Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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この国の成り立ち (19)

 

            ブルーマウンテンを超えて

                                                                  前田晶子

 1788年1月26日の植民地宣言の数日後から、早くも周辺の探検が始まりました。そして、海岸から奥へと町は広がっていきました。18世紀末になると、総督の依頼を受けて、イギリス海軍はオーストラリア大陸の海岸線を調べ始めました。マシュー・フリンダースは親友のジョージ・バスと、当時地続きと思われていたタスマニアが島であることを発見しました。又彼は、オ-ストラリアの海岸線をすっかり調べ上げた人として有名です。(1801~1803)彼の偉業を讃えてフリンダース船長の像がメルボルンのセント ポール教会に立っています。ジョージ バスの名前はバス海峡として残っています。

次第に人口が増えてくるので、食料確保のための農耕地、だんだん盛んになってくる羊産業に必要な牧草地を求め、それに冒険心も加わって人々は狭い植民地から外へ外へと出て行きました。ところが、西にそびえる険しい山はどうしても越えられませでした。ブルーマウンテンです。今でこそたくさんの人が訪れる有名な観光地になっていますが、当時人々はこの山を乗り越えようと必死でした。1793年から始まったこの試みは、毎回失敗に終わりました。2~3年おきぐらいにたくさんの人が挑戦しているうちに、13年の月日が流れました。失敗の回数は6回に及びました。最後の失敗から挑戦はしばらく途絶えてしまいました。

マッコーリー総督の時代になると、さらに人口は増え、干ばつも加わって、事態はいっそう深刻になってきました。人々は何としてもこの山を突破しなければと考えるようになりました。1813年、ブラックスランド、ウエントワース、ローソンの3人は、新しい方法で山に挑戦しようと決心しました。いままで谷を超えようとして失敗していたのなら、今度は尾根を伝って超えようと考えたのです。谷から300mもある尾根を重い荷物を背負っての強行軍です。時には、崖に突き当たってしまって、引き返さなければならない時もありました。しかし、ついに尾根伝いの突破に成功し、朗報を持って無事シドニーへ戻ってきました。出発してから1ヵ月でした。山の向こう側には、予想通り豊かな牧草地帯が広がっていました。

この3人の成功は画期的なことでした。マッコーリ総督はさっそく囚人を使って山越えの道路を作り1815年には奥さんのエリザベスを連れて通っています。こうして西への突破口を確保した植民地は、その後急速に発展していきました。


  ・主な参考図書 

   Dreamtime To Nation   by    Lawrence  Eshuys  Guest MacmillanAustralia
   
1822-1850 Our Explorers  school project material  (Child & Henry)
       A Country Grows Up  by  J.J.Grady   (Cassell Australia)            

      その他の参考資料は連載の最後にまとめて表示します。

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