インタビュー (19) チェリー・パーカー |
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。 今月のこの人は、第二次世界大戦後、最初の戦争花嫁として1952年にオーストラリアに入国されたチェリー・パーカーさんにインタビューをさせていただきました。チェリーさんの夫、ドン・パーカーさんは、当時、妻の入国許可を得るのに大変苦労され、最後の手段としてマスコミを通して世論に訴え、多くの人々の支援が、ついに当時の白豪主義の政府を動かしたのでした。 |
*お二人はいつ、どんな状況で出会われたのですか? 敗戦の翌年、私は呉に住んでいて、進駐軍のキャンプの診療所で働き始めました。ドンは進駐軍の衛生兵として診療所に駐屯していて、そこで出会いました。 *お二人はまだお若かったのでしょうね。 *チェリーさんの入国許可がでるまで何年かかりましたか? *チェリーさんとドンさんは、日本で正式に結婚していたにもかかわらず、当時のオーストラリア政府は日本女性に入国許可を出さなかったのですね。それでドンさんはいったん一人でオーストラリアにお帰りになった。それからの待つ身は不安で辛らかったでしょうね?
*信じる以外なかったわけですよね。でもそこまでドンさんを信じられた、ということは? |
*正式に結婚してお子さんもあるのに、ドンさんは日本に長期滞在ができなくて、チェリーさんはオーストラリアに入国できない、ということは、いずれの母国でも一緒に暮らせない、ということですよね。第三国に住む以外は。 ええ、2回目に呉にもどって来た時は、ドンはそのつもりだったようです。 |
*そういう状況で、やっと許可が下りてオーストラリアへ行けることになった時のお気持ちは? |
*そうでしょうね。現在はオーストラリアがどのような国か、およその予備知識を得ることはできますが、当時は皆無だったでしょうし。それに5年間も入国を拒否された旧敵国に行くわけですものね。今の私たちには想像もつかないような状況ですね。 呉から船で行ったのですよ。タイピン号という船でしたが、普通の船客などいませんでした。みんな軍関係の人ばかりでした。乗船する前の日でした。キャプテンがドンに、「奥さんは日本の人ですか?」と聞いて、「入国許可は下りたのですか?」と聞いていました。ドンが「はい」といって、許可証を見せたら、「よくおりましたね」といってびっくりしていました。 |
*どのような船旅でしたか? |
乗船してからは、もう、毎日船酔いで、ゲーゲーもどしてばかりいました。海も荒れていましたし。でも中国人の船員さんがたくさんいて、とても親切にしてくれました。私のために特別におかゆやつけものも作ってくれました。それに二人の子供のめんどうもよくみてくれたので、とても助かりました。 |
*最初に着いたのはどこですか? |
ケアンズでした。上陸して町を歩いて、それからパイナップル畑を見にいったのですが、本当にびっくりしました。大きなパイナップルが何エーカーもの広いところに実っていました。あんなのを見たのは初めてでした。その日、生まれて初めてミルクシェーキを飲んだのです。あれはおいしかったわ! |
*船旅でずいぶんお痩せになったんではないですか? *メルボルンの第一印象はいかがでしたか? *チェリーさんの入国許可を得る為に、ドンさんはもちろんですが、ご両親、ご家族やお知り合いが奔走なさったのですよね。最後にマスコミにとりあげられて、政府を動かした、という背景があったからと、最初の日本からの戦争花嫁が入国した、ということでマスコミから注目されたのでしょう。でもご主人のご家族が暖かい良い方たちでよかったですね。 |
本当にそうです。私の後から、戦争花嫁として来た日本女性の中には、家族に受け入れられなくて、行くところがない人が私の知っているだけでも3人いました。ドンのお母さんに事情を話したら、落ち着き先が見つかるまで、2階が空いているから、家に来てもいい、といってくれて、彼女たちは1ヶ月くらい滞在していきました。 |
*まあ、なんと親切な素晴らしいご両親ですね。 ええ、本当に母さんはとっても心の大きい人でした。この地域の名士だったのですよ。お父さんも、とても優しい方でした。イギリス人で。 ご家族やご近所、お知り合いの方々は、チェリーさんを暖かく迎えてくれたわけですが、他の人たちの反応はどうだったのでしょうか。敵国からの花嫁だとか、人種的偏見などはなかったのでしょうか。 |
*思いやりのあるご家族に恵まれましたね。では生活の上であまり困ることはなかったですか? |
やっぱり、食べ物がね。あの頃は日本のものなど何もなかったからね。軍の人を通じて、日本のお醤油を一缶送ってもらったのです。お醤油さえあれば、野菜を茹でてお醤油をかけるだけでも、日本の味がするでしょ。中国のお醤油は日本のとは味が違いますからね。 |
*中国のお醤油はあったのですか? |
ありました。中国のレストランもありましたから、私たちはよくレストランにチャーハンを食べに行きました。 |
*オーストラリアに来たとき上のお嬢さんは何歳でしたか? 幼稚園や学校での子供たちの反応はどうだったのでしょうか? 子供には偏見がないはずですよね。 |
