インタビュー (7) シスター・メリー・ジュリアン |
このページは有名無名、国籍を問わず、ユーカリで「この人」と思う人をインタビューしていきます。今月は第二次世界大戦で広島・長崎に原子爆弾が投下され、日本が無条件降伏した3年後、1948年にオーストラリアから長崎へ派遣された6人の修道女の一人シスター・ジュリアンをお訪ねしてお話をうかがいました。 |
*シスター・ジュリアンと5人の修道女が長崎へ行くことになったいきさつを話していただけますか。
私達は「善きサマリア人修道会」の修道女です。「善きサマリア人」とは聖書にあるのですが、簡単に要約すると、隣人と助けあい、助けを必要としている人を助ける、ことをモットーとしています。私はあの当時、助けを必要としている人たちがいたら、世界中どこにでもいくつもりでいました。1945年から10年ほどの日本は原爆が二つも落とされて戦争で破壊され、世界で最も助けを必要としていた国でした。 オーストラリアのギルロイ枢機卿と長崎の山口大司教は第二次世界大戦前のローマ大学で一緒に神学を勉強されていました。お二人は同窓生なのです。その関係で山口大司教が長崎に修道女を派遣して欲しい、とギルロイ枢機卿に依頼されました。それに応える形で私たちは長崎へ派遣されたのです。オーストラリアで長崎へ行く修道女のボランティアを募集したら、300人の応募があったそうです。そのなかから私たち6人が選ばれました。でも、今ではその内の4人が亡くなりました。残っているのは私ともう一人のシスターだけ。6人のうちで私が一番若かった。行った時は21歳でした。 |
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*戦争中、オーストラリアと日本は敵国だったわけですが、その日本へ終戦後間もなく行くことに抵抗はありませんでしたか? |
全くありませんでした。原子爆弾が落とされた市は全て破壊されて、人々が苦しんでいると聞いていましたので、私たちが少しでもその苦しみをやわらげ、助けることが出来れば、と思ってボランティアに応募しました。 |
*どのようにして行かれたのですか。 |
貨物船でシドニーを出発し、ブリスベンと香港経由で33日がかりでした。旅客は私たち6人の他4人、全部で10人でした。日本には食べるものも何もない、と聞いていましたので、ベッドと小さなデスクに椅子、毛布に缶詰、粉、砂糖、カンパンなどの食料と、それから医療品がないといわれたので、薬をたくさんとサニタリー用品も3年分、全部で60トン積みました。食料のない所へ行って、私たちがそこの人たちの食べる分を減らしてはいけない、という配慮から食料品をたくさんつみました。本当に日本では食料が不足していたので、私たちは半年ほどは持参した缶詰ばかり食べていました。船の中では聖書を読むのと、日本語、日本の生活習慣、文化や歴史を勉強しました。香港から広島の呉港へ向かう間に、過去50年で最悪という台風に出会いました。小山のような波が向かってきて、進むよりも戻る方が多く、難破するのではないかと心配になるほどでした。でも日本に近くなったらとっても静かになりました。海面は絹の布のようになめらかになりました。内海に入ると、小さな島がたくさんあって、入り江に小さな漁村が見える、とっても素朴な平和な風景でした。 |
*最初の日本の印象はどうでしたか? |
1948年11月16日のお昼に広島の呉港に着きました。オーストラリア進駐軍の軍病院で働いていた軍関係のオーストラリア人と神父様が迎えてくれました。ジープで呉の町を案内してもらいましたが、道端の子供たちの可愛らしい姿がとても印象に残っています。軍病院はとても悲惨でした。いくつかのトンネルを通り丘を越えて広島へ入りました。広島は破壊されたままで、本当に何もありませんでした。くずれた建物の残骸やねじれた鉄筋がぽつんぽつんと、いくつか見えるだけで全てが瓦礫でした。それでも掘っ立て小屋が少しずつ建っていました。人の姿はありましたが、静かに音も無く動いているように見えました。 |
*広島からすぐ長崎へ行かれたのですか。 |
1泊して翌日の夜8時の汽車で長崎に向かいました。23時間かかって、翌日の夕方6時半に長崎につきました。山口司教と以前から来ていたオーストラリア人の宣教師や日本の修道女とその生徒たちが迎えてくれました。それから2台のタクシーに乗って、その頃、長崎にはタクシーがたった2台しかなかった、ということでした。まず大浦教会へ向かいました。教会で祈りを捧げました。そして晩餐の後、私たちの宿舎、南山手15番道院に着きました。シドニーを出てからの長い旅路が終わり、新たな活動が始まった場所でした。 |
*長崎で強く印象に残っていることは何ですか?
