Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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インタビュー (14)     ユミ・スタインズ
                                
  
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。 今月のこの人は、Foxtel、Channel V のミュージック番組でプレゼンテーター、司会者として活躍していらっしゃるユミ・スタインズさんをお訪ねしました。
 
*ユミさんは、お生まれはオーストラリアですね。ご両親のお国はどちらですか?
私はビクトリア州の北部、マリー川のそばのスワンヒルという小さな田舎町で生まれました。母は日本人で東京出身、父はオーストラリア人でメルボルン出身です。

*スワンヒルは明治時代に日本の高須賀穣という人が移住して稲作を試みたところで、現在もお米を作っていますね。でも今年は干ばつで収穫が心配ですね。スワンヒルでの幼少時代のどんな思い出がありますか?
私たちが子供の頃のスワンヒルはヨーロッパ系の移民だけが住んでいた町でした。アボリジニー、イタリア人、ギリシャ人たちはいましたが、アジア人は母だけでした。あっ、他に中国人の家庭が一軒ありました。そんなところですから母親がアジア人の私たちはとても目立ちました。 

*アジア人だからということでいじめられたことはありますか?
そうですね。多少はありました。私は4人兄姉の末っ子ですから、兄や姉にはそういうことがもっとあったかもしれません。私自身もジャップなどと言われると傷ついていました。でも20年以上も前のことです。今はオーストラリア人も変わってきて、そんなことを言う人はいないし、いたとしても、そんな言葉自体、特に意味があるわけではない、とわかってきたから、私はいわれても平気でしょう。

*お母さんも町でたった一人の日本人として大変だったのでしょうね。
そういう面での母の苦労は、私は直接は知りませんが、母が日本の文化をスワンヒルに紹介する努力をしていたことは知っています。

 
*どのようにか具体的にごぞんじですか? 
ええ、スワンヒルに日本の学生をたくさん招いていました。夏休みとか春休みの2週間ぐらいの短い滞在ですが、スワンヒルでホームステイをしていました。後にはスワンヒルの学生も山形へ行ってホームステイをしていました。スワンヒルでは日本人学生を家に泊めるとか、子供が日本へ行ったとか、日本との関わりが皆無な家庭はない、くらいです。 パーティをして、すき焼きをつくったり、折り紙をして見せたり、、、、。それから山形名物の芋煮会、などもしていました。まだテレビの多国語放送やインターネットが普及していないときでしたから、スワンヒルにとっても、数少ない外国との交流の窓口だったと思います。あれは本当の草の根外交でした。スワンヒルの人々も母の努力に感謝していました。
 
*日本人の母親のもとに生まれてラッキーだと? 
いつもそうだったわけではありません。高校生の時、私にはボーイフレンドがいませんでした。当時私は自分にボーイフレンドができないのは、自分が半分アジア人だからだ、と。それが唯一の理由ではなくても、理由の一つだと思い込んでいました。今から考えるとばかばかしいことですけど。
 
*両親が国際結婚の場合、子供にとって有利なことも多い、とは思いませんか?
もちろんです。特に私が大学生の頃は、強い日本経済をバックに日本文化が流行になりました。ジャパンといえばファッショナブルの代表でした。テクノロジー、アート、グラフィックデザイン、ファッション、日本食など流行の先端でしたから、私は半分日本人であることをとても誇りに感じていました。

*大学では何を勉強されましたか?
アート(日本でいう文化)で、その中の歴史、映画・テレビ産業を学びました。

*学生時代、自分はどんな仕事をしたいか、何になりたいか、分かっていましたか?
いいえ、自分が何をしたいのか、自分には何が向いているのか、全くわかっていませんでした。私にとって大学に行くということは、自分の将来の決定を先延ばしにする、ということでもありました。ただ大学時代にボランティアでラジオ局で働き始めて、特に音楽番組が大好きだったので、もし機会があったら将来こういう仕事をしたい、とその頃、思い始めました。

