Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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インタビュー        ゴードン・パーカー

この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。 今月は、第二次世界大戦後に日本女性と結婚し、最初に妻のオーストラリア入国を果たしたオーストラリア人、ゴードン・パーカーさんのインタビューを再掲載いたします。
 
*今から65年前の12月8日に、日本がハワイの真珠湾を奇襲攻撃して太平洋戦争が始まりましたが、この時ゴードンさんはおいくつでしたか?

たしか14歳だったですね。ハイスクールの学生でした。僕たちは若すぎて兵士にはなれませんでしたが、みんな年齢が達したら志願して戦うつもりでした。その時が来るのが待ちきれない思いでいました。僕は18歳の誕生日を迎えるとすぐに志願しました。

*それから数年後に敵国の日本女性と結婚することになろうとは、その時は夢想だにしなかったでしょうから、運命とはわからないものですね。

志願が受理され、トレーニングを受けて、僕らは戦意満々でした。母国を守るためにニューギニアで日本と戦うつもりでいました。ところがクイーンズランドで派兵されるのを待っている間に、戦争が終わってしまったのです。がっかりしました。残念でならなかったですね。ただ、戦争が終わっても、部隊が解散になったわけではなく、なぜかトレーニングは続けられていました。その間に、日本の敗戦処理にあたる占領部隊の兵士募集がありました。僕はすぐに応募しました。戦うチャンスはのがしましたが占領軍として日本へ行けるならそれでもいい、と思ったのです。僕は軍隊に志願する前は、医者になるつもりでその準備をしていました。もうあと1年勉強して試験をパスすればよかったのです。その1年は日本から帰ってから終了するつもりでした。そのこともあって日本では僕は応急救護医療班に配属されることになりました。

*日本にはいつ、どこに到着したのですか?

終戦の翌年の4月に呉に着きました。上陸して僕たちはすごいショックを受けました。想像をこえる破壊のすさまじさに戦慄しました。広島には海軍兵学校や軍需工場があったのですが、攻撃されて破壊されていたのは、一般市民の住宅や生活施設の方でした。まだ戦火の後はなまなましく、人々は信じられないような、貧しい小屋に住んでいました。その小屋さえなくて道端で寝ている人もいました。これが連合軍がしたことなのか、というショックにうたれました。

*広島にもすぐにいらしたのですか。

ええ、着いて間もなくトラックで所属の兵士たちと行きました。2,3のビルが残っていただけで、平らな地面が広がっていました。家などなかったですよ。瓦礫だけで。建物があれだけ破壊されたということは、そこに住んでいた人々がどうなったかは、明白なことです。ケロイドを負った人や手や足の無い人などがいました。子供や女性や老人たちが一番被害をうけていたように見えました。人々の住んでいるところに原爆は落とすべきではない、と強く思いました。あの光景を見たら誰でも原爆反対になるでしょう。僕らは占領軍の兵士として、勇んで日本にやってきたわけですが、こんな酷い状態とは想像もしていませんでした。懐疑的にならざるをえませんでした。

*原爆使用がどのような結果をもたらすか、もっと多くの人が知るべきだと思うのですが、アメリカでは原爆展示会が拒否されていますし、知らない人が多いですね。

アメリカ人もオーストラリア人も、一般の人は知らないでしょう。連合軍側でも実態を知っているのは僕らのような現場をみた占領軍の兵隊だけでしょう。こういう戦争で、いつも被害を受けて苦しむのは子どもたちや女性、年寄りたちです。それと最前線で戦う兵隊たちです。戦争を決断した政治家や戦争の最高指揮官や司令部は、後ろの安全なところにいて、何の被害も受けないでしょう。本当は彼らこそ真っ先に攻撃されるべきなのに。こういう戦争はすべきではありません。僕は今では反戦主義です。ただ原爆投下は戦争終結を早めたことはたしかでしょうね。もしそうでなかったら、日本全土が呉の焼け跡のようになっていたかもしれません。日本側も連合軍側も、もっと多くの人が死んだでしょう。

*そうかもしれませんね。日本は最後の一兵まで戦うつもりだったようですし、連合国側は味方の犠牲を最小限度に抑えるために、上陸前に徹底的に空爆したでしょうから。そういうことを考えると、広島、長崎の人々の犠牲によって、他の多くの人たちの命が救われた、ということになりますね。

ただ、人の住んでいるところに落とす必要は無かったと思います。東京湾にでも落としてその威力をみせつけるだけで十分だったでしょう。でなければ日本軍の司令部があった東京に落とせばよかった、、、、。まあ、今ではすでに歴史上の出来事になってしまいました。あれ以来、原爆を使うような愚かな戦争をしていないのが、せめてもの救いです。局地戦はあちこちで起っていますが。愚かなことです。

*占領軍でゴードンさんはどこに配属されたのですか?

