Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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この国の成り立ち (4 )

           バークとウィルス(BURKE AND WILLS)   3


                 

                                                                  前田晶子

 バークとウィルスは成功の喜びに浸る間もなく、キングとグレイの待つキャンプにもどりました。疲労困憊していた4人でしたが、たった1日休んだだけで、2月13日、帰路につきました。食料が不足してきたからです。雨とぬかるみの中を進むので、馬とらくだは、度々足をとられて動けなくなりました。疲れきっている4人にとって、大きな動物をぬかるみから引っ張り出すのは並大抵のことではありませんでした。目標のあった行きに比べ、帰りの道は長く辛いものでした。もはや4人は隊長でもなく部下でもなく、運命共同体でした。雨よ、止んでくれ、と祈りながら重い足を引きずる4人でした。

ようやくモンスーン地帯を抜け、砂漠にやってきました。乾いた砂の上を歩くのは何と楽なことだったでしょう。しかしこの頃からグレイの様子がおかしくなってきました。病気だったのですが、他の3人は怠けたいための仮病と思ってしまったのです。4月17日、クーパークリークまで後120kmという所で、とうとうグレイは死んでしまいました。3人は素手で丸1日かかってグレイのために墓を掘りました。見慣れた景色に勇気付けられ、後少し後少しとやっとの思いで3人は4月21日午後7時30分、クーパークリークのキャンプにもどってきました。ところがキャンプはもぬけの殻でした。

ユーカリの木の幹に彫り付けたメモがありました。「北西3フィートの所を掘れ。1861年4月21日。」掘ってみると、食料と手紙がありました。何と部隊はその日の午前10時30分に引き上げたのでした。たった9時間の差で逃したのでした。手紙には、「メニンディーに引き上げる。皆元気で動物も元気だ。」と書いてありました。後を追いかけようと言うウイルスとキングにバークは反対しました。追いつけるわけがない、ステーション(牧場)があると言われているホープレス山に行こうと言うバークに従わざるを得ない2人でした。4月23日、残してもらった食料で少しは元気の出た3人は、また歩き出しました。念のため、食料が埋めてあった同じ場所に手紙を埋め、キングは上をきれいにならしました。こうすることによって、彼らが生き残るチャンスを一つ封じてしまったなどとは思いもしませんでした。
 
  クーパークリークに沿って行けば目的地にいけると歩き出した3人でしたが、道に迷い後戻りしてしまいました。なかなかたどりつけないまま、食料は残り少なくなってきました。時々アボリジニーがやってきては、食べ物を分けてくれました。3人にとって生き延びる手段はアボリジニーのように、食べられる植物を採ることでした。旅を続けるうち、ウイルスは次第に弱って来て動けなくなりました。6月29日、バークとキングはウイルスのわきに食べ物を置き、歩き出しました。2日後次はバークが倒れ動けなくなりました。バークは自分を埋める必要はない、と言い残し死にました。キングは数時間バークの傍に付き添ってから、ウイルスのところに戻ってみましたが、彼ももう死んでいました。その後キングはアボリジニーに助けられ、生き延びて、9月救援隊に発見されました。

クーパークリークに残っていたブラー以下4人の部隊も、決して楽だったわけではありません。隊長のバークは口頭で簡単な命令を出しただけで出かけてしまい、来る日も来る日もバークたちの帰りを待っていました。すぐ来るはずのライトも一向に来ません。4ヶ月の間に皆病気になっていました。動物も弱っていました。バークに残した手紙はうそだったのです。バークたちを気落ちさせないためのうそでしたが、もし本当のことを書いたとしたら、バークたちは後を追いかけて、助かったかもしれません。バークとウイルスの悲劇はいくつもの偶然の重なり合いで起きてしまいました。もし、グレイが死ななかったら、もし墓を掘るのに1日費やさなかったら、もし、ライトがすぐに追いかけてきてくれたら、と考えると果てしもなく不運は続きます。ブラーは途中で、やっと腰を上げてメニンディーを出発してきたライト率いる残り部隊に出会いました。5月3日、ブラーとライトはバークたちが帰ってきたかもしれないとクーパークリークのキャンプに戻ってみましたが、何の変化も見つけられませんでした。調査委員会は関係者すべてに尋問をして、探検隊の悲劇を解明しようとしましたが、結局は誰も責めることはできないという結論になりました。

しかし大衆の非難は、もっぱらライトに集まりました。ライトは、メニンディーに戻ると、彼ををナンバー3に任命するという バークの手紙を投函し、委員会からの返事をずっと待っていたのでした。委員会は返事を出す気などもうとうなかったのでした。ライトが返事を待っていることも知りませんでした。さらにライトは膨大な荷物をどうやって運ぶか途方にくれていました。元気な動物はバークが連れて行ってしまって、残されたのは役に立たない馬とらくだばかりだと言って、新しく動物を買う資金繰りに困っていたと主張しました。要するにライトは能力不足だったわけです。

悲惨な結果に終わったかに見えた探検隊でしたが、バーク達の捜索隊が次々出発して、いろいろな方角から探検隊が内陸部に入って行ったので、新しいルートがいくつも見つかりました。内陸の様子が分かり、牧草地、入植地は増えていきました。らくだが有用なことも分かりました。1870年には、大陸の北から南まで電信線が張られ、オーストラリアはインドを経由してロンドンとつながりました。メルボルン市内中心には、バークとウイルスの偉業を讃えて、2人の像が立っています。

・主な参考図書 

   Dreamtime To Nation   by    Lawrence  Eshuys  Guest MacmillanAustralia
   BURKE AND WILLS  by ROLAND HARVEY (SCHOLASTIC)
      AUSTRALIAN EXPLORERS BURKE &WILLS byJO JENSEN (PETA BARRETT)
      BURKE &WILLE by Randal Flynn (The Macmillan Company)

      その他の参考資料は連載の最後にまとめて表示します。

 

     

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