Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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インタビュー (12)       Z. T. Bob Bartnik
                                
  
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。 今月のこの人は、ポーランドご出身で戦後50年、オーストラリアのテキスタイル産業での仕事と教育、また 国連開発機構でも仕事をされてきたボブ・バルトニックさんのお宅をお訪ねしてお話をうかがいました。
 
*素晴らしい眺望ですね。
ええ、このベランダから景色を眺めていると静かな満ち足りた気持ちになります。ヤラ川と川 の向こう側の左に見えるのが Balwyn で右側が Kew です。ゴルフ場の一部も見えますよ。ここから歩いても10分ぐらいです。

  *お宅のあるこのあたりはかつて画家たちの住まいが多かっ たことで知られていますね。それにこの道はデコボコで有名ですね。住民が反対して市に舗 装をさせないで、デコボコを維持しているとか。なるほどこの眺望では、道が良くなったらドラ イブでちょっと寄り道をする人が多くなるでしょう。余談はさておいて、オーストラリアには 何年お住まいですか?
1952年にオーストラリアにきましたから、50年になります。第二次世界大戦が終わって7年後、私は28歳でした。

 

*ご出身はどちらですか?

ポーランドのロシアとの国境に近い小さな村です。そこで生まれ育ちました。

 

*オーストラリアへは、ポーランドから直接移住されたのですか?

いいえ、直接ではありません。強制的に村から連れ出され、ソ連の収容所に送られたのが1940年で私は16歳でした。
 
 
*ソ連の収容所に? 第二次世界大戦が始まった時ですか?
いいえ、ヨーロッパで戦争が始まったのは1939年です。ヒットラーのドイツ軍が チョコスロバキアを侵略した後、ソ連と不可侵条約を結んでポーランドに侵攻しました。 ポーランドは西半分をヒットラーに、東半分をソ連に侵略され二つに分断されました 。私がいたのはソ連との国境に近い村でしたから、ソ連に占領されました。占領の間、およそ300万のポーランド人が家畜を運ぶ貨車に乗せられて、ソ連に抑留されました。ポーラ ンド人は共産主義者として不適格だから教育が必要だ、という理由でしたが、目的は強制労 働でした。私もそのうちの一人で、カザキスタンの収容所に入れられ 、強制労働をさせられました。最初は農場で、次に鉄道路線を設置する現場で、枕木を運んだり、敷いたり、その上に線路を乗せる重労働でした。カザキスタンには炭鉱があって、石炭をカザキスタンからソ連 の産業地帯へ運ぶ鉄道を敷くためでした。私はここで1941年のクリスマスまで強 制労働をさせられました。 
この年6月、ドイツは不可侵条約を破ってソ連に侵攻しました 。そのため、ソ連はドイツとの戦線を補強するために、ポーランド軍の編成を許可し ました。若くて健康なポーランド人は、軍隊に入れることになったので応募しました。 入隊と同時に、私は厳しい適正検査を受けました。身体検査に知能検査を受けた後、オフィサーになる訓練を受けました。何 故かというと、ソ連はポーランドに侵攻したとき、ポーランド人の将校、士官などの軍人や 指導的なプロフェッショナルをほとんど全部銃殺してしまったのです。だから軍隊を作 っても、何も知らない下級兵や民間人ばかりで、すぐに軍隊を編成するのが無理だったのです。それで将校などのオフィサーを緊急養成す る必要があったわけです。私と他の隊員はオフィサーになる訓練を受け、1942年の秋にイラクに送られました。
 
*イラク? それはまたどうしてですか?
そう、イラクです。当時のイラクは英国の支配下にありました。そのイラクで英国式の武器を扱う訓練を受けました。なぜなら私たちはソ連でソ連製の武器を扱う訓練を受けていたので、英国製のものはすぐにはつかえませんでしたから。砲兵の訓練を終了した後、今度は、トラックやバスを運転する即席コースで訓練を受けました。
 
*北アフリカで、砂漠の狐といわれたドイツのロンメル将軍が猛威をふるっていたころですか?
そうです。ドイツ軍はエジプトのカイロまで進出してきていました。イギリスはアフリカでドイツに手を焼いていました。だからこそ、ロシアはイギリスの要請に応えて、ポーランドの軍隊を中近東に送ることに同意したのです。私たちはアフリカで訓練を受けて、イタリアに行き、ドイツとイタリアと戦うはずでしたが、状況がかわりました。ヨーロッパではイギリスがドイツと戦っていましたが、苦戦し多くのパイロットが戦死して不足していました。イギリスからまた要請がありました。イギリスで特訓を受けさせてパイロットを養成するから、適正なボランティアを募ってイギリスに送るように、というものでした。私は若くて自信があったので応募しました。様々な適性検査を受けた後、私は合格しました。1943年5月、エジプトのスエズから船に乗りアフリカをぐるっと南下して回り、途中、南アフリカのダーバン、南アメリカのリオデジャネイロ、西アフリカのフリータウンにより、スコットランドに着きました。