僕は医者志望でしたから医療部を希望して、ファーストエイド、呉の緊急医療部隊に配属されました。ケガをしたり病気になった人が真っ先に行くところです。とりあえず応急手当てをして、それで済む場合もあるし、そうでなければドクターのいる病院へ送ります。キャンプ内には日本人もかなり働いていたので、オーストラリアの兵隊だけでなく、日本人のけがや病気の応急手当もたくさんしました。

 
*占領軍に対する日本人の反応はどうでしたか?

キャンプでは沢山の日本人が働いていましたが、問題はまったくありませんでした。その一番の理由は、そこで働いて賃金をもらうことができたからです。ほとんどの人が焼け出されて、住む家も働く場所も何もない状態で、食べ物だって無かったのですから、進駐軍に雇われて働ける、というのはとても幸運なことだったのです。

*現在のイラクのようなサボタージュやレジスタンス、命をねらわれるという心配はなかったのですね。

全然ありませんでした。夜中に一人で歩いていた者が引ったくりにあった、ということが一度ありましたが、それはほんとに珍しいことでした。キャンプ内では大勢の日本人が様々な仕事をしていたので、事故やちょっとした怪我は多かった。私たちは彼らの面倒をよくみました。キャンプの外の医者や病院に行ってもしょうがないのです。何しろちゃんとした医療施設も医療用具もないし、まず薬が不足していてどうにもならないのです。沢山の子どもたちの面倒もみてあげました。薬もずいぶんあげました。日本の人たちはそのことをよく承知していました。だからみんなまじめによく働いてくれました。

*キャンプ外での自由行動などはできたのですか?  

ええ、外出もできました。ただ一人ではダメで、必ず二人以上で出かける、という規則でした。万が一の場合一人では連絡のとりようもないですから。
 
*お二人の最初の出会いはどのような状況だったのですか? 
 

先にも話したように、僕は医療部隊の応急手当の係りになったわけです。呉についてまずトラックに乗せられて、キャンプに到着しました。宿舎の割り当てがあり、ほとんどの兵隊はグループでバラックの宿舎に入ったのですが、医療班は診療所のそばにある個室を与えられました。あなたはあそこ、と指定されたのでトラックから降りて部屋に入って行くと、小さな若い日本女性がいて、おびえた様子で立ちすくんでいました。それが彼女だったのです。すでに診療所で働いていた友達の紹介で診療所に採用されて、医療班の雑用アシスタントと掃除や洗濯などをするのが彼女の仕事だったのです。
 
*その時、お二人はおいくつだったのですか?

僕が18で彼女が16才かな。

*キャンプでの生活はどのようなものだったのですか?

僕らのキャンプは、間もなく呉から広町に移りました。広町には戦火をまぬがれた日本海軍の建物、工場などのある広い敷地があって、そこを接収して使いました。工場の割れた窓ガラスや壊れた扉などは、全部修理しました。工場の一部を改造してキッチンと食堂を作り、敷地内にはテニスコート、スイミングプールもありました。映画が見られる場所もありました。野菜畑や庭もつくりました。このために20人以上の日本人労働者が雇われて、働いていました。これは双方にとって良いことでした。当時の日本人にとって、キャンプで働ける、というのはラッキーだったのです。海岸もすぐそばにあって、放置されていた部品を集めて、仲間でボートを2艘作りました。彼女を海に連れ出すこともできたし、あえてキャンプの外に出て行かなくてもいいくらいでした。広町のキャンプは環境がよくて僕らはとてもラッキーでした。というのも、僕のいた部隊には機械工具などのエンジニアがたくさんいて、こわれて放置されていた部品などを修理してつかったり、部品を集めて、いろいろなものを作ることができたのです。他の部隊ではそうはいきませんでした。部品でも何でも新しいものは全く手に入らなかったのです。それともう一つ良かったのは、上官たちのいるオフィスと宿舎が、我々の宿舎と離れていたことです。彼らにはそれぞれ掃除洗濯など、身辺の雑用をするハウスキーパーがついていたので、身辺の雑用にはことたりていました。僕らもそういう不自由はありませんでした。食事も食堂に行ってすませて、それで終い。食事の後片付けの皿洗いなどをしなくてもいいのが、なによりでした。キャンプ内は別天地のようでした。


