インタビュー (3) 「中川保子」 |
このページは有名無名、国籍を問わず、ユーカリで「この人」と思う人をインタビューしていきます。 今月は30年前大阪で犬の美容院を始め、オーストラリアに移住してからは、当時まだ少なかった日本食レストラン、サービスアパートメントを経営してこられ、今は趣味の陶芸を楽しんでいる中川保子さんをインタビューしました。 |
*大阪で犬の美容師さんになった動機は?
私は自然や動物が大好きなので、短大を出てから犬の訓練師になろうと思って、そのための訓練所、京都ドックセンターへ行きました。ところが始めてみてわかったのは、あれは丈夫な人でないとなかなか難しいのです。最初からシェパードを持たされたのですが、訓練されていない犬は、もの凄い勢いで走り回るのです。その手綱を握って、引っ張り回されないようにしていると手の皮がむけてきて、終いには手綱が握れなくなってしまいました。私はどちらかというときゃしゃで力も弱いので訓練師はあきらめました。同じ京都ドックセンターに美容師のコースもあったので、それなら犬に関係があって私にもできそうなので、その方にいったわけです。 |
*その頃、犬の美容院はたくさんありましたか?
いいえ、大阪では私が二軒目でした。もう一軒は個人的に美容師をしていただけなので、見習いはできなくて、先にもいった京都ドックセンターというペット総合会社で3年間実習をしたあと、東京にも3ヶ月見習いに行きました。大阪に戻ってからも定期的に京都にも見習いにいきました。 |
*開業したのはいつですか? 30年前ですから、1972年24才の時でした。実家の納屋を借りて改造し開業しました。その頃犬の美容院というのは少なかったので遠くからお客さんが来てくれました。必要性がわかったので少し離れた所に支店も出しました。それから5,6年経ってからですね。雨後の竹の子のようにあちこちに犬の美容院がたくさんできたのは。 |
*メルボルンに転居された動機は? |
15年犬の美容師として働きましたので、自分のしていることに物足りなくなって、そろそろ転機だと感じました。これ以上先に進むものが無くなって、後は犬の品評会が残っているだけでしたが、私はそちらには興味がなかったのです。私が犬の美容師になったのは犬の健康のためと飼い主の便宜のため、犬が好きだからで、品評会の方には興味もないし、そちらの方に進む気持ちはありませんでした。でも自分の生活を変えてみたかったのです。かねがね外国で暮らしたいと思っていたので、海外へ出ることにしました。29才の時にニュージーランドとメルボルンを旅行した時、自然が豊かなニュージーランドの印象がとても良かったので、あそこに住みたい!と思ってニュージーランドに下見に行きました。通訳を雇って美容院を廻ったのですが、ニュージーランドは助手や見習いが欲しい、というところは一軒もありませんでした。とても人を雇うどころではないのですね。それでメルボルンにきました。だけど、世の中、そんなに甘くはないですよね。英語もしゃべれないのに。それでラトローブ大学で英語を勉強しました。30代でしたけれど。その間に、やっと見習いとして雇ってくれる店をみつけました。ところが働き始めて半年ほどで、その店がつぶれてしまいました。私が引き取って続けることもできたのですが、もともと美容師を辞めたくて、外国にでてきたのですから続ける気はありませんでした。それで観光ガイドになりました。でもガイドの仕事は自分には向いていないような気がしました。私は食べ物に興味があるので、昼はガイドとして働き、夜は週に2,3回日本食のレストランでウエイトレスをしました。そうこうしているうちに日本食のレストランを共同経営しよう、という話があって、私もその気になったのです。ところがいざ始める段階になったら、相手の人が降りてしまいました。それで私が一人ですることになったのです。 |
*凄いですね。レストラン業では全くの素人。でも軌道に乗せたのですね。 |
その時は、もう店も借りてしまっていたので。やるしかない、という気持ちでした。日本に行ってありとあらゆるつてを通して板前さんを探してもらいました。ビジネスビザを申請して、イタリアンレストランだった店を日本風に改造してと、それはもう大変でしたよ。今から18年前、1984年のことです。 |
*メルボルンの日本食レストランでも草分けですか? |
いいえ、レストランの方はその頃すでに10軒くらいありました。でも私がはじめた数年後に、また雨後の竹の子のように、どんどん増えて今では100軒くらいありますでしょ。そういう意味では草分け的かもしれません。その頃あった10軒のレストランでまだ残っているのは「くに」と私が始めた「大阪」ですが、「大阪」は三代目になりました。 |
*それだけレストラン経営は大変、ということでしょうか。 |
