Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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インタビュー (24)     荒井洋幸(あらいよしゆき)

この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。 今月のこの人は、メルボルンで唯一の刺身を専門に扱う店、「オセアニア・シーフード」のオーナー、荒井洋幸さんをお訪ねしました。
 
*さっそくですがオーストラリアにいらしたのはいつ頃ですか?

1978年の11月でした。最初に住んだのはシドニーでした。

*オーストラリアに移住されたのですか?

いや、そうではないのです。輸出入関係の会社の駐在員としてきました。当時同僚からは、「お前、いい所にいくな」と、うらやましがられましたけれど。最初、自分の考えでは、まあ、4年くらいの滞在かな、と思っていました。

*やはりシーフード関係のお仕事で?

いや、シーフードとは全く関係ないです。工作機械関係でした。それも直接販売ではなくて、エージェントを見つけて、エージェントを通して販売する、というものでした。エージェントとの契約がだんだんと増えてきたのと、契約が成立すると、後はエージェントがほとんどやってくれますから、時間が比較的できてきました。これで日本へこのまま帰るか、どうか、という時期だったのですが、ニュージーランドへ市場調査に行ってこよう、ということになりました。2回行って調べてみたところ、ニュージランドという国は農業国ですが、島国で水産物が非常に豊富なのですね。でもみんなあまり水産物は食べなくて、輸出をしたがっていました。日本は水産物を必要としている国です。それで水産関係をいろいろ調べてみました。それでわかったのは、ニュージーランドでは、真鯛が世界で一番獲れるのではないか、ということでした。おそらく、ニュージーランドの北の島の北部の海岸近くから、温泉か何か、底の方で温かい水が湧いているのではないかと思うのですが、その潮流の関係でしょうか、真鯛がものすごく繁殖しています。一方、日本では真鯛がとれなくなってきていました。日本のマーケットというのはすごく大きいわけでしょう。結婚式などの祝い事に必要な魚で、刺身にしても、焼いても、吸い物にもいい魚ですから、これはいい商売になる、と素人ながら思ったわけです。ニュージーランドの鯛を日本に輸出したら、これはすごい商売になるぞ、と興奮してしまいました。ところが僕より先に大洋漁業が日本へ鯛を輸出していました。でも、僕も小さいながら鯛の輸出をしてみました。築地の魚市場に行ってみると、大洋漁業の鯛は僕が送ったのより、ずっといい値が付いていました。理由は、大洋さんの方は、専門の漁師を日本から連れてきて、こちらの漁師に生きしめの仕方を教えて、ロングラインで釣った鯛を、生きしめにして、きちんとパックして日本へ空輸していたのです。

*生きしめとは、どういうことなのですか?

生きている魚の頭と胴体の境目のところを、包丁で刺すと直ぐ死にます。そこから血を全部出して、直ぐパックすると、新鮮で身も締まります。すでに死んでいる魚ではダメなのです。ところが僕はそんなこと知らなかったので、オークランド空港のそばの業者から買った鯛を送りました。ところが僕がニュージーランドの漁師から買った鯛はトロールで獲った鯛だったのです。もう陸揚げした時にはすでに死んでいる鯛でした。日本のマーケットには世界中から魚が集まるわけですが、鮮度がものすごく重要なわけです。刺身を食べる習慣のない外人には、これはなかなか解かってもらえないことなのですが。まあ、自分も無知というか、何もわからないところから出発したわけです。現在では、ニュージーランドから日本へ毎日、何トンという鯛が輸出されていくわけですが、それが3日止まったら、日本はパニックにおちいる、といわれるぐらいです。

*まあ、そうなのですか! その鯛の何割かはオセアニア・シーフードを通して行くのですか?