*お二人にとっても良い環境だったわけですね。将来のことを真剣に考えるようになったのは、いつ頃からですか?

だいぶたってからです。両親に手紙を送った時に、広町のキャンプ生活のスナップ写真を送りました。たいがいチェリー(ゴードンさんが彼女につけた愛称)がそばに写っていたので、なんとなく察してはいたようです。途中でそれとなくにおわせる手紙を書きました。

*ご家族の反応はどうでしたか?

特になかったですね。僕は軍隊にいたので結婚することはできませんから。静観という態度でした。僕としては将来のことを考えると、早く軍隊を辞めて、メルボルンで残っているドクターコースを終了して医者になり、彼女と結婚するつもりで帰国しました。この時は、僕がチェリーとのコトで真剣だということがわかったので、かなり気を揉んだようです。でも反対はしませんでした。

*ドクターコースの試験は今でも非常な難関ですが、3年のギャップがある上にチェリーさんのこともあって、勉強がたいへんだったでしょう。

僕はチェリーに身寄りがなかったので、彼女の生活の面倒をみるべく、アルバイトをしながら勉強を続けていました。ところが、その間に僕たちの最初の子が呉で産まれました。同時に彼女に色々と困難な問題が起きていました。僕はそれを見放して置くことができずに、ドクターコースを終了せずに、また日本へ戻っていきました。必ず戻ってくる、という彼女との約束を果たすことが、何よりも先決だと思いました。この時は一民間人として行ったので、6ヶ月しか滞在できませんでした。その間にビザの相談に東京のオーストラリア大使館にいきました。事情を詳しく説明したら、「では、どうして結婚しないのですか?」といわれました。軍隊では日本女性とは結婚できない、といわれていたので、そう信じ込んでいたのです。「あなたは、すでに退役しているのだから、一民間人が日本女性と結婚することに、問題はないはずです」といわれました。それで広島に戻り、呉の軍キャンプないにある教会で結婚式を挙げました。日本人の牧師さんが式を挙げてくれたのですが、そのことが発覚して彼は教会を追い出された、ということです。後から聞いたはなしですが。僕は僕たちの結婚を法にもとずいた正式なものにするために、きちんと手続きをするために神戸の英国大使館へ行って、正式に結婚届けをだしました。

*どうして英国大使館なのですか?

そのころはまだオーストラリアは British Commonwealth (大英連邦)の一員だったからです。僕たちの結婚はオーストラリア軍にとって、非常に都合の悪いニュースでした。これまで日本女性との結婚は、どんな状態でも絶対にできない、といってきたのですが、僕たちが前例をつくってしまったからです。一般人に戻れば結婚できる、ということが公になってしまったのです。それは軍にとって頭の痛いことでした。僕の他にも日本女性と結婚したいと思っていた兵隊がたくさんいたからです。  

*正式に結婚して、チェリーさんにオーストラリアの入国許可が下りるまでどのくらい待たなければなかったのですか?

4年です。オーストラリア軍は兵隊が日本女性と私的な交際をするのを禁じていました。連れ立って歩くことも禁じられていました。結婚した後ですが、ある時一緒に歩いていたら、軍の警官がうむをいわさず僕だけを連行して、軍の牢屋に監禁しました。僕は抗議をして、東京のオーストラリア大使館の人と連絡を取りたいから電話をつないでくれ、といいました。大使館の人に「なぜ連行されたのか?」と聞かれたので、「日本女性と歩いていたから」と答えました。すると彼は、「あなたは退役してオーストラリアの一般市民になったのだから、軍の法規に拘束されることは一切ない。市民の日本女性との交際を拘束する法律はどこにもない。そこにいる軍の警官と代わって下さい」と、いいました。それからすぐに僕は釈放されました。

