この国の成り立ち (14)
―――ラム革命 ―――
前田晶子
歴代の総督は、ラム酒を賃金代りに使ったので別名ラム軍とまで呼ばれるようになってしまったニューサウスウェールズ軍の力を弱めようと躍起になりました。総督代理を務めたグロース(ラム軍にした張本人)は2年で辞めさせられ、本国へ帰されました。代わりに差し向けられた総督代理は、イギリス政府からラム酒を初めとする乱れを正すよう命令されましたが、すでに力をつけてしまった軍は彼を無視し続け、依然として自分達の利益になる勝手な振る舞いをしていました。
ようやく政府は正式にハンターを総督として任命しました。ハンターは就任の時から、軍の力を弱めることなど到底無理と感じていました。すでにマッカーサーの影響力の下にあった軍はことごとくハンターに逆らいました。士官達はハンターを無視し、マッカーサーはイギリスにハンターの不手際を訴える手紙を出しました。政府もしだいにハンターをあきらめ、「植民地は一向に改善されず、しかもお金を使いすぎた」と彼を解雇しました。5年でハンターは失意の下に植民地を去りました。
次に任命されたのは、キングです。6年間総督の座にありましたが、彼もまたマッカーサーに率いられた軍と衝突しながら苦しい立場にありました。政府は軍の力を弱めるため、数々の指示をキングに与え、彼は就任するとすぐにそれらを実行に移そうと努めました。しかし、皮肉なことに、それを行うには軍を使わなければならなかったのでした。兵隊はキングの命令を聞こうともせず、マッカーサーは軍に総督を無視するよう説得する有様でした。ある時総督側についた軍の指揮官と対峙したマッカーサーが、遂に決闘に臨み相手を傷つけてしまいました。この機を利用して、キングはマッカーサーを取り調べのため、本国へ帰すことに成功しました。
ある時、カースルヒル(シドニーの西)の囚人1000人が暴動を起こしました。アイルランド人の囚人が音頭を取ったものです。いち早く知らせを聞いたキングは、軍隊を差し向け、自らも馬を飛ばし、この反乱をみごと治めましたが、ちょうどまだイギリスにいたマッカーサーが、植民地の問題はすべてキングのせいであると政府を説得してしまったのでした。手柄を認めてもらえず、疲れ果て、病気にもなってしまったキングはイギリスへ戻りました。
次の総督はブライです。就任の際、マッカーサーが自由移民の代表として前へ進み出て、歓迎の挨拶をしました。しかし、「マッカーサーは決して我々の代表などではない」}と訴えた小農民の言葉によって、ブライは総督としてマッカーサーと対決する決意をしました。次々と強行策を打ち出すブライと軍の影の実力者、マッカーサーは翌年には早くもぶつかり合いました。小農民の味方のブライと自分の得を考えるマッカーサーがうまくいくはずはありません。ブライがマッカーサーを牢屋に入れても兵隊はこっそり出してしまうし、裁判になっても判事はマッカーサーの息がかかっているので、公正な裁判にはなりません。1808年、酒の勢いにまかせた兵隊が総督邸になだれ込み、ブライに総督を辞めろと迫りましたが、ブライは拒否しました。ブライは公邸に幽閉され、軍の指揮官は自分から総督代理を名乗り、マッカーサーを副総督代理としてしまいました。この状態は1年続きました。いわゆるラム革命(The Rum rebellion)と呼ばれるのはこのことです。
1809年正式の総督代理がきて、ラム革命は終わりを告げました。軍の指揮官は本国に送り帰らされ、裁判の結果有罪となりました。2年間の短い総督期間(1年間は幽閉)でしたが、ブライは功績を認められ昇格しました。取り調べのためニューサウスウエールズ軍は本国に帰らされ、消滅しました。ラム軍が幅を利かせた17年の間にも、植民地は確実に発展していきました。
・主な参考図書
Dreamtime
To Nation by Lawrence Eshuys Guest (Macmillan
Australia)
1822-1850
Our Explorers school project material (Child & Henry)
A Country Grows Up by J.J. Grady (Cassell Australia)
その他の参考資料は連載の最後にまとめて表示します。
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