いえいえ、ぜんぜん違います。わたしはそこで脱落してしまったのです。いくらアイディアがあっても、畑違いでなにも知らなかったのですから。ノウハウをきちんと解かっていて、生きしめにしてパックして送っていた会社が成功するのは当然のことす。ただ、この時の経験から水産に興味を持つようになりました。これが水産業界に入ったきっかけでしたね。ニュージーランドで「水産物の輸出」ということが、しっかり脳裏に刻まれて、オーストラリアに戻ってきました。そのときいろいろ考えて、あわびを輸出してみたらどうか、ということになってあわびの輸出を始めました。フィリップアイランドのニューヘイブンという所に、フィッリップアイランド・フィッシャリングという会社がありますが、そこに1週間に1度行って、パッキングをしてあわびを築地に送りました。これは7,8ヶ月やりました。でもこれはあまり商売としては成功しませんでした。ただ、地元のあわびなどの水産業者と親しくなりました。それで、自分はそのうち日本へ帰るから、そうしたら卸業者や築地を通さず、直接レストランに売れば高く買ってもらえるから、いい商売になるから、という話をしていたのです。ところが、このころ、メルボルンで「くに」とか「鉄板焼き」「乾山」などのレストランが次々に開店しました。日本食のレストランの数が7、8軒になったのかな。だったら、日本に帰って商売をする前に、この商売にはどんな問題点があるか、ここでちょっと経験をしてみよう、ということになったのです。その頃はダイバーが直接レストランへ「これを買ってくれ」といって、10kgほどのあわびを持っていっていたのです。ところがレストランでは、10kgもいらないでしょう。1日に3,4個もあれば十分なのですね。私はそういう事情がよくわかりますから、レストランに電話をして、「あわびを買ってくれませんか、何個でもいいから売りますよ」といったら、「荒井さんは日本人だし、面白そうだから、買いますよ」、といって買ってくれるようになりました。それで、フィッリップアイランドへ1週間に1回行くついでに、余分にパッキングしてレストランに配達するようになりました。

 
*それが始まりだったのですか? 
いえ、そうでもないのです。たしかにレストランへの配達の始まりでしたが、海産物を売って儲けようというつもりはなかったですね。きっかけにはなりましたけれど。ただ、そのうちに伊勢海老はありますか? 冷凍品はありますか? ときかれるようになりました。あるとき冷凍品を注文されたので、さがして配達しようとしたらキャンセルされました。キャンセルされると保管するところがないのです。うちの冷蔵庫には入りきれないし。それで近くのフィシュ・アンド・チップスの店に持っていって、これちょっと置かせてもらえないか、と頼んで置いてもらいました。その店にはそれっきり、行ってないのですけど。その経験から、これはやっぱり店を借りなければダメだ、と思うようになりました。その時の私のビザのステータスはまだ駐在ビザでした。駐在ビザというのは会社の活動はできるけど、個人的なビジネスはできないことになっています。しかし、海老やあわびなどの注文がくるようになっていたので、とりあえず店を借りる必要がありました。それで探し始めたら、4,5日のうちに店がパット見つかってしまったのです。ノースコットにあった店でしたが、自分が欲しい、と考えていた通りの店だったのです。冷蔵庫と冷凍庫と氷があって、タンクがあるという。敷金も資本も何もぜんぜんいらなくて、しかも家賃のレンタル料が格安だったのです。すごくラッキーだったのですよ。どうも前に借りていた人が夜逃げしたらしいのです。
 
*ついてましたね。それがメルボルンの最初の店ですね。工作機械の方から水産に移られたのはこの頃ですか? 
そうです。水産の方が忙しくなって両方はできなくなってきましたから。それから間もなくして、ウニのダイバーが店に来て、「日本人だったらウニが好きだろう。ウニを買わないか?」といいました。それでウニを買い始めました。しかし加工の仕方がわからないので、日本の友達に頼んで、ウニの加工の仕方を学んで、こちらに来てもらいました。ですから鮮魚を扱う前に、あわび、伊勢海老、ウニなどを扱っていたのです。ここで商売を始めて、1年くらい経ったときでした。サウスヤラのチャペルストリートにタスマニア・パシフィック・オイスターという会社があったのですが、この会社はメルボルンで初めてタスマニアのオイスターを売り出した会社です。それまではオイスターといえば99%シドニー・オイスターだったのです。タスマニア・オイスターは大きいし、まだそういうのに慣れてなかったのですね。ところが1,2年のうちにどんどん売れ出して、店が狭くなってきたので、「ヨシ、ここは場所がいいから、あんたに譲るから、下見に来ないか」といってくれたのです。当時の値段、3万ドルで買いました。
 
*それはいつ頃でしたか?

1984年です。専門のシェフにも来て貰って刺身も売り始めました。


*そうでしたね。それまで私たち主婦は、生きのよさそうな魚をみつけて、慣れない手つきで3枚におろしていました。魚の種類も少なくて、さよりなどおろすと身がなくなってしまうのですよ。下手だから。サウスヤラに日本の魚屋さんが開店した、というのは当時の日本人社会では素晴らしいニュースでした。

そうですね。さよりをおろすのは難しいですよ。当時日本食レストランも少しは増えていましたがまだ数が少なかったですね。確かに魚の種類も少なくて、マグロ、はまち、鯛、さよりぐらいでしたかね。サーモン、トラウトも刺身はまだなかったですね。そのうちにだんだんと、キングドーリンとかシーパウチなど種類が増えました。もちろんそういう魚は前からいたのですが、刺身に使える、ということをこちらが気づかなかった、ということなのですが。

*その頃日本食のレストランは何軒くらいでしたか?

