インタビュー (5) 「ジャクソン・マスミ」 |
このページは有名無名、国籍を問わず、ユーカリで「この人」と思う人をインタビューしていきます。 今月はメルボルンでいけ花の教授、デモンストレーション、和紙人形の創作、 展覧会などを続けてこられたジャクソン・マスミさんをおたずねしました。 |
*オーストラリアに来られたのはいつ頃ですか。
1984年にキャンベラ大学に1年間在籍しました。 英語と言語学のコースを取ったのですが、言語学は難しかったので講義が済むと即、 図書館から講義のテープを借りて何度も繰り返して聞きました。個人教授も頼んで勉強し大変苦労しました。 この年の終わりにオーストラリア人と結婚しました。彼とは東京で出会っていたのですが、 結婚までに7年かかりました。メルボルンに来たのはその翌年でした。 *その頃のメルボルンはどんなふうでしたか。とても素朴でした。着る物も質素で、落ち着いていていいな、と感じました。 一番強く印象に残っているのは電車でした。 ここを走っているアラメイン線はドアがところどころ開けっ放しのまま走っていて、 あちこちに落書きがしてあり、シートも切れたままでした。 今はとってもきれいになっていますね。 |
*結婚されてメルボルンにこられて初めにされたことは何ですか。 |
10年計画で英語を勉強することでした。 主人がRMITでエンジニアリングを教えていましたので、私もそこで英語を学び始めました。 ところが突然彼が他界しました。その時はたくさんの人に助けられました。 特にオーストラリア人が「マスミを一人にしておいてはいけない」といって、あちこち紹介してくれて、 いろいろな人に会う機会をつくってくれました。その人たちにお花を教え始め、 次第に日本の方々も習いに来てくれるようになりました。 |
* お花は日本で仕事としてされていたのですか。 |
いいえ、趣味としてです。趣味が身をたすくといいますか、 いけ花を通して多くの人たちと友達になることが出来て良かったと思います。 花たちもときどき話しかけてくれたり、元気づけてくれますので。 仕事としては大学で図書館学を教えておりました。専門が国文学、副専攻が図書館学だったのですが。 教えるだけでなく論文や本の執筆、学内で国語の大学入試問題作成委員などもしていましたので、 かなりきつい仕事でした。花と能は、いい息抜きとなりました。 |
*メルボルンでは、いけ花は教えるだけでなく展覧会やデモンストレーションを何度もなさいましたね。 |
メルボルンではアートセンター、ナショナルギャラリー、大丸、 その他学校やコミュニティー等でも何度かいたしました。それとシドニー、タスマニアでもしています。 |
*海外でもされていますね。どこが印象に残っていますか? |
海外では、オーストラリアに来る前にいけ花使節団としてニューヨークとメキシコで。 ニューヨークのワシントン広場での野外デモンストレーションは壮快でした。 オーストラリアに来てからは、ヨーロッパ、南アフリカのスエトとネパールでいたしました。 |
*またどうしてスエトで?
スエトでしてみたかったからです。 いけ花インターナショナルの大会で南アフリカに行くことになったものですから、 日本のNGOに連絡をして、南アフリカのスエト黒人村でいけ花をしてみたい、 といったところスケジュールなどすべてオーガナイズしてくれました。 もちろん自分の費用でいきましたが、スエトでのいけ花のデモンストレーションの日程、 会場の手配、送迎とか、すべてNGOの方が手配、 案内してくれましたので危険ではなくて安心してワークショップをすることが出来ました。 また黒人村内の小さな学校や孤児院なども訪問しました。アフリカの黒人もとってもいけ花に関心をもち、 この次はいつ来てくれる?なんていってくれ、みんなフレンドリーでした。 |
* NGOとはどういう関係で? |
オーストラリアに来る前に、タイのインドシナ難民キャンプに日本語の学校を設立する仕事をしました。 このときNGOのJVC(日本国際ボランティアセンター)に所属して仕事をしました。 それ以来の付き合いです。 |
* ネパールも意外な所ですね。どういう関係で? |
一昨年「日本・ネパール友好100年記念行事」がネパールで開かれた時、 日本大使館の要請で行って、日本の大使館関係とネパール皇室の方々、 日本語学校の生徒のためにいけ花のデモンストレーションとワークショップをしました。 |
* あの大惨事のあった1年ほど前ですか? ネパールのロイヤルファミリーはあの事件でお世継ぎも途絶えてしまったのでしょう。この写真はとても貴重ですね。 |
