MELBOURNE Street by Street (12) |
Bourke Street ― その 5 ― The Myer Store |
ケン・オハラ |
Sidney Myer がロシアからメルボルンに来たのは20歳の時であった。それから100年以上の歳月を経て、私たちがBourke Street を歩いていると、メルボルンの大きなデパートである Myer Department の前にる。Myer Department の歴史は Myer 家の歴史でもある。 Sidney Myer のオーストラリアでの最初の仕事は、すでにメルボルンにいた親戚の仕事を手伝う形で出発した。その後、ビクトリア州の田舎を廻るセールスマンとなったが、数年後には Bendigo に店を構えた。この店が大当たりであった。1911年には Bourke Street にあった店を買い取り、商売を始めるまでになっていた。さらに1914年には、この店を8階建ての百貨店に改築した。現在の Myer の創立であった。 オーストラリアでの Sidney Myer の業績に対する評価は、国内の小売業で最も成功した実業家であり、1934年に彼が他界するまで、オーストラリア屈指の富豪というものであった。 すでに会社組織になっていたものの Myer 家の事業は、1950年までは初代 Sidney Myer の甥にあたるNorman Myer が経営をリードしていた。次の1970年までは、彼の長男 Ken が、その次は Ken の息子Sidney が 1980年まで経営を引き継いでいた。 Myer 一族はメルボルンの実業界でも傑出しており、社会的にも多大に貢献している有名な人たちである。現在コンサート、音楽祭などの催しでよく使われる Sidney Myer Music Bowl のオリジナルの建物は、1950年代にMyer 家がメルボルン市に寄付したものである。 しかし、最近の Myer一族は実際の会社経営からはほとんど手を引いてしまっているようだ。 Ken Myer は Australian Broadcasting Corporation の理事長をはじめ多くの役職を兼任した。彼の妻は日本人で、夫妻はアラスカへの旅の途中、飛行機事故に会い不慮の死を遂げた。 Myer 社は1985年にオーストラリアで最大級の the Coles group と合併して以来、小売業界最大の会社となったが、 数年前には金銭にからむスキャンダルに見舞われた。 合併が会長の親族会社へ利益をもたらすように図られているのではないか、という理由で調査されたし、社長は何百万ドルもの会社の金を Templestowe に自宅を建設する際に使って、監獄に入れられた。また2002年には会社経営の主導権をめぐって激しい争いがあった。 とはいえ、Bourke Street Mall に一時店を出したものの泡のように消えていった多くの会社とことなり、Myer は手堅く存在している。 Bourke Street のこのブロックは、メルボルンの小売店のセンターであると同時に、小売業者の墓場としても知られている場所である。 現在ここには David Jones, Katies, The Walk, Centrepoint があるが、これらのビルはかつては有名なデパートメントストアで占められていたのだが、そのほとんどは経営破綻で姿を消してしまった。 当時からひき続いて残っているのは Myer とRoyal Arcade だけである。Royal Arcade は130年以上の歴史があり、建造当時の原型をほとんど損なわずに保っている。 ここは一見に値する。アーケードの中ほどに木彫りの巨人が時を刻む為に木槌を構えて立っている。1時間の区切り目に合わせて訪れてみると良い。
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