インタビュー (26) Alfredo Bossini |
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。 今月のこの人は、オーストラリアで長年レストラン経営とケータリングビジネスをしてこられた Alfredo Bossini さんをお訪ねしました。 |
*オーストラリアにはいつ頃来られたのですか? |
第二次世界大戦が終わってから間もなくの、1947年です。ちょうどエジプトに革命が起きつつある時でした。 |
*革命というのは? |
エジプトの王政に対してです。王政といってもイギリスの傀儡政権で、キングはプレーボーイでギャンブル好き。国民の信頼を失っていました。戦争中からずっと革命の兆しはあったのですが、戦争が終わって、それがいよいよ本格的になってきました。エジプト人は王政を倒して独立を求めていました。戦争末期、私はブリティッシュ・ミニストリー・オブ・ワーで働いていました。そこでいろいろと情報が入ってきて、エジプトの未来はどうなるかわからない、ということを耳にしていました。その頃、家族はエジプトに住んでいましたが、両親も私もマルタ島出身で、マルティソーというマルタ人です。エジプトに動乱が起きた場合、マルティソーがどう扱われるか、予測がつきませんでした。私がいた部隊にオーストラリア人の友人がいて、彼は、新天地を求めるならオーストラリアがいい、新しく人生を切り開いていくのに、あんなにいい国は他にないよ、とすすめてくれました。南アフリカ、オーストラリア、ニュージランド、カナダにも行くチャンスがあったのですが、南アフリカはいずれ将来、問題が起きる、と思いました。カナダはちょっと寒すぎるし、ニュージーランドは遠すぎる、ということでオーストラリアに決めました。 |
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*何才の時ですか? |
19才でした。 |
*どのような経路でオーストラリアのどこに到着されましたか? |
船で、西オーストラリア、パースの南にある フリマントル という港に着きましたが、目的地はシドニーでした。でも、私はパースからシドニーまでの距離が、こんなにあるとは思ってもみませんでした。当時はパースからシドニーの間は、三つの異なる鉄道が走っていて、途中2回乗り換えなければなりませんでした。パースの駅にシドニーまでの切符を買いに行ったら、3ヶ月先の予約しかできない、といわれました。パースに3ヶ月も滞在しているわけにはいかないので、短期間の仕事を見つけて働かなければと思いました。その頃のパースは小さな町で産業など、ほとんどありませんでした。それでブッシュに行くことにしました。メッジバークというところのティンバーミルの仕事をみつけて、そこで3ヶ月働きました。3ヶ月経ってパースに戻り、シドニーへ行きました。4日間の汽車の旅でしたが、素晴らしい経験でした。パースからアデレードの間では、砂漠やブッシュが延々と続き、汽車の窓から裸のアボリジニーの人たちの姿が沢山見えました。汽車は燃料や水を補給するために、村や町で時々止まりましたが、その度にアボリジニーがカンガルーの毛皮などを売りに寄ってきました。「ツー ボブ、ツー ボブ」といっていました。ツー ボブというのは20セントのことで、何でもツーボブ、ツーボブ、といって売っていました。 |
*目的地をシドニーにしたのは何か理由があるのですか? |
シドニーには大きなマルティッソー・コミュニティがあるからです。私はエジプトのポートサイドというナイル川の河口、スエズ運河の地中海側にある町で生まれましたが、両親はマルタ島出身のマルティッソーなのです。マルタ島はイタリアのシシリー島の南にある小さな島で、旧英国領だったところです。だから私のパスポートはブリティッシュ・サブジェクトという英国のパスポートです。 |
*その頃のシドニーで、マルティッソー・コミュニティはどのくらいだったのですか?人数でいうと? |
そうですね。うーん、5千人くらいかな。 |
*では今のメルボルンの日本人の数とあまりかわらないですね。 |
マルティッソーは旧英領だったからオーストラリアには簡単に来れて、コミュニティーも急速に広がっていました。その頃のマルティッソーコミュニティはシドニーのダーリング・ハーバーにありました。 |
*1947年のその頃、仕事などはすぐみつかりましたか? |