 
*では、映画とかラジオ・テレビの世界で仕事をしたいという、漠然とした方向付けは出来ていたわけですね。
ええ、でも大学でのディグリーは、私の就職の何の保証にもなりません。大学を卒業するというのは、それまでの私の人生で最も不安で恐ろしい時でした。高校生の時には、卒業してたら大学に行く、とわかっていました。けれど、大学の場合、卒業したら、すぐさま社会の現実に直面させられます。学生時代はウエイトレスとかバーメイドとかのアルバイトをしていましたが、それは大学生という身分で勉強をしながらの、あくまでも短期のアルバイトでした。それが、大学は終わり、かといって自分がしたい仕事はみつからない、宙ぶらりんの状態で本当にショックでした。        
 
*その状態は、オーストラリアの多くの若者に共通する体験のようですね。日本では、今までは学生は在学中に就職先が決まって、卒業するとほぼ同時に働き始めるので、そのようなショックを経験する機会もなかったのですが。
 大学を卒業してしばらくの間、アルバイトを続けながら友人たちと短編映画を創りはじめました。短編映画のコンテストやフイルムフェスティバルへの入賞をめざしていました。その後、オーストラリアをもっと知りたくなって、旅に出ました。この旅は1年半続きましたが、私にとって、とっても意義のある大事なものとなりました。なぜなら自分自身を知るきっかけになったからです。

 

