Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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インタビュー (20)     泉 宜成(いずみ よしなり)
                                
  
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。 今月のこの人は、オーストラリア海軍の楽隊の一員、泉宜成さんにお話を聞きました。
 
* 今年の6月末、日本の海上自衛隊の練習艦がメルボルンに来ました。その時幹部候補生達がここのネービーの基地を見学しましたが、ヨシさんはその時通訳にかり出されたそうですね。大変好評だったそうですが、ご感想は?
通訳なんて初めてやったので、疲れましたよ。子供の時にオーストラリアに来て、家の中だけの日本語でしたから、ちょっと心配でした。でも皆さんに喜んでもらえてうれしかったです。又機会があったら、やってみようと思います。

*子供の時といっても、オーストラリアに来た時 は何歳でしたか。
14歳でした。中1くらいから、オーストラリアに行こうかという話が持ち上がって、英語学校に通っていました。父と母と姉の4人でゴールドコーストに住み始めて、学校は9年生に入りました。できたばかりの私立校で、校舎も簡単なバラックみたいなもので、自由でしたから、気楽で楽しかったです。1988年でした。私は気楽というか、ストレスを貯めないたちなのか、思春期に外国に引越しましたけど別に問題なくやってきました。

* 中学初めまで日本にいらしたと聞いて、少しは納得しましたが、家の中だけの日本語でそれだけきちんとした日本語をお話しになるということは、ヨシさんのお母さんはかなりしっかりされている方と思いますが。日本語も英語もきちんとおできになる方でしょう。
そう言われればそうですね、両方きちんとしていますね。母とは家の中でよく話しましたし、そう、いい母親ですね。母は今もゴールドコーストに住んでいます。仕事も頑張っていて、面倒見のいい性格なので引き抜かれたりもして、今はマネージメントの仕事をしています。時々電話で話します。家を離れたので、日本語を話す機会もないので、私の日本語がだんだんとたどたどしくなってる気がしているんですよ。日本人の友達もいないので。だから、この間は、日本の若い人とたくさん話せておもしろかったです。

* ところで、ヨシさんが日本人でありながらオーストラリアの海軍に入ったと言うことは、国籍をオーストラリア国籍に変えてしまったわけですね。
ええ、今年の初め海軍に入る時、変えました。昔家族で越してきた時、永住権はとってきました。日本の国籍は捨てたくないので、市民権は取らないでいましたが、海軍に入る以上は、オーストラリア国籍にしなければいけませんからね。少しは考えましたが、そんなには悩まなかったですね。いきなり日本国籍を捨てたなんて親に言えないので、オーディションを受ける前に、一応大事なことだからと、両親に話しました。父は、「よく考えた方がいいよ。」と言っただけで、それ以上煩わしいことはいいませんでした。昔から自由にさせてくれて、私の決断に文句をつける親ではないので、よかったです。それと、オーストラリアに来て15年になりますが、3、4年に一度日本に帰ってはいましたが、日本のパスポート余り使わないんですよね。先のこと考えても、日本に落ち着く気はないし、中学まで日本にいたと言っても、友人関係は途切れていて、友達は誰もいないし、時たま父親に会うくらいでしょうかね。私が17歳くらいの時、父と母は別れて、父は日本に帰って行きましたから。

*どうして海軍を選んだのですか。
私もう30歳なんですよ。そろそろ落ち着きたくなったと言うか、きちんと定収入のある安定した仕事に就きたかったのが理由です。シドニーの陸軍の楽団に入っている友人から話も聞いていました。軍はけっこう給料がいいんですよ。インターネットで海軍が募集しているのを見つけて、応募しました。私は大学で 音楽を専攻して、ブリスベンのあちこちの音楽教室で、インストラクターとして音楽を教えていました。メルボルンにも音楽教師で2年前にやってきました。10年も同じことをやってると飽きてきて、何かほかの事をやりたくなりました。小学校の時から楽器は好きでした。14歳のころから本気で音楽が好きになって、のめり込んだのは、大学を1年終えたところで休学して、アメリカに1年行った時からです。アメリカで音楽学校に入ったんです。大学は初めエンジニアリングに入りました。数学と物理が好きだったので。でも帰ってきてコースを変えて音楽にしました。母は止めたほうがいいんじゃないかと反対しました。軍は医者と音楽家だけは、キャリアのある人を外部から採用します。医者も音楽家も軍の学校で教育するのは無理ですからね。好きな音楽を続けられるし、海軍のバンドとしてけっこういろいろな所にいけるのでそれも魅力でした。この間もパースへ行ってきました。こうしてあれこれ考え合わせると海軍は悪くないなーと考えたのです。それから、海軍は一つの社会になっていて、いろんな職種の勉強ができるところなので、もし何かに興味を持ったら自分の再開発もできる所ですから。
 
