました。そのため飲酒は、囚人には禁止され、一般の植民者も制限を受けていました。
しかしフィリップ総督の時代に、陸軍や公務員の労働の報酬の一部がラム酒で代償されるようになりました。慢性的なコインの不足のためで、報酬をラム酒で払う方法が習慣となっていきました。
フリップ総督が去った後の副総督 Grose の時には、食糧不足におちいり、これを知ったアメリカの貿易商船から、34000リットルの spirit
も同時に購入しないと食料を売らない、と脅迫されて妥協し、予定外のアルコール飲料を購入しました。その上に他のルートからも予定通りに購入したため、たづついたアルコールをさばくことも理由の一つでした。
この頃から、植民地では軍人や公務員、一般人に土地が分け与えられ、これらの土地を開拓する必要が生じたため、極端な労働不足が起きました。この解決策として、囚人たちを1日の内の決まった時間帯に解放し、彼らが新しい土地所有者の土地を、奴隷のようなかたちで労働奉仕できるようにしました。
だぶついたアルコールをさばける市場は、大多数を占める囚人たちだったので、彼らの報酬はラム酒で支払われ、彼らもラム酒の報酬でのみ働くようになりました。ラム酒はあらゆるものとの物々交換に用いられ、金銭と同じ役割を果すようになりました。しかし極端なラム酒の需要は、アルコール類の値上がりなど、様々な不都合を伴い、労働不足のために雇い主は法外に多量なアルコール類を報酬として要求されるようになりました。
オーストラリアで最初に建てられた教会も、労働報酬はラム酒で支払われたということです。
このような行き過ぎ知ったイギリス王政は、改善の指図を送りました。統治側は改善の事例を出したり軍隊を使ったりしましたが、いずれも真剣に取り組まなかったため、ある程度の減少はみたものの、はかばかしい効果は上がりませんでした。
ラム酒が金銭代わりに使われた Rum traffic が急激に減少していったのは、1813年に銀貨が造られるようになり、治まったのは1817年に the Bank of New South Wales が設立されてからでした。
Rum Hospital
1810年のこと。Macquarie が総督の時に、それまで Sydney の Dawes Point にあった古い病院に取って代わる新しい病院をMacquarie Street に建設することになりました。このプロジェクトのための機関と病院を当時の人々はRum Hospital
と呼んでいました。理由はこの病院の建設がラム酒の輸入と関わっていたためでした。
Macquarie
総督は、工事を請け負う代償として、植民地で販売するために20万リットルのラム酒の輸入許可を更新して欲しい、という建設業者の要求を受け入れ、さらに病院建設の間の3年間には、他に輸入許可を与えない、ということにも同意しました。病院建設の期間が延びて、ラム酒の輸入は1814年まで続き、結果、この期間に27万リットルのラム酒が輸入され、植民地で販売、あるいは賃金の代わりに使われました。ともあれ病院は1816年に建設完了しました。
時代は移り、その後この病院はほとんどが取り壊されましたが、一部は修復、改造されて州議会の正面入り口となって残っています。他の一部は MintMuseum (Museum of colonial decorative art) となっています。
Rum Rebellion
オーストラリア開拓時代の初期に、ラム酒が金銭の代わりに使われたことは先にふれましたが、今回はRum Rebellion と後によばれる、ラム酒にからんだ政治反乱について。
ことの起こりは、New South Wales州に着任した新総督 Blighが、ラム酒をめぐる不正を正そうとしたことによります。ラム酒を初めとするアルコール類の輸入に関しては、業者、税関の役人、警察がらみの不正がまかりとおり、彼らと地域の広い土地所有者に不当な利益をもたらしていました。
1806年、新総督 Bligh の最初の槍玉にあがったのが、 John Macarthur で、港湾規則に違反、ということで裁判にかけられました。しかし、裁判官は Macarthur を賠償金で放免し、逆に Bligh のやり方が法律違反、ということで、彼を自宅監禁しました。