最初に店を開いた1983年では、7,8軒でした。84年には10何軒になっていました。

 
*それにしても少ないですよね。10軒そこそこでは。

そうなんです。だから採算が取れる、と思って始めたわけではないのです。まあ、魚を売ってはいるのですが、それが全てではないのです。水産は素人でもやっているうちにマグロなど魚のこともわかってくるし、だんだん面白くなってくるのですね。マグロは4種類ありますが、そのうちの本マグロは本当に素晴らしいですよ。旬の本マグロは大きさといい、色合いといい、何ともいえないものがあります。本マグロは99%日本へ行って、現地には入って来ませんが、ここ20年間に数回間違って入ってきたことがありました。それは素晴らしくて、こちらも興奮してしまいました。まあ、しかしその当時は刺身も鮨も、今みたいにポピュラーではなかったですが、日本食というのは刺身にしても、ただ魚をぶった切って食べるというのではなくて、並べ方も工夫して、見た目にとてもきれいにしますよね。旬も大切にしますし、だから魚そのものというよりは日本の食文化を売って広める、という気もあるのですね。僕は水産以外の仕事をしていたら、たぶん日本に帰っていたと思います。20年間、水産関係の仕事をしていて、差別とか、バカにされるとか、そういう嫌な思いは経験したことがないのです。息子なんかは、「いや、お父さん、やっぱり差別はあるよ」、といいますが。私がそういうことをされていても気が付かないのか、それとも、水産という業界にいて、本当のオーストラリア社会に入っていっていないのか、そのへんのところはわかりませんが。まあ、このように日本社会や文化のつながりの中にいて商売をしていける、というのはラッキーですよね。お客さんの数も今では250件ぐらいありますから。    
 
*現在日本食のレストランはメルボルンにどのくらいあるのですか?

 250軒ぐらいでしょう。

 