下駄の音です。当時のことを思い出すといまでもあの、カッカッカという下駄の音が聞こえます。それから子供たち。とても可愛らしく身なりもこざっぱりとしていました。お母さんたちは、もんぺをはいて貧しく汚い格好でしたが、子供たちには身なりをととのえさせていました。日本のお母さんは偉い、と感心しました。それに子供たちは元気そうでした。その様子を見て私たちはとても安心しました。未来に希望がもてました。私はその時21歳で6人の中で一番若かったのですが、シドニーの学校ですでに教えていましたし、他の5人も本当に良い教育者でした。だから子供たちの明るい姿が、本当にうれしかったのです。 |
*長崎全般はどんな状態だったのでしょうか。 食料も不足していましたが、医療品、薬が絶対的に不足していました。電気も水道も下水もありませんでした。水は井戸からくんでいました。不衛生なので病気がまんえんしていました。子供たちにはみんな回虫がいました。栄養失調と結核と喘息が主な病気でしたが、薬がほとんどありませんでした。病院は狭くて、結核の患者さんは家族の人が来てめんどうをみていましたが、場所がないので患者さんのベッドの下で寝ていました。とても大変でした。私たちはカトリックセンターで無料診療所を開きました。この頃の日本は食糧不足と家や仕事の無い人があまりにも多すぎて、政府は国民を助けることができませんでした。原爆の後遺症の人や病気になっても、お金が無くてお医者さんに診てもらえない人がたくさんいました。リヤカーに重病の奥さんを乗せて、診てくださいといって来た人がいましたが、こういう場合、私たちには食べ物をあげて、薬を渡すぐらいしかできませんでした。オーストラリアからたくさん持ってきた薬がとても役立ちました。しばらくは医療活動と日本語の勉強をしてすごしました。*そう、言葉の問題はどうされましたか? 日本語は毎日5,6時間、猛勉強しました。日本の神父様から毎日2時間から4時間日本語のレッスンをしていただき、自分でも勉強しました。余暇の時間はほとんど日本語の勉強をしました。グラバー邸がそばだったので、仕事と勉強の合い間によく気分転換に庭を歩きました。歩きながら勉強もしました。私たちは日本語を勉強しただけでなく、英語を教えました。長崎大学の学生がぜひ英語を教えてほしい、ということでしたので30人ほどの学生をグループにまとめて英語を教えました。ほとんどが男子学生で、女子は2,3人でした。このなかには東京でビジネスマンになったり、仕事でとても成功した人がいます。長崎で4年間過ごした後、佐世保へ行きました。シドニーの「善きサマリア人修道院」が佐世保にクリスチャン・ハイスクールを建てて経営することになりました。1952年に校舎と宿舎が完成しました。聖和女子学院です。私たちは英語、音楽、生活指導などをするためにそちらにうつりました。 |
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*日本へ行ったのは教育が主な目的だったのでしょうか。 | |
いいえ、help for need で、その時その場で必要とされていることに手をかすのが一番の目的です。食べ物が必要なら食べ物を、医療が必要なら医療を、ということなのですが、日本もだんだんと復興してきたので教育の方に移っていったのです。奈良にも幼稚園、学校をたてました。私たちも奈良へいって、そこでも教育にたずさわりました。自分たちは貧しくても、まず子供たちによい教育を受けさせよう、とする日本の両親には本当に感心させられました。それから東京に寮をつくりました。オーストラリアから日本へ行った修道女、聖和女学院を卒業した生徒、それからアジアやアフリカからの研修生が東京で安心して泊まれるところが必要になったのです。それで修道院とホステル、それに聖和学院の学生寮を東京の初台に建てました。これはとてもいいことでした。わたしもそこに住んで学生たちの面倒をみました。学生たちの生活や精神的ないろいろな悩みを聞いて相談にのったり、一緒に考えたりしました。日本語はもう不自由しなかったので、海外から来た宣教師のために通訳もしました。1948年に長崎に行って、佐世保、奈良、東京と移り住んで、1994年にオーストラリアに戻るまで46年間を日本で過ごしました。日本は私の人生のほとんど全て、といってもよいのです。 | |
*オーストラリアに戻られてから、日本との関係はどうなりましたか? 聖和の卒業生と日本の方々とは強いきずなで結ばれています。私は度々日本へ帰ります。今年は4月に行ってきたばかりです。長崎にも行きました。54年前のこと、今では想像もつかないくらい変わりました。今回は、事情があってたった2週間だけで、短かかったけれど、有意義で楽しい良い休暇でした。 |
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*貴重なお話をありがとうございました。どうぞ健康に気をつけて、これからもお元気でお過ごしください。 インタビュー: スピアーズ洋子
(c) Yukari Shuppan
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参考資料:旅路 Sisters of the Good Samaritan in Japan 「善きサマリア人修道会」日本宣教30周年記念 The Path Between (The story of the Good Samaritan Sisters in Japan 1948-1998) |