この国の成り立ち (7)
―――壊血病―――
前田晶子
第一歩を踏み出した植民地にとって、食べ物は死活問題でした。本国イギリスを出る時、人数分に相当する2年間の食料は積み込んできましたが、それも次第に足りなくなってきました。航海の間から割り当て分は少しずつ減らされてきていましたが、シドニーの生活が始まると、さらに減らされました。倉庫が建てられ、貴重な食料が保管されました。食べ物を盗むことは最高の罪とされ、絞首刑が適用されました。早くも最初の絞首刑は1788年2月28日に執行されました。
船に積み込んできた食料は次のようなものでした。塩漬け肉(牛、豚)乾燥えんどう豆、オートミール、乾パン、チーズ、バター、酢などです。士官、水兵、海兵隊はみな同じ分量を割り当てられました。男の囚人はその3分の2、女の囚人はさらにその3分の2でした。
誰もが空腹に耐えていましたが、士官だけは時には入り江から取ってきた魚や牡蠣を食べる機会がありました。他の人は一週間単位でもらえる配給の食べ物だけでしのいでいました。一週間分の粉(4kg)で大きなパンを焼き、一気に食べて死んでしまった囚人もいました。
新鮮な野菜、果物などの食料がないため、ビタミン不足になり人々は壊血病になっていきました。囚人は罰の鞭打ちの刑が受けられないほど弱り、水夫も帆を張るロープさえ引っ張れなくなりました。ビタミンC欠乏症の壊血病は当時大変怖い病気でした。特に航海中はよくこの病気にやられました。歯茎からの出血に始まってそのうち皮下出血のあざが全身に現れ、倦怠感、脱力感で何もできなくなり死にいたります。
壊血病の危機を救ってくれたのは、アボリジニー達です。推定では何万年も前から住んでいると言われている原住民達は(ユーカリ6月号ドリームタイム参照)、初めて見る白人が物珍しく、恐る恐る様子を見にやって来ます。ところが彼らは健康そのもので、壊血病とは無縁なのです。不思議に思った白人達は、だんだんと馴れてきたアボリジニー達が差し出してくれる食べ物を少しずつ食べ始めました。それは木苺であったり、山ぶどうであったり、とにかく新鮮なものでした。イギリス人から見たら原始人そのものに見えるアボリジニー達から教わって、人々は回りの自然の中から食べ物を集めてくるようになりました。いつのまにか壊血病は治まっていました。
- 主な参考図書 :
Dreamtime To Nation, by Lawrence Eshuys Guest (Machillan Australia)
The Voyages of Captain Cook, by Dan O’Keefe (Paul Hamlyn)
大辞林 松村明(編) 三省堂
やさしい栄養学 児玉桂三 小池五郎 女子栄養大学出版部
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