*ではレストランは100%オセアニアシーフードから仕入れているのですか?
いいえ、レストランはそのうちの180軒ぐらいですが、他にもテイク・アウェイなどもありますから。
(若い男性が来て、テキパキと短い質問をし、指示を確認して出て行く)
*息子さんですか?
そうです。以前、息子が後を継いでくれたらいいな、とは思っていましたが、彼は水産にはぜんぜん興味を示しませんでした。子どもの時から、魚は刺身も鮨も嫌いだ、といって、ハンバーグやスパゲッティのようなものばかり食べていました。日本食には全く関心がなかったですね。「お前、どうするんだ」といったら、「僕はビジネスマンになるんだ。オフィスで普通に働くんだ」、といってメルボルン大学に行き、卒業しました。ところがサウスヤラからフッツクレイのこの店に移って、去年あたりから関心を持ち始め、働き始めました。もう1年になりますが、1日も休まずに働いています。私は今でも息子に言っているのですよ。「この商売は思ったよりきついぞ。朝は早いし、やりだすとどんどんコミットしていかなくてはならないし、9時から5時というわけにはいかないから、家庭生活にもひびく。この産業に入ってこないで、自分の道をみつけていってもいいんだぞ」と。ところが、ますますのめり込んできて、今では魚が好きだ、といって刺身なども食べるようになったのですよ。これは、なんというか民族的なものなのでしょうかね。
*頼もしいですね。後を継げ、と強制しなかったのが良かったのではないですか?
 そうですね、まだどうなるかわかりませんけどね。ただ日本食を見た場合、将来性はありますね。日本人自体の国際性というのは、まだまだと思いますが、日本食はみごとに国際化しているでしょう。
*そうですね。オーストラリア、アメリカ、ヨーロッパ、アジアにも進出していますし。このすしブームはいつ頃からでしょうか。
僕らが始めた1984年頃は、日本食レストランは少なくて、日本食そのものが知られていませんでしたから、ほとんどがここに住んでいる日本人がお客さんでした。それがどんどん変わってきて、日本食の人気が出て、お客さんも日本人相手からオーストラリア人に移ってきました。それが数年前でしょう。巻きずしがブームになったのも5,6年前ですね。日本食レストランで働いていた中国人や韓国人が海苔巻きの作り方を覚えて、どんどん自分たちで店を開き始めたころからですね。値段の方もぐっとてごろになりましたし。      
*海苔といえば一時輸入禁止になったことがありましたね。身体に害のある成分がある、とかで。その時は日本食の前途を心配されましたか? 
いいえ、そういうことはなかったですね。海苔がなくても鮨はできますから、刺身もありますし。危機意識をもって訴えた人がいたようですが、私は、誤解だからすぐ解けると思っていました。それに日本食は、どんぶりものから、てんぷら、すきやき、そば、うどん、それにすしとバラエティが豊富で、味もいいし、見た目もきれいですよね。他のフードに比べて圧倒的に有利だと思います。今では、日本食のレストランは日本人経営は、ほんのわずかで中国、韓国系がほとんどですよ。
*その他にも、伊勢海老の生き造りのデモンストレーションをテレビで見た動物愛護の人たちが、日本食レストランへ抗議デモをかけたことがありましたね。
そういうこともありましたね。彼らは前のサウスヤラの店にも来て、タンクにいた伊勢海老の数が多くて、かわいそうだ、といいました。民族性というか文化の違いで、自分たちが食べる習慣のないものを他の人たちが殺して食べると残酷に感じるのでしょう。       
*でも全ての生き物は、他の生き物の命を奪って食べないと、生存できないわけですよね。なのに、牛や羊、豚や鶏ならよくて、魚や海老はかわいそう、というのは手前勝手ですよね。
殺し方にも関係があるのでしょう。ナイフで魚の頭を落とすのを見てかわいそうだ、といって泣き出す人もオーストラリア女性の中には実際にいるのです。水産庁からも指導がありました。殺す前に、氷水につけると痛みを感じないからそうするように、とか。
*抗議が不買い運動に発展するということはなかったですか?
そこまではいかなかったですね。ただ日本食レストランでタンクに入った海老を取り出して、生き造りのデモンストレーションをする、ということはなくなりました。
*オーストラリアで新鮮な魚を入手する苦労などはありますか?
最初に話した鯛がそうですし、マグロなども鮮度が高いと、日本のマーケットでの値段がぜんぜん違うのです。そういうことから、採ってからの取り扱い、パッキングなどの技術が最近はものすごくレベルアップしました。ですから、とくに鮮度の問題はなくなりました。それと養殖も成功しています。サケ、マスはもう以前からしていますが、サウス・オーストラリア州のポートリンカーンでは、マグロとカンパチ(ハマチの一種)の養殖に成功しました。マグロにはすごいポテンシャルがあるのです。マグロは一回に60万個ぐらいの卵を産みますが、そのうち生き延びるのは数匹しかいないのです。それを人間が手を貸して、稚魚に育てて大洋に放てば、もっともっと増えていきます。日本でも30年間かけて、最近成功しました。それに地球の3分の2は海なのですから、将来の食糧難にもそなえられる可能性があります。技術的にはマーケットのニーズによっていくらでも調整できる、というところまで進歩したのです。       
*それは凄いですね!そうすると値段も安くなりますか?
値段はどうでしょう。人件費その他もありますからね。実際のところ、現在は魚の数は減っています。特に本マグロはすごく減っていて、世界のマグロ協会で国によって捕獲数がきびしく決められています。保護しないと無くなってしまう、という強い危機感があるのです。他のマグロは制限がないのですが、数は減ってきています。中国も捕るし、台湾も、おびただしく捕るわけす。だから必然的に減ってくるのは当然ですね。だけど、マグロに関しては、いざとなったら養殖できる、という安心感はあります。まだ大々的に実行はしていませんが、技術的には可能になっているわけですから。

*世界中のお鮨屋さんに十分サプライできる、ということですね。

メルボルンで20年前に10軒そこそこの日本食レストランが250軒に増えたというのも、僕らが増やそうとしたわけでもないし、努力したわけでもないのです。それだけ日本食がポピュラーになったというのは、日本食の良さをみんなが認識してくれた、ということですね。新鮮な海のものを食する、というのは身体にもいいのですよ。僕なんかあまり疲れを感じないですからね。それに日本食ブームは今がピークかというと、そうではなくて、僕はまだまだ伸びていくと思っています。昔はマグロの養殖なんて考えられなかったですからね。でもこれからは大丈夫ですよ。
*心強いですね。私もお刺身お鮨、海産物が大好きですから。今日はお忙しいところお時間をいただきありがとうございました。

インタビュー: スピアーズ洋子

(c) Yukari Shuppan
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