犬の美容師の方は一人でもやれますが、レストランは板前さんにウエイトレスと人を雇わなければできませんから、それだけでも大変です。日本食は素材が大切ですから、朝8時半の買い出しから始まって、夜中過ぎまで働きました。今と違って白菜や大根、きゅうりなどもなかなかいいのが手に入りませんでしたから、素材探しだけでも大変でした。それでも軌道に乗せて2年目でしたか、レストランのお客様で、短期駐在の方々が毎日のように食事に来られていました。その様子を見て、宿泊先に日本の台所用品のあるサービスアパートメントがあると喜ばれるだろうと思いました。ちょうどその頃、レストランの近くに売りに出ていた16戸あるフラットを全部買って、炊飯器、和食器、そば枕などを揃えて、日本人向けのサービスアパートメントを始めました。メルボルンでは初めてだったので大変喜ばれました。こちらは管理人を雇ってまかせていましたが、建物が古かったので、そのうち、やれ水道管が詰ったのどうの、といろいろ問題が起きてきました。今考えると一人で両方は無理でアパートの方はやるべきではなかったと思います。急性胃潰瘍になってしまってゲップがでるようになりました。それと、St. Kilda というところは泥棒が多いのです。午後3時に店を閉めて、5時にみんなで夕食を食べるまでの間、仮眠することがあるのですが、その間によく泥棒に入られました。それに板前さんもだいたい2年も続かないんですね。その度にまた探さなくてはならないし、などで4年を過ぎたころ、もう限界だと思いました。それでビジネスを売ることにして日本の新聞に広告を出しました。ずいぶんいろいろと問い合わせがありました。でもなかなか適切な人はいなかったですね。離婚して海外で何かやりたいという方がいましたが、ビジネスの経験はありますかと聞くと、ありません、英語は話せますか、いいえ、話せません、これでは無理ですよね。いくらお金だけあってもね。まあ最終的にはいい人がみつかりましたが。 |
*サービスアパートメントの方はどうしたのですか。 |
この方はレストランよりずっと楽でした。管理人夫婦に住み込んでもらって、後は掃除をする人を雇えばすみますから。掃除だっていざとなったら私でもできますから。レストラン経営は料理をするだけでなく雇用関係、お客さんという人間関係が大きいですから、それがない、というのは本当にありがたいことだと思いました。 |
*レストランを売られた後、どうされたのですか? |
もうなにもかも嫌になって、全く生活を変えようと思って、パリに行って6ヶ月暮らしました。もう40代でしたけれど。昼間はフランス語の学校へ行ってフランス語を勉強し、夜は日本食のレストランで少しアルバイトをしました。この時、今まで経験したことのない孤独を感じました。パリという都会はひしひしと人を孤独にさせるところですね。人間が冷たくて。オーストラリアにいると一人でもけっこう楽しくやっていけますよね。だけどパリではすっごく孤独でした。オーストラリアとは全く違ってました。クールというかあなたはあなた、私は私、人が困っていようがどうしようが関係ない、という感じでした。パリジャンは冷たいですよ。 |
*そういう意味では、オーストラリアは田舎なんでしょうね。知らない人でも通りすがりに目が合うと、ニコッとしたり、ハローといったりしますよね。
そう、困っていると、寄ってきて「メイ、アイ、ヘルプ、ユー」なんていってくれたりしますよ、オーストラリア人は。でも、パリではそんなことないですね。よっぽどの美人だったら別かもしれませんが。少し位じゃダメですって。 |
*岸恵子さんぐらいじゃないとダメなのかな。でも彼女だってけっこう嫌な思いもしたようだし。
若くて絶世の美人じゃないと親切にしてもらえませんよ、パリでは。日常の生活もギシギシしてますし。孤独に耐えかねてメルボルンに帰ってきたとき、 夫に出会いました。 |
*絶妙なタイミングですね。 |
そう、レストランをやっている最中だったら、出会ってもそのまますれちがっていたでしょう。私は特に結婚したい、と思って相手をさがしたことはなかったので。 |
*やはりレストラン経営で身体を壊す一歩手前まで働いたことと、パリでの経験があったから、出会いが生かされたのでしょうね。で、サービスアパートメントの方は今も続けているのですか? |
いいえ、レストランのビジネスを売ったあと1年ほど続けて、なにもかもすべてさっぱり売ってしまいました。今度は都会からできるだけ離れた自然のいっぱいあるところに住みたいと思って、郊外に1エーカーの土地付きの家を買って、夫と暮らし始めました。ところが、土地が広すぎてちょっと手を抜くと草ぼうぼうになってしまって、庭仕事に追われるようになって、今は、その半分の半エーカーのところに引っ越しました。 |
*もうお二人ともリタイヤーされて悠々自適、そこで趣味の陶芸や木工をされているのですね。 |
そう、私が陶芸、夫は木工の工房を別々に持っています。朝目覚めて1時間くらいボーとゆっくりできるのが最高の幸せ。私は1年に一度は団体の海外旅行に参加しています。夫は海外旅行が嫌いなので、私だけ。一人はやはり無理なのでイギリスの旅行会社のパッケージツアーにいつも一人で参加しています。去年はトルコに3週間行きました。今年は4月に3週間中国に行きます。田舎で自転車に乗ったりするようで、いまから楽しみにしています。これまでの人生で今が一番幸せ、かな。 |
*これまで、たいがいの女性は20代で独身生活を楽しみ、結婚して30代40代は子育て、50代になって、さあこれからどうしよう、と思う人が多いのでしょうが、保子さんの場合は、先に一人で事業をされた後、結婚してリタイヤー、と普通の人とは反対の生き方ですね。でも、いろいろな生き方があっていいわけですよね。今が一番幸せ、なんですよね。それは、これまで保子さんがその時その時を精一杯、孤軍奮闘してきたから、現在、連れ合いのいる良さや仕事に追われないリタイヤーのありがたさがわかるわけですね。 |
二人でいるとケンカばかりしてますよ。 |
*そうですか、それは仲の良い証拠ですね。今日はお時間ありがとうございました。 |
インタビュアー スピアーズ洋子 |