 
*ゴードンさんは人間として正しいと思うことを誠実に実行しようとしたから、いろいろなトラブルがあったわけですね。当時は日本政府が設置して公的に認められた売春施設がキャンプのまわりにあったでしょうから、そういう方面の女性と適当につきあって、兵役が終わったらさっさと国に帰る、ということもできたわけですよね。

ほとんどがそうだったでしょう。でも、真剣に結婚を考えている人もいました。その人たちにとって僕たちの結婚は朗報でした。ただ、口先だけで結婚する、といって関係を続けて、オーストラリアに帰ってしまった兵隊もいました。こういう兵隊たちの彼女や子どもは本当にかわいそうです。子どもたちは一見して外見が違うので日本人から差別されたりいじめられたりしたようです。親子で自殺した人も少なくないと聞きました。また僕たちの結婚は様々な方面に波紋を投げかけました。日本女性との結婚が絶対不可能ではない、とわかったことは、日本女性と結婚したいと思っていた人たちの励みになりました。しかし、すでにオーストラリアに妻がいるのを隠して、軍規で結婚できない、ということをいいわけにしていた人は、いいわけの理由がなくなってしまいました。

*4年間許可が後おりるのを待っている間、どのようにしてすごされましたか?

もちろんオーストラリアで働きました。チェリーへの仕送りもありましたから。仕事をしながら政治家や政府など、あちこちに手紙を書いたりして、ビザが早く下りるように働きかけました。両親をはじめ家族が応援してくれて、支えになってくれました。母は赤十字などいろいろなボランティアを熱心にしていました。近所の婦人たちと、慰問のプレゼントを作って戦場へ送ったり、一時帰国した兵士を食事に招待したり、実家が遠くて交通の便が悪い時は、家の部屋を提供して、兵士たちが泊まれるように便宜をはかったり、様々な悩みの相談相手になったりとか、とにかくそういったことをしていました。それもあってか、近所の人たちは僕の一件に理解を示してくれました。何度も許可の申請を出しました。一緒に訴える手紙を書いてくれた人もいます。そのうちでも強い影響力をもったのが、ある戦争未亡人の手紙だったと思います。彼女の夫は、日本の捕虜収容所で亡くなりました。斬殺されたということです。その未亡人が、「日本人だからという理由で、ゴードン・パーカーの妻に入国許可を出さないのは人道的でない、彼の妻を早く入国させてください、という手紙を方々にたくさん書いてくれました。この手紙には強く動かされるものがあったと思います。

*心の広いかたですね。なかなかできないことですよね。彼女の立場を考えると、むしろ反対に日本人に許可など出すな、というのが自然のような気がしますが。

ええ、本当に彼女は素晴らしい女性でした。彼女の手紙がきっかけで事態が好転していったともいえるでしょう。ある政治家は、いかなる事情があろうとも、オーストラリア兵と結婚してオーストラリアへ渡ろうとする日本女性に絶対に入国許可を出すべきではないし、出すこともありえない、といっていました。ところがしばらくして、移民大臣のハロルド・ホルトからチェリーの入国許可がおりたのです。この時僕は日本にいました。もう半分あきらめかけて、家族一緒に暮らすのは、日本とオーストラリア以外の第三国しかないのか、と思い、その可能性をさぐるために日本に行っていた時でした。でも、トップにある移民大臣から許可する、という宣言が出されたのですから、他の人がなんといおうと、大丈夫と思いました。オーストラリアでは日本の戦争花嫁に初めて入国許可が出た、ということで大きなニュースになった、ということは後で知りました。僕たちが出会ってから6年経っていました。すでに娘が二人いました。

 

 
*6年の間、ご一緒だった時よりも、離れ離れの時の方が長かったのですね。本当に長い6年間だったでしょう。特に待っている間は。オーストラリアでの晴れて一家揃ってのスタートはどのようなものでしたか?

