この国の成り立ち (1 6 )
マッコーリー総督(2)
前田晶子
スコットランドの貴族出身のマッコーリーには、今までのイギリス出身の総督とは違った面がありました。スコットランドでは一族の長は忠誠心と服従を一身に集めますが、一方で、一族を家族の一員とし大切に扱います。身についたこのような習慣から、マッコーリーは植民地の人々を、囚人も、自由移民も、アボリジニーも同等に大きな家族として扱いました。特に囚人には早く自由の身になれるようにおとなしく仕事に励むことを勧め、無償の労働以外に、収入になる労働もできる機会を与えました。いったん自由の身になった囚人で実力のある人はどんどん採用していきました。分け隔てをしないマッコーリーは、政府の仕事に元囚人の建築家を好んで使い、総督主催の晩餐会にも招待しました。裁判官にも元囚人が採用されていきました。
マッコーリーは歴代の総督の中で、ひときわ秀でた総督として讃えられています。現在のシドニーの繁栄は彼の努力の賜物です。初めは3、4年のつもりで赴任したマッコーリーでしたが、精力的に働き続けるうちに10年の歳月が経ってしまいました。彼の業績は誰しも認める所で、実際に多くの人々が彼の味方でした。しかし、植民地の一部の人々は彼の政策に不満をあらわにしました。それは自由移民達でした。
マッコーリーが総督になった1810年、白人人口は10500人、そのうちの400人が自由移民でした。1821年には人口は30000人に増え、そのうちの2000人が自由移民になっていました。そして、人々の口にのぼる話題は、「いったい、ここは刑務所なのか、植民地なのか。」ということでした。あくまでも流刑地と考えるマッコーリーは、囚人を奨励して自由の身にさせ小農民として自立の道を歩ませ、住みよい国作りをするのが自分の任務と思っていました。したがって、土地の区分も小規模でよいと考えていました。一方自由移民達は、自分達こそは植民地を背負って立つ者、もはやニューサウスウエールズは流刑地ではない、元囚人と我々を同等に扱って欲しくないと主張しました。又自由移民は羊産業に就いている人が多かったので、広い土地を欲しがりました。こうして、元囚人の扱いと土地問題の2点で自由移民は総督と対立していきました。
自由移民達は、マッコーリーを批判する手紙をイギリス政府の高官に出すまでになりました。当時、ナポレオン戦争で財政困難になっていたイギリス政府も、マッコーリーの植民地政策に不安を感じ始めていました。まず、お金を使いすぎること、そして、犯罪者を懲らしめのために送り込んでいるのに、ニューサウスウエールズ植民地は囚人のための再生の場所になりつつありました。とうとう、政府の検査官が調査にやって来ることになりました。メリノ種の羊毛を手に入れたいイギリス政府は、自由移民の側につき、公正な調べが行われないまま、マッコーリーに不利な報告書が本国へ送られました。
植民地のために尽くしてきたマッコーリーでしたが、もう自分の考えでやっていけないと分かると、辞意を表し、政府はこれを受けました。マッコーリーの辞任とともに、ニューサウスウエールズは流刑地ではなく、自由移民の植民地として産業を興し、発展させるべく、イギリス政府は援助することになったのです。とは言え、政府は依然として囚人を送り込んできました。
・主な参考図書
Dreamtime
To Nation by Lawrence Eshuys Guest (
Macmillan Australia)
822-1850 Our Explorers school project
material (Child & Henry)
A Country Grows Up by J.J.
Grady (Cassell Australia)
その他の参考資料は連載の最後にまとめて表示します。
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