MELBOURNE Street by Street (14)
Little Bourke Street ―
その 1 ―
ケン・オハラ
これまでBourke Streetを歩いてきたが、このあたりで
ちょっと曲がって、メルボルンのチャイナタウンLittle
Bourke Street に入ってみよう。
ここには Museum of Australian Chinese History
があるが、この博物館を訪れるまでもなく、この Little
Bourke Street
そのものがすでにオーストラリアの中国人の歴史でもある、といえるだろう。この一帯は過去150年間ずっと変わらずチャイナタウンであり続けた。
1850
年代にビクトリア州で金鉱が発見されると、たちまち何千という中国人がやって来た。その数に恐れをなしたビクトリア州政府は、中国人の上陸を拒んで船の入港を拒否した。しかし、彼らはNSW州やSouth
Australia 州に入港し、徒歩で州を越えてやってきた。South
Australia 州には彼らの上陸地点に記念碑が建っている。
チャイナタウンの不動産のいくつかは、1850年代に中国の広東省から移民してきた人たちの組織団体がオーナーとなっている。The
Kong Chew Society は Tattersalls Lane にある 232 Little Bourke Street の後ろにあるビルディングのオーナーである。The
See Yup Society は 193~195 Little Bourke Street のオーナー。The Num
Poon
Soon Society は 200~202 Little Bourke Street (これはSam-Yup Society のために建てられた。)のオーナーである。
その他に、109 Little Bourke Street の Kuo Min Tang も興味深い建物である。 この建物は80年以上も昔にKuo
Min Tang が買った。1921年、Kuo Min Tang
は当時(現在でも)オーストラリアで最も有名な建築家 Walter
Burley Griffin に建物の正面の改築デザインを依頼した。
Walter Burley Griffin
はアメリカ人で、以前に東京にあった旧帝国ホテルを設計した
Frank Lloyd Wright とも関連のあった建築家である。キャンベラがオーストラリアの新首都となった時、市のデザインが国際的に公募され、1911年、見事に賞を獲得したのが
Walter
Burley Griffin
だった。たいがいのオーストラリア人は、彼がキャンベラ市を設計したことを知っている。しかし、彼の妻
Marion Lucy Mahony
も建築家で、彼女もキャンベラ市のデザインに大いに貢献したことはあまり知られていない。
Walter Burley Griffin
はキャンベラ市建設のスーパーバイザーとして数年間働いた後、メルボルンに設計事務所を開いた。彼はメルボルンとシドニーの両都市に多くの業績を残している。シドニー郊外の
Castlecrag という地域もその一つである。Castlecrag
は完成された当時はもとより、設計者が1937年に他界した後までも、変わりすぎているという世評であったが、今では人気の高い地域である。彼は市の焼却炉もいくつか設計していて、そのデザインは高く評価されている。シドニーの
Willoughby
にあるのは、いわれなければ焼却炉とは気づかないほどで、ドライブの途中に寄って見る人もいるほどだ。
メルボルンでの彼の主な業績は、やはりチャイナタウンの近くにある
Capitol House (109~117 Swanston Street)
である。特にこの劇場の天井は、 Walter Burley Griffin
の天井といわれて評価されている。
さて、Little Bourke Street
に戻ろう。ここの通りの小さいビルディングのほとんどは、メルボルンの中国人投資家がオーナーだ。彼らは長い目で投資をしている。メルボルン
CBD
ではほとんどの不動産が7,
8年のサイクルで売買されているが、チャイナタウンではあまり売買されない上、20年以内での売買さえ少ない。
ケン・オハラは中国人の長期思考を歓迎している。彼は25年も
Little Bourke Street
にある同じレストランに通い続けているが、メニューは同じで、味もいつも変わらず、旨い。
copyright: Ken O'Hara
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