*それでは普段基地では何をしているのですか。 
ほとんど、自分の音楽の練習やリハーサルです。演奏旅行にも行きます。今年入ったばかりですが、パース、タスマニア、ケアンズともう3箇所に行きました。軍の楽隊はメルボルンとシドニーにあるだけですから、結構忙しいです。勤務時間は7時半から4時半までです。朝は早いですが、9時までは、スポーツジムに行ってもよし、自分の音楽の練習時間にしてもよしと自由です。メルボルンの楽隊にはたくさんバンドがあります。私は、ジャズの小さバンド、もうちょっと大きなビッグバンド、ロック、パレード用、コンサート用のバンドに属しています。ですから、どこかで演奏していない時は、ほとんどリハーサルをしています。
 
* でも海軍に属している以上、もし戦争になって兵隊が足りなくなって、楽隊の人まで行くようになったら、ヨシさん、行く覚悟はあるのですね。
もちろんあります。私達バンドの者までが戦力としていくような事態になる可能性は少ないですけれど、納得のいく戦争だったら行きます。 私達音楽家まで戦力になるようなことになったら、一般の人も動員される戦争でしょうから、そんな事態には90%ならないとは思いますが、なったら、うん、行くでしょうね。
*ヨシさんも海軍に入るためのリクルートの特訓を受けたのですね。
ええ、11週間のリクルートコースを受けました。それほどきつくなかったですよ。でも服のまま冷たい海に放り出された時はさすが寒くてぶるぶる震えましたが。救急車で運ばれる人もいるんですよ。

*専門の楽器は何ですか。
ギターです。でもいろいろな楽器やりますよ。サックスもドラムも。ピアノも少し弾きます。パレードでは、指揮者のすぐ後に続く小太鼓、腰に小さいドラムをつけてたたくのがあるでしょう、あれをやっています。海軍のバンドを見る時があったら、指揮者の後ろを見てください。

 
* 又ヨシさんの日本語に話がもどりますが、普段使わない日本語がこれだけしっかりしているということは、お家にいた時会話が多かったのでしょうか。
そうですね。確かに多かったですね。母とはよく話しました。父もいっしょにいる時、日本語は忘れるなよ、とよく言ってました。大学はブリスベンだったので、家を出てしまって週末だけ帰っていました。父は日本からよく本を送ってくれます。余り会う機会はないのですが、日本に行った時は外で食事をしながら、よく話します。難しい言葉も父から教わりました。家では国語辞典、漢和辞典を手元に置きながら、本をよく読みます。すっかり英語の生活になっているので、書くのが一番苦手です。漢字なんか忘れてしまって。少し勉強しなくてはと思っているんですが。日本人の友達もいないので、しゃべることもありません。ですから今日はとてもいい機会でした。こんなにしゃべったのは久しぶりです。
 
*音楽教師から海軍へと生活は変わっても、音楽一筋は同じですね。
 ええ、好きなことを続けられて幸せだ、と思っています。今のところ、音楽をやめる気はありませんが、将来何か他の事をやりたくなっても、海軍にいれば専門コースの学校があるので、勉強ができますし、自分でもいい選択をしたと思っています。この間の通訳のような仕事もできましたしね。私、結構理科系も好きなんですよ。高校の時数学と物理が好きだったし。今の生活は自分でも満足しています。バランスがとれていて、気分転換も自然にとれていいです。あちこち行きたいほうだし、毎日同じことを繰り返しているのは飽きるたちなので、ちょうどいいです。ゴールドコースト、ブリスベン、メルボルンと移って来ましたが、メルボルンは好きですね。暑い、寒いの温度差があっていいです。ブリスベンは一年中それほど暑くもなく、寒くもなくちょっと退屈かな、と思います。それにメルボルンは大都会だけあって 音楽面で活発なのがいいです。東京やニューヨークと比べたらかないませんが、オーストラリアの中では音楽の中心ですからね。
 
*今日はお休みの日に時間をさいてくださって、ありがとうございました。


泉宜成(中央)

インタビュー: 前田晶子

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