そうですね。プリンセスは本当におきれいでしたよ。 気軽にワークショップにもご参加くださり、いい花をいけてくださいました。 今はもう皆様いらっしゃらないなんて、信じられません。 |
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* 和紙人形にはいつ頃から興味をもたれたのですか? |
学生時代に和紙工程の講習会に参加して以来ですが、 人形作りに本腰を入れるようになったのは主人を亡くした直後、 下野和紙人形に出会った時からです。帰国の度に特別集中レッスンを受け、 今は美術年鑑にも掲載してもらえるようになりました。 |
*能もされていらっしゃるのですね。能はいつ頃から? 能も学生時代からです。メルボルンに来てからは、家の小さな舞台で癌がみつかる前までは、 毎日運び(歩くこと)の稽古をするようにしていました。昨年癌と診断された前の月、 何も知らずに、東京の宝生能楽堂で「胡蝶」を舞いました。 * 昨年、甲状腺とリンパ節の二つの癌、それから同時に扁桃腺もという、 大きな手術を受けられましたが、それを機会に人生観とか、変わりましたか。 感謝の気持ちが強くなりました。人に対しても物事に対しても。 例えば病気も、もっと重かったかも知れないのにこの程度で済んで、と。 静養中は時間がたくさんありますから、 立ち止まって物事を考える機会を与えられて良かったと思います。 これは能を通じて学んだことですが、無理をしないで、水の流れるように、 波の間に間に漂うような自然体でいきたいと思っています。 舞台でも良く見せよう、とするのではなくて、ありのままの自分を見てもらう、 ということが大切だ、といつも教えられていますが、 これは生きていく上でもとても助けになっています。 |
* オーストラリアにいらしてからご主人を亡くされて、 それから癌の手術と二つの大きなことに直面されたのですね。 ご主人は結婚されて間もなく亡くなられたのでしたか。 |
2年と3ヶ月でした。あの時の方が大変でした。 オーストラリアのことはまるでわかりませんでしたし言葉もまだよく話せませんでしたから。 知り合いも少なくて、それなのに、いろいろなことを全部一人でしなければなりませんでした。 これから一人でどうやって生きていったらいいのか。気持ちの上では、 はるかにつらかったですね。今回は知人や友人が増えて、 みなさんがいろいろと力になってくれましたから、ずっとらくでした。 |
* 癌だとはどうしてわかったのですか。すぐ知らされたのですか。 |
もう一度精密検査、といわれて、「癌ですか?」ときいたら、 いや結果が出てからでないと、、、、、といわれました。癌だとわかって手術の日などを決める時は、 一人でなくて、誰かと一緒に来なさい、といわれたので義理の娘に来てもらいました。 この入院が決まったちょうど直前だったのですが、 24年前に国文学者の古事記専門家と古事記全巻の朗読をカセットテープに収める仕事を一緒にしました。 それがソニーより8枚セットのCDとなって出来上がったのです。千部の限定版で。 この仕事が完成したから、もういいや、これまで自分のしたいことをしてきたので、 思い残すことはない、とこの時、一応覚悟をしました。そして 「わが人生に悔いなし、感謝をこめて。」と一筆家に残して入院しました。 |
*でも、無事に手術が済んで現在、 外見はお元気そうに見えますが、大変なことでしたでしょう。 | 大変なことだったようです。この間帰国したとき、日本のお医者さんに 「甲状腺、リンパ節、扁桃腺の三つを一緒に手術するなんて、無理ですよ。 海外で手術をして来た人をみるとびっくりしてしまう」といわれました。 入院中は声がよくでませんでしたし、テレビを見るのもつかれるので、 ベッドでちょっとしたことなど、様々なことを書き綴って気分を紛らせていました。 |
*手術を終えて身体が自由になってからはどう過ごされていますか。 | あれから7ヶ月経って、まだ首は苦しいのですが、ドクターから何かした方がいい、 といわれて先週はこちらの小学校で2クラスにいけ花を教えてきました。 男の子と女の子の半々ぐらいのクラスで。約50ぱいの花材セットを準備するのは疲れましたが、 子供たちは嬉々として一所懸命にいけてくれましたので、とても楽しかったです。 |
*大病の後ですから、 くれぐれもお体に気をつけて養生をなさってください。もっとお聞きしたいことがたくさんありますが、 長くなってお疲れになってはいけないと思いますので、またの機会にぜひお願いします。 今日はいろいろとお話してくださってありがとうございました。 | こちらこそありがとうございました。
インタビュー: スピアーズ洋子 |