*それは大変な長旅ですね。どのくらいかかりましたか?
約7週間でした。スコットランドのグリーノックに着いたのが1943年6月23日でした。着いて間もなく新たに部隊が編成され、キャンプでパイロットの集中養成訓練が始まりました。しかし、私はアフリカにいた間にマラリアにかかっていたことがわかりました。2ヶ月間病院に入院しなければなりませんでした。退院したとき、私はパイロット集中養成訓練の順番の一番最後になっていました。私がパイロットの訓練を終了し、出撃の出番を待っていた時、ドイツが降伏し、戦争が終わりました。私はキャンプに残ってこれから先どうすべきか考えました。そのまま部隊に残ることもできましたが、私はカレッジに入って学び技術を身につけることにしました。エンジニアリングを勉強したかったのですが、すでにコースは満員でした。入れる余地があったのは、ノッティンガムカレッジのテキスタル(繊維)コースだけでした。それでテキスタルコースに入りました。

*テキスタイルコースに興味がもてましたか?
繊維機器はあらゆる器械のうちでも、もっともオリジナルで美しく素晴らしいものだと思います。産業発達の過程であらゆる器械の発達のもととなった器具です。私はメカニックなものに前から興味がありましたから、そういう意味で繊維機械に興味をもちました。

 
*織り機というのは、人間にとって身近で最も古い機具の一つでしょうね。
その通りです。古代からありました。そして今ある最新の医療やコンピューター、計算機、すべての機具、機械のもともとのアイディアは機織機から出て発展したものです。イギリスで3年間学びテキスタイルコースを終了しましたが、良い就職先がありませんでした。それで新聞広告で探したらアメリカとカナダ、オーストラリアで仕事がありました。そのうちのカナダかオーストラリアがいいと思って両方に応募しました。どちらからも受け入れられましたが、オーストラリアからの返事が先にきました。それでオーストラリアに来ることにしました。         
 
  *そうだったのですか。
 イギリスではテキスタイルコースを学んでいる間も、コースを終了してテキスタイル産業の現場にいた間でも、1952年まで、私は空軍の予備パイロットとして余暇に空を飛んでいました。パイロットの技術を保つ為には続けることが大切ですから。それでオーストラリアにきてからも飛び続けていたかったので、オーストラリア空軍に応募してパイロットの実施訓練を続けさせてもらえるか打診してみました。オーストラリア空軍では、OK 来てみなさい、といってくれまた。それで、カレッジのイギリス人のボスに、仕事とは別にパイロットの実施訓練を続けたい、と相談しました。彼はだめだといって許可を出してはくれませんでした。勝手なことはできません。あなたはここで生徒に教える義務があります。そういわれて私は空を飛ぶことをあきらめなければなりませんでした。

 

