この国の成り立ち (20)
広がる植民地 (1)
前田晶子
いったんブルーマウンテンの道が開けると、探検隊が未開の地に入って行き、主にシドニーから南、西へと足を伸ばしていきました。探検隊が持ち帰る情報は、新しい植民地を作る資料となりました。マレー川を33日間かかって下り、アデレードまで達した探検隊、メルボルンのポートフィリップベイまで行った探検隊など、1800年代前半は、らくだや馬、カヌーを使い、時にはアボリジニーを伴って、盛んに探索が行われました。しかし白人には未踏の地でも、アボリジニーにとっては先祖代々の生活圏です。侵入者として殺される人もいました。
本国を遠く離れた植民地であって、しかも、本国イギリスはヨーロッパのことに忙しく、余り気に留められていなかったニューサウスウエールズでしたが、ヨーロッパの影響はしっかりと受けていました。19世紀に入って、次々と植民地が作られたわけはフランスの脅威がきっかけになっています。当時イギリスはフランスと戦っていました。盛んにやってくるフランスの科学観測船は、植民地に恐れを抱かせました。今にフランスはここに植民地を作るのではないか、それを防ぐためにも、早急に新しいを植民地を作らなければと当時の総督キングは考え、本国へ報告していました。イギリスはキングの意見をすぐに取り上げ、惜しみなく探検隊を出すことを許可しました。
アーサー・フィッリプが植民地宣言をした時は、大陸の北のヨーク岬からタスマニア島を含む南の端まで、そして経緯135度までの広範囲をすべてニューサウスウエールズとしました。オーストラリア大陸のほぼ半分です。1830年になると境界線はさらに西へ移り、現在のウエスタンオーストラリアとサウスオーストラリアの州境まで伸びました。タスマニアもビクトリアもサウスオーストラリアもクィーンズランドも皆ニューサウスウエールズから分かれて、独立した植民地となっていきました。1
・主な参考図書
Dreamtime
To Nation by Lawrence Eshuys Guest (
MacmillanAustralia)
1822-1850 Our Explorers school project
material (Child & Henry)
A Country Grows Up by
J.J.Grady (Cassell Australia)
その他の参考資料は連載の最後にまとめて表示します。
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