その後2年間は、非公式に Macarthur 将軍が植民地 New South Walesで采配をふるいました。Bligh 総督はやむなく本国送還に同意して船上の人となりました。しかし、さすが植民地の総督に任命された人だけあって、その船の主導権を握り、船先をタスマニヤに向けて航海しました。
Bligh 総督は、1809年に新総督 Macquarieが着任するまでタスマニヤに留まりました。本来ならば Bligh 総督が Macquarie を迎えて着任式が行われるはずでしたが、タスマニヤにいては不可能なことでした。
1811年にイギリス本国でこの一件に関する裁判が行われ、Bligh は全てに関して無罪。Macarthur は植民地から7年間追放ということになりました。
この一件、ラム酒にからんだ反乱ということで、Rum Rebellion と呼ばれています。
国家の形成
Australia Day
Australia Day は1788年1月26日にフィリップ総督が Sydney Cove に上陸し、オーストラリア大陸の植民が始まった日を記念して設定されました。
1月26日は植民の始まりを記念したオーストラリアの建国記念日にあたりますが、一時期は Anniversary Day, Foundation Day
とも呼ばれ、日にちも州によってまちまちでした。理由は入植の始まりが州によって異なっていたからです。それだけでなく、そもそも州が形成された時期も、その州が the Commonwealth of Australia (英国自治領オーストラリア)に加わった時期も、ばらばらでした。
Sydneyでは1817年あたりから、この日を記念日としていましたが、最初に NSW州で祝日と設定されたのは1838年でした。だんだんと他の州もこれにならい、1931年にビクトリア州が提案した 1月26日、Australia Day という呼び名が合意を得ました。 1946年にはこの日を祝う
Australia Day Council がメルボルンに設置されました。
オーストラリアでは、実際の祝祭日を繰り上げ又は繰り延べして週末とつなげ、連休にするのが普通ですが、1988年の建国200年の記念日は、1月26日火曜日が公休日となり、祝日の行事が行われました。以来、1月26日の Australia Day
に限り、実際の日を祝日・公休日とすべきだ、という意見が強くなっています。
歴史的大事件
Eureka Stockade
Eureka Stockade は短いオーストラリアの歴史のなかで、ANZAC に次ぐ大きな出来事とみなされています。
ことの起こりは、今から150年前の1854年12月3日。メルボルンの西北に位置するバララット金鉱でのことです。金鉱での待遇に不満をつのらせた炭鉱夫たちがバリケードを築いて立てこもり、金鉱の採掘権を握るビクトリア政府に反旗を翻したのがきっかけでした。不満の主な原因は、政府が採掘許可書を発行、販売し、採掘を有料にしていたことにありました。この許可証は2週間おきに更新されたので、採掘をするために炭鉱夫たちは2週間ごとに許可書を買わされました。許可書を持たずに採掘していることが発覚すると、罰金または禁固刑がはたされていました。
政府は炭鉱夫が立てこもったバリケードを攻撃するために、警察と軍隊をバララットに送ったので、抵抗は20分あまりで制圧されました。炭鉱夫側では30人が殺される、という犠牲のもとに事件は落着しました。
歴史の短いオーストラリアでは、この事件の後にも先にも、暴動や権力闘争のために人命が失われる、ということはがほとんどなかったので、これは歴史的な一大事件となりました。
この事件後、1年以内に有料採掘許可書の発行は廃止され、金鉱夫たちの諸々の権利が認められ、選挙権も獲得、代表が議会に送られることになりました。
このEureka Stockade
は、反権力志向の強いオーストラリア人に、労働者が支配権力に立ち向かい、権利を獲得した革命的な一件として受け入れられ、語り継がれ、後の世の労働党の政治家や社会、労働運動家たちに高く評価されるようになりました。ただ、歴史研究家によっては、採掘料の徴収は、この一件がなくても1年後には廃止される予定になっており、待遇も改善されることになっていた、という観点から、この事件を労働者の解放と結び付けて、それほど評価しない人もいます。