僕たちの場合はとてもラッキーでした。母をはじめ家族みんなが僕たちのことを理解してくれて、暖かく迎え入れてくれました。当時のリングウッドの実家は家も敷地も広くて、テニスコート、スイミングプール、畑や小さい牧場もありました。家はまるでオープンハウスのように困った人に開放していました。いつも知らない人が訪ねてきていて、そのまま泊まっていったりしていました。ある時など、僕がハイスクールから帰ってみると、僕がもらったはずの新しい衣類がみあたらないのです。「あれ、どうしたの?」と母にきいたら、「ああ、あれね。この間から家に来ていた人が着の身着のままだったから、帰るときにあげたわ」と、こんな調子でした。だから僕たちが移り住んでも、ほとんどさしさわりがありませんでした。両親はリングウッドの市長をしたり、赤十字のボランティアなどに貢献していたので、地域の人たちは両親、特に母の働きを評価してくれていましたから。だけど、僕が戦後初めて日本女性と結婚したことは、ニュースとして取り上げられたので多くの人に知られていました。中には非難の手紙を送ってきたり、電話をかけてくる人もいました。「自分の夫は、息子は日本人に殺された、とか。オーストラリア人のお前がしていることは・・・・・、」などと、夜の11時とか夜中の2時にいやがらせの電話をかけてきました。そんな時は、聞き流して途中で電話を切ったことが何度もありました。でも、そんなことはいちいち気にかけませんでした。

*ゴードンさんはパイオニアとして日本人の妻を入国させるのに長い間、孤軍奮闘されたわけですが、チェリーさんの入国をかわきりに、以後、数百人の日本女性の入国が次々許可されたそうですね。それぞれの方々がオーストラリアで結婚生活を始めたわけで、皆さんいろいろと苦労をされたのでしょうね。

僕たちの場合は、家族も地域の人たちも暖かく迎えてくれましたが、そうでない人もいました。当人が日本女性と結婚したことを家族に言いそびれて、突然連れて来たので、家族がそのことを受け入れなかったり、家に入ることさえ拒否したり、家族が受け入れても、近所の人たちが受け入れなくて、外を一緒に歩くこともできなかったとか、不幸な例もたくさんありました。こういうことは田舎に多かったようですね。ビクトリア州に来た人でも、家族に受け入れてもらえなくて困っている人もいました。母に話すと例の調子で、「2階に空いている部屋があるでしょう、住む場所が見つかるまで、そこを使ってもいいですよ」、といいました。彼女たち3人ほどだったかな、1ヶ月ほど滞在していきました。

 

*本当に心の広い暖かいお母様だったのですね。

そうですね。とてもいい母でした。チェリーもそう言っています。

*ドクターになるのは断念されても、自分が心から愛した女性と結婚されて大家族をお二人で築いてこられたのですから、実りある人生ですね。お子さんは何人ですか?


娘が4人、息子が4人の8人です。チェリーが一人っ子で身寄りがないので子どもはたくさん欲しいと。それと当時は今と状況が全く違っていました。日本人との国際結婚で生まれた子どもが、社会にどう受け入れられるかもわからなかったから、助け合える身内が多い方がいい、とも思いました。みんなそれぞれ問題なく育ってくれました。よい仕事について、いい家庭を築いています。上の子はもう50歳をすぎているのですよ。ひ孫も2人になりました。家族はみんな母親、おばあちゃんびいきです。何かあるといつも悪者にされるのは僕の方です。「お父さんはなぜ日本女性と結婚なんかしたんだ」という言葉は一度も聞きませんでした。

*ということは、そういうことを子どもから言われた人もあったわけですね。

昔はありましたね。当時、特に田舎では日本女性と歩いたりしたら、誰も口をきいてくれなくなりました。農場や牧場などでは孤立して話し相手もなくなってしまいます。ひどいものでした。でも今は違うでしょう。異人種間の国際結婚なんて珍しくもないし。なにしろ政府がマルチカルチャーイズムを推進しているのですから。世の中が変わりました。偏見も少なくなってきたし、そういう点では良い方に変わっています。 
         

*ご家族が一同に集まることはおありですか?

年に一度クリスマスに集まります。孫たちの名前と年を覚えておくのが大変なのですよ。


*もうじきクリスマス、お忙しくなりますね。みなさんで良いクリスマスをお迎えください。今日はお時間をさいていただきありがとうございます。これからもお二人で末永くお元気にお過ごしくださいませ。

 

インタビュー: スピアーズ洋子

(c) Yukari Shuppan
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