Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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この国の成り立ち (26) 

        ゴールドラッシュ   2

前田晶子

金の発見が公表されると、政府の思惑通り、アメリカに行っていた男達は戻ってきました。世界中からも人が集まってきました。メルボルンの港を埋め尽くした船の船員たちも、金鉱へ飛び出して行ってしまい、船主は新たに船乗りを雇わなくてはならなかったそうです。人々は港から100キロ以上もある金鉱まで、歩いて行きました。余裕のあるごく一部の人は、馬や馬車に乗りました。金鉱までの道もまだ整ってなく、ブッシュの中をかき分けて行くようでした。一攫千金を狙う男達が地面を掘り起こす金鉱一帯でした。ある金鉱では、2万人の人が働いていたといいます。

はじめの数年は、確かに一攫千金も夢ではなかったそうです。ナゲットと呼ばれる金の塊が地表近くまで出ている状態で人々は争って金を探しましたが、すぐにもっと深く掘らないと金はみつからなくなりました。一人一人で働いていた人も、何人かで組んで働くようになり、そのうち会社もでき、機械を使い、人を雇って金を掘り出しました。働く環境も苛酷なもの、危険なものになっていきました。

人が集まるので、何もなかった荒野は、テント村から始まって次第に町らしくなっていきました。男だけではなく、女、子供たちも増えてきました。家族を連れてきて定住する人が出てきたためです。金鉱で働く人に物を売る店、酒場、ホテル、学校も出来てきました。重労働から開放された夜は、気晴らしを求める男達です。楽団やオペラ歌手なども集まってきました。こうして金を中心に社会ができあがっていくと、金を探してばかりいては豊かになれないと悟った人は、仕事を変えたり、大きな町に戻っていきました。

世界中からやってくる人のなかでも、中国人は特に数が多かったので目立ちました。中国では、1840年代に大飢饉があり、オーストラリアに移住しはじめ、ゴールドラッシュ以前から中国人はいました。ヨーロッパ人とは服装も習慣も違い、自分たちだけでまとまって暮らしていました。料理人、牧童、羊飼いなどをしていました。数が少なかったので、問題もなかった中国人でした。しかし、ゴールドラッシュが始まると、すでにいる中国人を頼って続々と押しかけてきました。ヨーロッパ人が金を探した後の地面から、丹念に根気よく金を探す中国人です。休みなく働き続ける彼らは、どうしてもヨーロッパ人より金を多く見つけていきます。こうしたやっかみも加わり、中国人は嫌われていきました。メルボルンだけでも4万人の中国人がやってきたといわれます。とうとう政府は中国人が港から上陸するのを禁止しました。しかし彼らはほかから上陸して、何千キロも歩いて金鉱までやってくるのでした。なんとしても中国人を締め出したい政府は、「オーストラリアは白人の国だ。有色人種は来てはいけない。」という法律をつくりました。これが1970年代まで続いた白豪主義の始まりです。


・主な参考図書 

Dreamtime To Nation   by    Lawrence  Eshuys  Guest MacmillanAustralia)         
Investigating Our Past  by    Sheena Coupe (Longman Cheshire
A Country Grows Up  by  J.J.Grady   (Cassell Australia)

その他の参考資料は連載の最後にまとめて表示します。

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