ANZAC DAY のような国民一致の評価はまだ得ていないようで、祝日にもなっていません。しかし、オーストラリアの学校の歴史の教科書には必ず書かれている、一大事件ではあります。
2004年には Eureka Stockade 150年を記念してバララット市では、様々な催しが企画されました。メルボルン市内でもこの事件を題材にしたミュージカル Eureka
が上演されました。マルチカルチャルな現代のメルボルンを反映して、人種を超えたラブロマンスを絡ませた内容にしてあるとか。評判もまんざらではなく、かなりの観客も動員したようです。
世界にさきがけて
Labour day 又は 8 hour day
3月の第2月曜日は Labour day と呼ばれる祝日です。1856年に、メルボルンの労働者たちが勝ち取った1日8時間労働を記念して定められました。以前はこの日を、ずばり the eight – hour day と呼んでいました。
歴史をさかのぼると、イギリスで政治改革運動にたずさわっていた有能なアジテイター、ジェームス・ステファンがメルボルンに渡ってきたのが1851年。当時のメルボルンは金鉱の発見に湧いていました。その豊かな財政を背景に建設ブームが起こりました。しかし一攫千金を夢見る男たちは、シャベルや道具を投げ出して、金鉱へと向かっていきました。労働不足、それに伴う賃金の上昇、というこれら労働者にとって有利な条件を生かし、ジェームス・ステファンという巧みな指導者のもとに結束したメルボルンの建設労働者は、世界で初めて1日8時間という労働運動を成功させました。
しかし、初めはメルボルンの建設石工、壁施、レンガ、下水、屋根瓦、ペンキ塗装などの熟練工や職人のみに実施されました。
1日8時間労働が、他の職場や州で実施されるのは、それぞれ10年またはそれ以上の歳月がかかりました。オーストラリアでは、州によって実施された時期が異なるので、Labour day の祝日も州により異なっています。
現在、世界的に労働者の祝日とされるメーデーは、メルボルンに遅れること30年、1886年5月1日にアメリカの労働者が8時間労働を求めておこなったジェネラルストライキを記念したものです。
世界強豪の一つといわれるオーストラリアの労働組合には、それなりのいきさつと歴史があるわけです。
記念日
ANZAC Day
ANZAC は Australian and New Zealand Army Cops の頭文字を取ったもので、オーストラリアとニュージーランドの連合軍の意味です。4月25日は ANZAC Day
という記念日は、第1次世界大戦中、イギリスの要請で参戦したオーストラリア・ニュージーランドの連合軍が、トルコのガリポリ海岸に上陸した4月25日を記念しています。
第1次世界大戦はヨーロッパ、北アフリカが主な戦場となりました。イギリス、フランス、イタリア、ロシアの連合国に対して、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、トルコなどの同盟国との大戦でした。(ちなみに日本はこの時は連合国側でした。)
オーストラリアからは本国大英帝国のために多くの若者が応召し、出征していきました。ビクトリア州だけでも11万4千人が出征しました。史上最高の戦死者を出した最悪の戦争といわれるこの大戦では、多くのオーストラリア兵の血がヨーロッパで流されました。
トルコのガリポリ海岸では、英国側の戦略の不手際のため、上陸した軍隊は日本の特攻隊のような状況におかれ、ほとんど全滅という悲惨な戦いでした。この参戦がオーストラリアに与えた影響は大きく、これを機にオーストラリア人としての国民感情が芽生えた、ともいわれます。
オーストラリアでは小さな村や町にも、第1次世界大戦で亡くなった兵士のための慰霊碑が建っていて、記念の並木が植えられています。メルボルンのドメイン公園にある戦争慰霊館は、元来は第1次世界大戦で亡くなった兵士のために建てられたものですが、現在は、他の戦争も含めた戦争で亡くなった全ての兵士たちを慰霊するもとなっています。