Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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インタビュー (22) 

ピーナ デル ポポロ

(PINA DEL POPOLO)
  
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。 今月の「この人」は、思春期の時イタリアから移民でやってきて、働きながら英語を身につけ明るく暮らしているピーナさんにお話を聞きました。
 
* オーストラリアへ渡ってきたのは、何歳の時ですか。
14歳の誕生日に船で着きました。1961年でした。26日かかって、その間ずっと船酔いしていました。両親と4歳年上の兄と4人で来ましたけれど、ほんとは私は9人兄弟の末っ子です。すぐ上の兄は生まれた時に亡くなったので実際は8人です。一番上の兄とは21歳離れていましたから、物心ついた頃には、上の兄弟達は家を出ていました。

*ご両親はどうしてオーストラリアへ来ることにしたのですか。
私の住んでいた町、ソルティーノではもっといい生活を求めて、外国へ出て行く人が多かったですよ。その頃オーストラリアは一番人気のあった国でした。一番上の兄も1949年にオーストラリアに来ていますし、他の兄達も来ていました。父と母は私と兄も外へ出したかったけれど、まだ若いので、一緒について来たわけです。母は53歳、父は62歳だったかしら。私達が落ち着いたらイタリアに帰るつもりでしたが、ここがすごく気に入ったのでずっといました。2人とも年だったので、母は家事に専念して、父も時々簡単な仕事をする程度でした。上の兄がもうここでしっかり暮らしを立てていましたから、大丈夫でした。

* それでピーナさんはすぐ働き出したわけですね。
ええ。でも上の兄は初めにちゃんと聞いてくれました。学校に行きたいか、働きたいかと。親のことを考えたら、働いたほうがいいけどね、とも付け加えました。学校に行きたいと言えば行かせてもらえたんでしょうけれど、私は学校が嫌いだったから、「働く。」とすぐ答えました。

* どんな仕事をしたのですか。
初めての仕事は、服を縫う仕事です。6歳上の兄嫁といっしょに働きました。兄嫁は、「年を聞かれたら、16歳ってうそをつくのよ、その方がたくさんお金がもらえるから。」と言いました。私は年より小さく見えたのですけれどね。それからこうも言いました。「オーストラリア人に年を聞いてはだめよ。あなたも聞かれるから。」でも私の英語は限られていたので、ある時ついいっしょに働いている女の人に「ハウオールドアーユー」と聞いちゃったんですね。そしたらなんかベラベラといってなんだかわからなかったんです。後になって分かったのですが、その人、あんたの知ったことじゃないでしょ、といったんですね。でもこの仕事嫌いで、6ヶ月で止めました。マネージャーが私の所へ来てはここがだめ、あそこがだめってうるさかったので。

 

*次はどういう仕事でしたか。
スーパーマーケットで働きました。若い女の子を募集してたので。レジをやったり、棚に品物を並べたり。働き出してすぐの頃、棚に並べていたら、物を置き損なって落としてしまったんですが、もう少しでつま先に当たりそうだったのでびっくりして、「足の指にぶつかりそうだった。」と言ったんです、そうしたら、傍にいた意地の悪いマネージャーが「ほー、あんたが足に指を持ってるなんて知らなかったね。」と言いました。私は足は指と言わないのかと思い、こうして toe と言う言葉を覚えました。私は英語をたくさんの失敗や間違いを通して、それと人の反応から少しずつ習っていきました。ある時こんなこともありました。お客さんが、ビールか何か私の知らない飲み物の名前を言ったのですが、分からないので、マネジャーを見たら、倉庫に行って窓側の棚のなんとかかんとかにあると言いました。分からないながらも、行って見ましたが、分かるわけありません。私どうしたかというと、トイレに入って、30分座ってました。出てきたらマネージャーが「お客さんはどうした?」と聞きました。私は「他の人が相手したんじゃないですか。」ととぼけてしまいました。
 
