Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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インタビュー (16)   シム ナオウ(SIM  NAO)

この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。今月のこの人は、若い時、インドネシアに占領され荒れた東チモールからオーストラリアへ単身移って来て、自分の生活を築いたナオウさんを訪ねました。

(注)オーストラリアの北に位置する島、チモール島の東半分、東チモールは第2次世界大戦前からポルトガルの植民地であった。西半分の西チモールは戦前はオランダ領であったが、戦後、インドネシアがオランダから独立した時、自動的にインドネシアに属した。東チモールでは、1974年ポルトガルの政権が変わったのを機に独立の気運が高まったが、独立寸前の1975年、インドネシア軍が侵入し、一般市民を巻き込んだ戦闘状態となった。長年のゲリラ戦の後、ようやく2002年5月20日、独立国となった。

ナオウさんは中国系東チモールの方ですね。お名前はどんな漢字を使いますか。

苗字のシムは沈、英語読みでSIM, ポルトガル語読みでSEMですが、ここでは英語読みで通しています。私の結婚前の名前です。中国では結婚しても苗字は変えません。名前の方は2字で香りのよい梅という意味で、日本語で書くとしたら倣梅となるでしようが、倣の真ん中がちょっと違うのです。主人の苗字、林(リン)を使う時はミセス リンです。

発音がむずかしいですね。一応ローマ字でNOAとしましたが。

そう、のどの奥から出す音ですからね。英語を話す人はなかなか同じように発音できないので、背中がぞくぞくとする時もありますよ。ですから、英語の名前も使っています。ジェニファーです。子供3人ももちろん中国語の名前はありますが、ケニー、ダニエル、ティファニーで通しています。

 何歳の時オーストラリアへ来たのですか。ずいぶん勇気がありましたね。

19歳でした。1980年の終わり、12月に東チモールを出ました。初めはジャカルタに行ってそこでビザを取るために6ヶ月いました。伯父がすでにオーストラリアにいたので、スポンサーになってもらいました。家族では私が最初に東チモールを出ました。私は5人兄弟の一番上で、両親もオーストラリアへ行くことを勧めました。1975年インドネシアが攻めてきてからは、国の中はめちゃくちゃで学校もなかったので、皆子供を持っている親は将来を考えて、国から出そうとしていました。オーストラリアは近くて安全なので、行く人、多かったですよ。私も友達といっしょに出ました。

ポルトガル領の時は平和だったと聞きましたが、そうでしたか。

ええ、とっても平和でした。ポルトガル人は何もしませんでしたから。のんびりしていました。私も小学校5年生まで中国語の学校に普通に通っていました。インドネシアがきてからは、学校はなくなってしまいました。ポルトガル人は皆引き上げて行ってしまいました。残ったのはポルトガル人との混血の人だけでした。

ビザを取って、オ-ストラリアへ来てからは、どうでしたか。伯父さんの所で暮らしたのですか。

ええ、まず英語学校に6ヶ月行きました。それから、工場で働きました。マタニティーの服を作る工場で事務をして2年くらい働きました。信用されて鍵を預かって仕事をしていました。そのうち、主人と知り合って、というか、主人のほうが勝手に私を見初めてしまったんですけどね。やはり、助け合うために、東チモールからきた中国系は親戚関係、義理の誰々とか言って、よく集まるので、その中に主人がいました。主人はもう10年以上働いていましたから、結婚の3ヶ月前にこの家を買いました。子供が生まれて、私は外に働きに出られないので、家でミシンを踏んで服をぬって内職をしました。主人と2人で一生懸命働いて、7年で家のローンを払い終えました。赤ん坊を見ながら、安い給料で服を作っていた時が一番つらかったですね。でも働けば働いただけの見返りがあるので、この国に来て良かったといつも思っています。この家今はこんなに物が詰まっていますが、初めはがらんどうでなんにもなかったんですよ。お金がなかったから買えなくて、部屋があるだけでした。

今では家族全員オーストラリアへ移ってきてしまったのですか。

そうです。伯父のスポンサーできた私も次には弟、妹達のスポンサーになって呼び寄せました。東チモールではまずポルトガルに移る人も多くて、弟もポルトガルにいたのですが、ここへ呼び寄せました。弟2人、妹2人とだんだんと呼んで、最後には父と母が1989年に来て、7人全員揃いました。主人の家族も全員来ています。

それでは、東チモールが懐かしいとか帰りたいとか思わないでしょうね。

そうですね、皆ここにいますし、もう余り東チモールは関係なくなっています。まだ少し残っている遠い親戚はいますが、連絡はとらなくなってしまっているし。小さい時の平和なのんびりしていた頃を時々思い出すぐらいでしょうか。オーストラリアの市民権を取って20年以上経っていて、ここが自分の国と思っています。中国の文化は守っています。家の中では中国語で話してますし、食事もご飯を炊いて、おかずを作ってと。

* 去年の5月20日、東チモールが独立した時はどう思いましたか。

やはり、うれしかったですが、もう自分の生活があるので、正直に言って、少し冷めた感じです。東チモールのパスポートを欲しいとも思いませんし。メルボルンでの独立のお祝いの会の時も、ちょうどレストランで働く日だったので行きませんでした。

* オーストラリアに来てから生活のためにずっと働いてこられたわけですが、今はどんな仕事をされていますか。

週一回金曜日にレストランで働いています。後は家にいて家事をしたり、のんびりしています。子供が小さい時、働かなくてはならなかったので、今はしっかり子供の面倒をみてやりたいと思っています。幸い主人は毎日働いてくれているので、生活には困らないので。家のローンを払い終わった後は、学校にも通いました。コンピューターも習いました。やはり、英語はきちんとしておきたいので。主人もついこの間まで、英語の学校に通っていました。

長男のケニー君は日本語を勉強していて、日本にも行った事があるそうですね。

7年生(日本では中1にあたる)から日本語を学んでいます。ホームステイで日本に行ってからすっかり日本が好きになってしまいました。日本のお母さんが面倒見がよいので、なついてしまって、帰ってきてから逆にホームシックになっていたくらいです。来年は大学受験ですが、日本語も受験科目にいれるつもりなので、がんばっています。

* 最後にご家族の写真を撮らせて下さい。ご主人はまだお仕事ですね。ダニエル君はシティに遊びに行っているのでしたね。今日は子供さんの学校が休みに入ってゆっくりされているところをお邪魔しました。ありがとうございました。

インタビュアー   前田晶子


 

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