この国の成り立ち (22) バークとウィルス(BURKE AND WILLS) 1 前田晶子 多くの探検家によって、オーストラリア大陸のかなりの部分が分かってきました。フリンダーズ船長によってすでに海岸線も明らかにされ、全体の形もはっきりしていました。ただ一つまだ人(白人)が足を踏み入れていない所は、内陸部でした。真ん中には何があるのか、牧場主達は、広大な牧草地があるのではないかと夢をふくらませ、川が内陸部から東海岸へ流れてくるところを見ると、とてつもなく広い内海があるのではないかと言う人もいました。1800年代半ばになると、人々の間に大陸を南から北へ突っ切ってみたいという欲望が高まってきました。それに加えて、1859年にヨーロッパからインドまで電信線が延びたので、もし南から北のルートが見つかれば、本国イギリスとの交信が4時間でできるという驚異的な進歩が可能でした。当時は一番早い船で、イギリスから2ヵ月半かかった時代でした。そしてビクトリアと南オーストラリアはどちらが早く北への道をつけるか、競争心を燃やしていました。 ウィルスは医者の息子としてイギリスで生まれ、父と同じ道を望む両親に従って医学を学んでいました。物静かで思慮深い優秀な青年でした。しかし途中で医学に興味をなくし、オーストラリアに渡ってきました。父親も後から渡ってきて、金鉱の町バララットで開業しました。しばらく、父の助手をしていましたが、向学心に燃える青年は、測量学と天文学を学び始めました。ちょうど教授の助手に昇格した時、探検隊の話が持ち上がり、教授の推薦で天文学者、測量師として探検隊に加わりました。又彼は探検隊のナンバー3でもありました。バークより13歳年下の青年は、バークとは正反対の性格でしたが、バークとは大変気が合いました。最後まで忠実にバークに従いました。父親のドクター ウィルスもわが息子をほめて、「この子はどんなことがあっても、あなたに従うよ。」とバークに言ったそうです。 探検隊の準備は着々と進みました。委員会は探検は最低でも12ヶ月はかかるだろうと予想していましたので、隊員17名を養う食料はじめ、壊血病予防のライム果汁、学術調査でもあるので、本、炊事用の薪、荷物を運ぶ馬、らくだ用の餌、らくだの壊血病防止のラム酒、それに鉄砲や大砲と言った武器までも用意しました。膨大な荷物を運ぶため、馬28頭、らくだ28頭が必要でした。らくだは、副隊長自ら、インドまで買い付けに行きました。 1860年8月20日、春まだ浅きメルボルンのロイヤルパークに集まった一行は、大勢の市民に見送られて華々しく出発していきました。 ・主な参考図書 Dreamtime
To Nation by Lawrence Eshuys Guest (
MacmillanAustralia) その他の参考資料は連載の最後にまとめて表示します。
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