この国の成り立ち (1 8 )
囚人(2) 前田晶子 囚人は到着すると、男と女に分けられました。扱いが違うからです。男の囚人は、政府の仕事に就かされる者と自由移民に預けられる者に分かれました。態度の悪い、反抗的な囚人は、おおむね政府の土木工事など、重労働をさせられました。足首に鎖を付けられるので、チェーン ギャング(chain gangs)と呼ばれていました。チェーン ギャングはいつも監視付きで、夜も小屋に押し込められ、鍵をかけられました。態度の良い、おとなしい囚人は、自由移民の下で働かされました。政府の仕事に就いたとしても事務をやらされたり、又マッコーリー総督がしたように、能力のある者は採用されて立派な仕事を残した囚人もいました。自由移民のために働く囚人は、農場の作業、使用人、信用されれば他の囚人の監督もしました。扱いは主人次第でずいぶんと違いました。チェーン ギャングと変わらないひどい待遇の者もいるかと思えば、自由を与えられ、いい食事や服をもらい、家も与えられ、責任ある仕事をまかせられ、その上土地までもらう者もいました。 女の囚人は、料理人、女中、家庭教師として無給で雇われました。総督や士官も女の囚人を雇いました。男の囚人と同じように、やはり態度のよい、おとなしい者ほど、良い待遇の家に雇われました。又読み書きのできる人も優遇されました。それ以外の囚人は工場へ送られ、囚人用の服を縫う仕事をさせられました。子連れの囚人、妊娠している囚人は余り雇われないので、やはり工場で働かされました。植民地には必然的に女が少ないので、女の囚人には結婚という手段がありました。女の囚人達の夢は、選ばれて誰かの奥さんになることでした。特に士官の奥さんになるのが憧れだったといいます。結婚相手探しは公然と行われました。たとえば工場では、女が一列に並び、男が一人一人見て歩き、気に入った女の前に、ハンカチやスカーフを落とします。女がそれを拾うと承諾したという意味で、結婚が成立します。女の囚人達も男が見に来るとなると、服のほこりをはたき、髪をなでつけ、笑い顔を作り媚を売って、よく見せようと必死になりました。やはり、見目よい女の人ほど選ばれていきました。売春婦になってしまう囚人もいました。イギリス本国でも、植民地の男女差を配慮して、判決を下す時、45歳以下の女の犯罪者にはわざと厳しくして、オーストラリア流刑の判決にしたと言います。 囚人は刑期の年数が過ぎると、自由の身になりました。おとなしく仕事に励んでいると、刑期が短くなる場合もありました。こうして自由になった囚人達にも制約がありました。土地を離れることはできず、土地を所有することもできませんでした。法的な裁判を受ける権利もありませんでした。そして、自由移民からは元囚人といつまでも見下されたのでした。逃げ出したり、反抗的な囚人はさらに過酷な刑務所へと送られました。シドニーから千キロ離れた孤島のノースフォーク島、タスマニアのポートアーサー、など全部で5箇所ありました。とくに ノースフォーク島は「海上の地獄」といわれ、ここに送られた人は生きても死んでも帰っては来ませんでした。 ・主な参考図書 *この記事の無断転載、借用を禁じます。 |