*そうですか。それはとても残念なことですね。それでオーストラリアでのお仕事は?
テキスタイル産業界でのマネージメントとインストラクターの仕事が主でした。テキスタイル産業の技術は、第2次世界大戦後、ものすごい勢いで進歩しました。だから教えるにしても現場を知っていないと、時代遅れになってしまいます。それで私は、産業界で仕事をするのとカレッジで教えるのとを交互にくりかえすようにしていました。
*海外でも仕事をされたのですね。
ええ、国連開発機構の仕事で、当時はコロンボといわれたスリランカの首都に2年間滞在しました。この時は子供たちはもう成長して親から独立するようになってきていましたから、家族の心配をする必要がありませんでした。スリランカでは全くゼロから始めねばなりませんでした。もちろん私自身が直接指導にあたりましたが、何人かは技術習得のためにイギリス、日本、イタリア、ドイツにも派遣しました。当時は日本からも技術指導の人が来ていて、この時初めて日本人と知り合いになりました。ジェトロのスタッフと知り合い、日本の大使とも知り合って、よく一緒にブリッジをしました。
*ご家族のお話をうかがってもいいですか? 
オーストラリアに来てから2年後、1954年に結婚しました。相手はオーストラリア人で子供を4人もうけました。みな男の子ですが、とてもよくできる子供たちです。全員メルボルンの名門私立校から大学に入りました。4人全員を私立校に通わせるほどの経済力はなかったので、みな奨学金をもらって卒業しました。一人は数学の教授になってキャンベラ大学で教鞭をとっています。一人はオイルパイプのエンジニアで、ビクトリア州のオイル供給ライン開発の仕事をしています。一人はアメリカでビジネス・ディベロップメント・アドミニストレーターの仕事をしています。最後の一人はアフリカのオイル開発の現場で5年働いた後、フランスへ行ってパリ大学でビジネスと法律を学んで、現在は銀行家になっています。子供たちにはとても満足しています。幸せな家庭を築きました。けれど、妻が1994年に亡くなりました。大変なショックでした。立ち直るのに2年かかりました。この大きな家にたった一人で住んでいたのですが、2年目になって、このままではだめだ、なんとかしなければ、と思いました。それで近くに海外からの留学生が在籍する学校があるので、アジアからの留学生たちに宿を提供することにしました。日本からの学生や先生がたくさん私の家に滞在しました。そして3年前に日本から来た、とてもいい人にめぐり合って一緒に暮らしています。私は女性にはついているのですよ。私の母も、妻も素晴らしい人でした。息子たちの嫁もみな美しくてそれに良い母親です。
*ポーランドを訪問することはおありですか。
ポーランドには数回帰りました。海外にも何度も出かけました。私はテキスタイル産業の技術開発やトレーニングなどの技術書をたくさん書いているので、海外での会合やセミナーに招かれてでかけました。その合い間にポーランドにもいきました。         
*ポーランドは変わりましたか? 特にソ連の崩壊後は?
もちろんです。ソ連のような共産主義の独裁国がどんな国であるか、国家が人々をどんな風に扱うか、あなたには想像もできないでしょう。オーストラリアでも、例えば労働組合とかジャーナリズムなどで共産主義に同調するような、または賛美するようなかつての態度をみると、あなた方は何にもしらない! と叫びたくなりました。ソ連の初期の産業の発展は、シベリア開発にしろなんにしろ、ほとんどが自国や他国の人々の無償の強制労働によるものです。先に話した様に、第二次世界大戦勃発とほぼ同時に、ポーランドはソ連に占領され、私はカザキスタンの収容所に送られました。私は兵隊でもなんでもなく、16歳のポーランドの高校生でしたが炭鉱で強制労働をさせられました。気候も環境も厳しく、特に彼らの人々の扱いは残酷で過酷でした。ソ連の崩壊後、もちろんポーランドは変わりつつありますが、半世紀以上もソ連の支配下にありました。この55年間の損失は簡単には言い表せないほど大きなものです。         
*日本では、バブル崩壊後の「失われた10年」というフレーズが流行っていますが、ポーランドの場合は失われた戦後の50年ということになりますね。
戦争で死んだ人の数も膨大です。日本人もたくさん死にましたね。私は最近わかってきました。第二次世界大戦について英語で書かれたもののすべてが必ずしも真実ではない、ということです。私が最近手にした「第二次世界大戦の世界地図」という出版物によると、あの戦争による日本の死者の数は、東京大空襲、広島、長崎の民間の死者とあわせると、アメリカ、イギリス、オーストラリアなどの連合国側の総計の数倍になる、ということですが、ポーランドの場合、さらに10倍になります。日本の人々は第二次世界大戦中に事実を知らされていませんでしたね。もし戦況などの実態を人々が知っていたら、もっと早く降伏して東京大空襲、広島、長崎の惨事は避けられたかもしれません。事実はあきらかにされるべきですが、ソ連や戦前の日本のような独裁政治下では、人々は事実にアクセスすることができません。         
*オーストラリアでは、日本軍がよく非難の対象にされます。ダーウインやシドニー攻撃、捕虜虐待などで。
しかし、数からいったら比較にならないでしょう。捕虜虐待にしても、日本の民間人が東京大空襲や原爆投下で受けた苦しみと比較して、決してきわだった残酷さとはいえないでしょう。私は事実は数字で示されるべきだと考えます。        
*ボブさんは現在はリタイアーされて、悠々自適の老後生活を楽しんでいらっしゃるのでしょうね。
メルボルンの郊外に農場をもっています。牛などの動物を飼っていて、松の植林もしています。実際の仕事は今では人にまかせていますが。趣味の一つにブリッジがあります。ブリッジは家族がしているのを肩越しにながめて、子供の頃に覚えました。以来、戦争中、イラクからスコットランドに向かう7週間の輸送船の中で、パイロットの訓練中、出番を待つ間などによくしました。そうそうコロンボでも日本大使としました。今ではインターネットを使って、海外の人とゲームを楽しんでいます。日本の人ともしますよ。私は若い時にひどい過酷な体験をしましたが、それだけにその後に人生はいつも精一杯努力し、楽しんでいます。そしてポーランド人も日本人もドイツ人もフランス人も個人として知り合い、理解しあえば、人間として違いはそれほどありません。みな同じなのだと思うことができるようになりました。
*本当にそうですね。今日はお時間をさいてインタビューの機会をいただき、貴重なお話をきかせくださってありがとうございました。
今の私にとって、時間はそれほど貴重ではないのですよ。あなたはこのインタビューをどのように料理するつもりですか?        
*お話の全部を掲載することはできませんが、とても興味深い記事にできると思います。ボブさんは生まれたお国と時代のために、とってもユニークで貴重な体験をされています。人は生まれる国や時代を選ぶことはできませんし。

そうです。わたしは時代の嵐の中の1本のストローのようなものでした。でも、そのなかでいつもベストをつくしてきました。

インタビュー: スピアーズ洋子


(c) Yukari Shuppan
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