*どんな旅だったのですか?
一人で東海岸を北上して北端のケープヨーク半島まで行き着きました。ここでラジオ局の仕事がみつかりました。ちゃんと給料がもらえる仕事は初めてだったのでうれしかったです。
*ケープヨークのどの辺ですか?
木曜島です。小さなコミュニティベースの仕事でした。ミュージックあり、インタビューありで、何でもありのトークショーといったものでした。インタビューはロックスターではなく、ローカルのバスケットボールのキャプテン、といった具合で本当に小さなコミュニティのラジオ局です。
*木曜島の人口はどのくらいなのですか?
 はっきりとは覚えていませんが5000人ぐらいだったと思います。島の人たちはほとんどがインディジネス、アボリジニーです。ラジオ局でもアボリジニーでないのは私だけでしたが、みんなとてもフレンドリーでいい人たちです。それに木曜島は日本人と関係の深い島なのです。ずっと以前に日本人の真珠採りたちがやってきて住み着いていました。だから先祖に日本人の血が混ざっている人たちがいます。肌は黒いのですが、眼や髪は日本人のものなんですね。日本人の墓地もあります。日本の鳥居や墓石などが残っています。日本の断片があちこちにある、という感じです。メルボルンを発って何千キロと旅をしてきて、その間では日本の影も形も全くなかったのに、この小さな島で突然日本が立ち現れてきた、というか、本当に不思議な感じでした。私がラジオ局の仕事を得たのも、私の中に日本人の血がある、というのも理由の一つだった、と思います。
*ラジオ局の仕事はどのくらい続けられたのですか?
半年ぐらいでした。強いホームシックにかかってしまって。初め私は歓迎されましたけれど、やっぱり私はそこではノンブラックの白人なのです。その壁も半年で仕事を止めた原因の一つでしょう。子供の時は、白人じゃない、アジア人だ、といわれてきたのに、木曜島では、あなたは白人だから、といわれてしまったのです。インディジネス文化はそれなりに興味深いものですが、個人的に私が興味をもっているのは、違うものです。ギャラリーに行ったり、映画を観たり、ロックコンサートへ行ったり、という生活がたまらなく懐かしくなってメルボルンに帰ってきました。         
*Foxtel の音楽番組Channel V の仕事はどのようにしてみつけたのですか? 
司会者募集のオーディションに応募をしました。1年半の体験で、私自身がすごく変わりました。たいがいのことは出来る、という自信もついたし、人生どんどんチャレンジすべきだ、と思うようになっていました。オーディションを受けてみたのも、その一つです。         
*オーディションを受けたのは何人で、何人採用されたのですか?
全国的に募集、オーディションがあって、応募者は3000人と聞いています。最後まで残り採用されたのは2名です。         
*それはすごいですね、素晴らしい。それで具体的な仕事の内容は?
Foxtel のChannel V という若者向けの音楽番組のプレゼンテーターをしています。スタジオでミュージックショーの司会をしたり、ロックコンサートやミュージックフェスティバルの実況放送をしたり、インタビューをしたりしています。インタビューはいつもする方なので、今日はされる立場になって、緊張しました。        
*でも、雑誌やなにかに時々登場していますね。写真をよく見ますよ。時々インタビューされているではありませんか。お仕事で日本語を使うことはありますか?
たまにあります。去年は日本からのオーディオアクティブをインタビューしました。でも私の日本語では簡単な挨拶くらいしかできません。それですぐ通訳専門の人に代わってもらいました。
*ユミさんは現在テレビのプレゼンテーターであると同時に母親にもなったのですね。大きなお腹でロックのリズムをとったり、インタビューしたりしているのをテレビで観ましたが、仕事はどのくらいまで続けていたのですか?
出産の2週間前までです。       
*それは凄い! つなぎの服を着て出ていた時がありましたね。オヘソの下5センチ位までしかジッパーが上がってなくてお腹丸出しで。お腹が大きくてあそこまでしかジッパーが上がらないんだな、と思って観ていましたけれど、あの姿は感動的でした。素晴らしいことですよね。
肉体的、物理的にもけっこうきついこともありました。スタジオに出てダンスをしたり拍子をとったりすることもありますから。でも妊娠中の女性があのようにして働く姿は以前には見られなかったことでしょう。特にテレビの仕事では。その点で、若い女性の視聴者には良い励みになったと思います。妊娠して大きなお腹になったからといって、いろいろなことをギブアップすることはないよ、母親になるということで人生の可能性をあきらめることはないのよ、というメッセージにもなったと思います。 
*同僚とか周りの人たちの反応はどうでしたか?
とても暖かく支援してくれました。テレビのクルーを初めとして、みんなとても親切に様々なことで助けてくれました。私自身がそのことで驚いたほどでした。スタジオにきた子供たちもその母親たちも、とても肯定的な反応を示してくれました。ほんのわずかな人だけが、「うわっ、その格好なんとかならないの」みたいな態度でしたが、ほんの少数でした。 
*今でもテレビのお仕事は続けられていますか?
はい。娘の父親は、とても理解のあるパートナーで、娘のめんどうをよくみてくれますので。おしめを取り替えたり、お風呂に入れたり、ミルクを飲ませたり、離乳食を食べさせたり、乳母車で外に連れ出したり、なんでもみんなしてくれます。 
*パートナーは何をしている人ですか?
ミュージシャンです。ギターリストで、リガジテーターというバンドを構成していて、作曲もします。コンサートをしたり、国内や海外にもツアーに出かけます。日本へも行きましたよ。 
*では、彼自身もけっこう忙しいのではありませんか?
でも、コンサートやツアーが毎日あるわけではありません。忙しいのは短期間に集中しているので、それ以外の時はよく子供の面倒をみてくれます。 
*仕事と母親とパートナーと三つをこなしていらっしゃるわけですが、プレッシャーを感じることはありますか?
それほど強くは感じていません。子供が生まれてから、仕事と家庭のどちらかを選ばなければならない時は、いつも家庭の方を優先しています。私の上司は女性で2児の母親でもある人なので、とても理解があって、その点はラッキーで恵まれています。 

*ユミさんはパートナーにも職場にも、うらやましい程恵まれた方ですね。これからもますます充実した生活をなさってください。今日はお忙しいところをありがとうございました。

インタビュー: スピアーズ洋子

(c) Yukari Shuppan
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