3歳になっていました。偏見は子供自身にはないでしょう。でも大人がね。家庭で「あの子はジャップの子だ」とか、親たちが話すのを聞いているのでしょう。小学校に入って間もなく、泣いて帰ってきました。ドンがすぐに学校に行って、校長先生に話してくれました。翌日校長先生は、全校生徒を集めて、いじめてはいけない、と話してくれました。それからは大丈夫でした。あの子も言葉をすぐに覚えましたから、みんなの中に入っていけたようです。 |
*お子さんは全部で何人いらっしゃるのですか? |
8人よ。女の子が4人、男の子が4人なの。 |
*まあ、8人!それでは子育てがさぞ大変だったでしょうね。お子さんを沢山産まれたのには何か理由があったのですか? |
私は一人っ子で淋しかったの。幼いときに母を亡くして、父も原爆の後遺症で亡くなりました。だから家族は多い方がいいと。ドンは兄弟が多い、大家族。それにドンがね。混血の子供が将来助け合って生きるには、味方の数が多い方がいい、って。 |
*そうですか。当時は周りの状況がそれだけ厳しかったということですね。お子さんの躾けは誰がされたのですか? |
ドンがしてくれました。こちらの習慣やマナーにあわせないといけないから。食事のマナーなどもドンがしっかり躾けてくれました。テーブルについたら、きれいに全部食べ終わるまで、離れてはだめ。お手伝いも小さい時からね。テーブルセッティングだとか、後片付け、食器洗いもね。小さいうちから年齢に応じて、できることをさせていました。だから、上の子だけでなく、みんなよくしますね。やっぱり小さい時から躾けられているから身についているのね。だから子育てといっても、そんなに大変でもなかったですよ。 |
*お子さんが8人だとお孫さんは? |
19人。上の娘はもう50歳をすぎてますからね。クリスマスにはみんなが集まるの。家族が多いって、いいものよ。 |
*まあ、それは壮観でしょうね。でもお孫さんが19人もいると名前を覚えるだけでも大変ですね。 |
そう、特に誕生日のプレゼントがね。カレンダーにしっかりと名前と歳を書き込んでおかないと、忘れます。 |
*8人のお子さんを育あげるには、30年近くかかりますね。いくらお手伝いをしてくれるよいお子さんたちばかりでも、やはりお忙しかったのではないですか。 |
そうね。ホームシックにかかっている暇もなかったわね。子供たちがみんな学校へ行くようになっても、おやつやお昼の準備の手伝いなどで、いつも学校に行っていたし、男の子たちは、みんなフットボールクラブに入っていたので、そっちの方でも飲み物、食べ物の準備や手伝いがあってね。忙しかった。一人二人じゃないからね。無我夢中で、あっという間だったわね。 |
*最初に日本に里帰りされたのはいつ頃ですか? |
日本を出てから25年ぶりでした。東京オリンピックの頃ね。一応一番下の子の手が離れるようになった時でね。その時は日本では電話のかけかたもわからなかった。私が日本を出た時は、会社などには電話があったけど、普通の家には電話がある家など珍しかったですよ。汽車だって、朝、呉を発って東京に着くのは翌朝でしたから。新幹線なんてね、夢のような話。 |
*チェリーさんはオーストラリア人になられて何年経ちましたか? また、オーストラリアのどんなところが好きですか? |
50年ですからね。もう日本人という感覚が薄くなってきていて、オーストラリア人としての方が強くなっているでしょうね。好きなところは、オーストラリア人のおおらかであっさりしたところ。国の広さもありますね。こんなに広いところだとは思わなかった。実際にきてみるまではね。 |
*当時の日豪関係ですが、戦争中に日本軍が海外でしたこと、捕虜虐待などにともなう反日感情のことはオーストラリアに来る前からご存知でしたか? |
ええ、進駐軍のキャンプで働いていましたから、そういう話は聞いていたので、だいたいは知っていました。 |
*この頃はあまり報道されなくなりましたが、20年くらい前まではアンザックデーや終戦記念日前後、戦争中の日本軍の捕虜虐待に関する報道がすさまじかったですね。私はそういう知識がいっさいないままにオーストラリアに来たので、そういうことを知らされた時のショックが大きかったですね。いたたまれない気持ちでした。 |
でも、戦争ですからね。ただ、日本の兵隊さんはかわいそうでしたよ。上の人が酷かったから。日本の軍隊は日本人にとっても怖かったですよ。その点オーストラリア軍は民主的でフレンドリー、ちっとも怖くないし、上の人も、親切ですね。 |
*オーストラリア兵は亡くなっても大切にされていますね。毎年アンザックデーに追悼式やパレードがありますものね。国のために命を捧げたあなたのことは決して忘れません、という。今でも海外派兵から帰ってきた兵隊さんたちは、パレードなどで盛大に迎えられていますね。
そう、ドンもアンザックデーのパレードには毎年参加していますよ。 *ご夫妻ともリタアイヤされて、チェリーさんは現在はどのような日々を過ごされていますか?ガーデニングに精をだしています。その他は友達に会ったり、子供たちも8人の内の誰かが、孫を連れていつも遊びにきていますから、けっこう忙しくすごしています。 *今日はインタビューをさせていただきありがとうございました。これからもお元気で充実した日々をお過ごしください。 |
インタビュー: スピアーズ洋子 (c) Yukari Shuppan
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