この国の成り立ち (13)
―――ジョン マッカーサー(John Macarthur)<2> ―――
前田晶子
羊の改良に専念しながらも、マッカーサーは総督とやはりぶつかり合っていました。マッカーサーは、軍の力を弱めようとする総督に腹を立てて1796年に軍職をやめていましたが、依然として、軍への影響力は絶大なものでした。しかも、1801年から1805年のイギリス行きで、産業界に有力な味方が出来ていましたので、彼の本国への進言で辞めさせられる総督もいました。お金と権力の力でごり押しをしようとしたマッカーサーと総督とが、ついにお互いを逮捕し合うという有様になりました。勝手に総督の座に就いた軍の指揮者は本国へ帰されました。マッカーサーは影の実力者であったので、表沙汰にはなりませんでしたが、1809年自らイギリス行きを決めました。逮捕を恐れ、8年間イギリスに滞在しました。
この時マッカーサーは息子2人を連れて行き、この8年間を子供達の教育に当てました。こうしてマッカーサーが何年も留守にしている間、牧場を切り盛りしたのは奥さんのエリザベスでした。彼女は前向きの明るい性格で、結婚14ヶ月で幼児を連れてやってきた見知らぬ土地でも、すぐに知人に教えを乞い植物学を学び始めたほどです。イギリスで祖父と農業をして暮らしていたこともありました。マッカーサー以上に羊の改良に熱心でした。農作物もよく育てました。雇っている囚人達の尊敬を集め、彼らは従順によく働いてくれました。マッカーサーの甥の手助けもありましたが、ひとえにエリザベスの努力の賜物で牧場は発展して行ったのでした。
ほとぼりも冷めた1817年、50歳のマッカーサーは子供を連れて帰り、牧場の仕事に戻りました。当時の総督とはまずまずの関係を保ちながら、そのうち植民地運営の役職にも就きました。1822年にはロンドンの工芸技術協会(The Society of Arts)からマッカーサーの羊毛の高品質が認められ、金メダルを送られています。1830年、40年住み慣れたパラマッタのエリザベス農場から、郊外のカムデンに移りました。マッカーサーは昔初めてニューサウスウエールズへやって来る航海中に、生きるか死ぬかの大病をしています。この病は彼の生涯何回となく襲ってきて苦しめました。とうとう1832年にはまわりからは気が狂っていると思われるほどになり、1834年67歳で亡くなりました。
対外的には争いの多かったマッカーサーでしたが、良き家庭人で、息子5人、娘3人に恵まれました。男の子のうち1人を小さい時亡くしましたが、成人した4人の息子達はよく父親を助けました。長男は少年の時イギリスへ戻り、教育を終えると軍人になり、そのままイギリスに留まり、マッカーサーの羊毛売りつけの窓口となってよく働きました。他の息子達は農場経営に両親と共に立ち働きました。こうして、マッカーサーの羊毛への熱意は奥さんのエリザベス、そして子供達に引き継がれて、オーストラリアの羊毛産業の基礎を築きました。マッカーサーは「羊毛産業の父」と称されています。
エリザベスは、マッカーサーなき後も牧場の仕事に励み、1850年娘の結婚先で静かに生涯を閉じ、マッカーサーと同じくカムデンに葬られました。7人の子供達に宛てたたくさんの手紙のどれにも、愚痴一つ書くことなく、常に穏やかで親切な人柄は皆に愛され、その業績と共に、オーストラリアのファーストレディー、偉大な女性として崇められています。
・主な参考図書
Dreamtime
To Nation by Lawrence Eshuys Guest (MacmillanAustralia)
Our Explorers school project material (Child & Henry)
A Country Grows Up by J.J.Grady
(Cassell Australia)
Australian Encyclopaedia Volume 5 (Australian Geographic Pty Ltd)
その他の参考資料は連載の最後にまとめて表示します。
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