* ピーナさんは冗談もよく言われるし、人との会話も上手で、発音もきれいだし、何の不自由も無いように見えますが。 
そうね、人の中に入って働きながら時間をかけておぼえた英語だから。今では、人の言うことは全部分かりますし、自分のことも不自由なく話せますね。話す、聞く、読むは全く問題ないのですが、書くのが一番苦手です。でも最近は息子からコンピューターを習って、インターネットや e-mail もするようになりました。インターネットで冗談も見つけて楽しんでます。でも今でも人前で英語を書くのは、気後れがします。スーパーマーケットの仕事を長くやってましたが、最後にはマネージャーも任されてするようになりました。上の人が、ピーナあなたならできる、よく見て考えて真似すればいいんだからと励ましてくれました。
 
* いつも働いてこられたわけですか。
1970年に結婚して、イタリアに里帰りした時ちょっと休んで、又働いていたのですが、75年に妊娠したので止めました。12年間子育てに専念してから、又働きだしました。主人は自営業のペンキ屋ですが、やはり家計を助けたいので。主人ばかり働かせてはかわいそうですからね。94年まで働いてたかしら。ひざを痛めたのをきっかけに止めました。
*子供の頃のイタリアのお話を聞かせてもらえますか。
私大勢の兄弟の末っ子でしょう。学校へ行き始めると、友達のお母さんが母よりずっと若いんです。不思議に思って、ある日聞きました。「ねーお母さん。分からないことあるんだけど。」 母は「どうしたの、言ってごらん。」と言いまいた。「どうして他のお母さん達は若いの?」すると母は「みんなのお母さんはあなたの姉さんくらいの年だからね。」と言いました。そうかと私は子供なりに納得しましたけれどね。母は付け加えてこう言いました。「でもあなたを愛してるわよ。」

私の家は元はシチリア島出身です。でもマフィアではないですよ。かんきつ類がたくさん採れるの。ところで、オレンジのサラダを教えてあげますね。オレンジをきれいにむいて実だけにします。塩を一つまみかけてオリーブオイルをかけて、砕いた乾燥チリをかけるだけの簡単なサラダです。とてもおいしいから試してごらんなさい。

*ピーナさんはお料理も上手ですが、お母さんから教わりましたか。
いつも働いてましたから、結婚するまで自分で作ったことはありませんでした。家に帰ればご飯ができていました。特に教わったわけではありませんが、母が作るのをよく見てはいました。自分の舌と勘と常識を働かせて作っていますが、主人も子供たちも私の料理は大好きです。でも結婚当初はまごつきました。ある時主人が肉屋さんの前で、「鳥のスープが飲みたいなー。」と言って、鳥を買ってしまったんですね。あわてて母に電話して鳥のスープどうやって作るの、と聞きました。又ある時はリコタチーズのニョッキを本を見て作り出しました。後はお鍋に入れて茹でるだけだと、お鍋に放り込んで、傍にいた主人に「かき混ぜててね。」と頼んで用事をしに行って帰ってくると、主人が「何にもないよ。」と言うんです。中をみると白いどろどろがあるだけでニョッキの姿かたちもありません。卵の入れ方が少なくてかたまらなかったのです。それ以来、リコタのニョッキは作りません。

*仕事を止められてからは、どう過ごされていますか。
 お話したように、イタリアで学校に行っていただけなので、ちゃんと勉強したいと思い、コミュニティーの大人の英語のクラスに入りました。いろいろな国の人といっしょで楽しかったですよ。3年くらい通いました。今はパッチワークの習い事、老人ホームを訪ねたりしています。そうそう、オーストラリアに来た当座、兄の勧めで英語のナイトスクールに一時通ったことがあります。兄が「勉強はどうだい。」と聞いてきて、「先生の名前は何というの。」と聞いたので、私は「ティーチャー。」と答えました。兄は笑って、「違うよ、先生の名前だよ。」と言いましたが、私は「だからティーチャー。」といい続けました。どうしてって、先生があなたはピーナ、私はティーチャーと言ったからです。イタリアの女の人の名前のニックネームでティーチャーというのがあるので、私はそれだと思ったのですが、今だにどっちなのかわかりません。
 
*今日はお出かけ前に、時間をさいてくださって、ありがとうございました。

インタビュー 前田晶子

(c) Yukari Shuppan
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