直ぐ見つかりました。コットン・ミルでの仕事を見つけて働き始めました。またロマーノというフレンチレストランでも夜パートタイムで働きました。ミスター ロマーノは、ミリオネヤー(億万長者)で、ロマーノ・レストランは、その頃のシドニーで一番大きい一流レストランでした。ここでの私の仕事はキッチンでグラスを洗うことでした。ロマーノではオーストラリア人だけでなくフランス人、イタリア人、ギリシャ人、マルティッソーなどいろいろな国の人が働いていました。私は英語、イタリア語、フランス語、ギリシャ語、スペイン語、アラビヤ語と6ヶ国語が話せるので、ウエーターやウエイトレスたちと、フランス人とはフランス語で、イタリア人とはイタリア語で、ギリシャ人とはギリシャ語で話していました。ある日、そこを通りかかったミスター ロマーノが、私が話しているのを耳にして、「君は何ヶ国語が話せるのかね?」と聞きました。「6ヶ国語話せます」と返事をすると、「では何故ここでグラスなど洗っているのだ」といわれました。「私はオーストラリアに来たばかりで何も様子がわからないから、この仕事があったので、とりあえず働いています」と答えました。「後で、私の部屋に来なさい」といわれて、面接をされ、翌日からアシスタントマネジャーに抜擢されました。 |
*どうしてそんなに何ヶ国語も話せるのですか? |
私は二つの学校へ行きました。最初はフランスの学校で、10歳まで。その後、16歳までイタリアの学校に行きました。近所にはギリシャ人が住んでいました。7,8歳の頃に、近所のギリシャ人と話し始めて、ギリシャ語を覚えました。住んでいたのはエジプトですから周りはエジプト語、家ではマルティッソーを話し、学校では英語を習いました。イタリア語とフランス語が話せれば、スペイン語は比較的らくに覚えられます。それに私は言葉を覚えるのが好きで、子どもの頃から、世界史や政治にとても興味をもっていました。部屋に世界地図を張って、ヨーロッパの歴史、第一次世界大戦以前と以後の政治、領土の移行、第二次世界大戦の同盟国、連合軍の動きなど、興味深く眺めていました。第一次世界大戦でも第二次世界大戦でもオーストラリアは、ヨーロッパ、北アフリカ、中近東に派兵していますね。エジプトで私が通学していた学校のそばには、大きなアンザックの碑がありましたよ。後にオーストラリアに戻されて、今はキャンベラにあります。大戦中、私はまだハイスクールの生徒で切手を集めていました。そばにはオーストラリアの部隊がいて、彼らと切手を交換したりして友達になりました。第二次世界大戦が終わる1年前に軍隊に入りましたが、私にオーストラリア行きを勧めてくれたのは、その時の部隊で一緒だったオーストラリア人です。 |
*オーストラリアとの縁はその頃からあったのでしょうね。 |
そうかもしれませんね。シドニーでは猛烈に働いて、3年半で小さな家を買い、両親と弟と姉を呼びよせました。それからしばらくして、ある時、レストランにオイスターを卸している人が、キングスクロスに店を持っているのだけれど、後を継いでくれる人がいないので、その店を引き取ってもらえないか、と話を持ちかけてきました。それでその店を買い取りました。しかし、私はまだロマーノで働いていたので、父と母と姉と弟に店をまかせることにして、スパゲッティ・バーを開店しました。この店はシドニーで最初のスパゲッティ・バーでした。4年ほど営業していましたが、父が病気になったので店を閉めました。その頃結婚しました。相手はビクトリア州から来たオーストラリア女性でした。息子が産まれていましたが、彼女がビクトリ州に帰りたい、というのでメルボルンに引っ越してきました。彼女がそういったのも、無理のないことでした。私の家は両親や兄弟姉妹、従妹などいつも誰か親戚がいる大所帯でした。それだけでなく、母方の親類、父方の親類も私を頼って、オーストラリアに来ていました。だから、私の親戚関係がいつも出入りしていました。そういうことが、わずらわしかったのでしょう。家族だけの静かな生活がしたい、と彼女がいったので、それを私が受け入れたのです。 |
*では、それまでの仕事の実績も親類の方たちもすべてシドニーに残して、奥様と息子さんと家族3人だけで引っ越していらしたのですね。メルボルンでの新生活のスタートはいかがでしたか? |
カールトン・ビール会社の仕事が直ぐにみつかりました。けれど、その頃は、働くにはまず組合に入る必要がありました。ところが組合は、私のことを「Wog (外国人、特に白人以外の中南米、中近東の人々に対する蔑称)」と呼び捨てて、私が働くことを拒みました。その頃、そこは荒っぽい職場でした。労働者の多くは、復員兵たちでした。「どうして私は拒否されなければならないのだ」といったら、「お前はイタリア人じゃないか」というのです。私の名前がボッシーニだから、イタリア人と勘違いしたようなのです。イタリアは大戦半ば過ぎまで敵国でしたから、まだ憎しみが残っていて、一緒に働くわけにはいかない、ということなのでしょう。私はマルティッソーだ、といっても、彼らにはよくわからないのですね。それでパスポートをみせて、この通りブリティッシュ・サブジェクトのマルティッソーだ、といっても信用しないのです。イタリア名でどうしてブリティッシュ パスポートをもっているのだ、と疑うのです。とにかく私はイタリア人ではないのだから、私にも働くチャンスをくれるべきだ、といいました。そんなやりとりの後、とにかくそこで働くことになったのですが、はじめの1週間は誰も口をきいてくれませんでした。始めのうちは私のことを「Wog (ウォック)」と呼んでいましたが、そのうちに「ホワイトウォック」というようになり、だんだんと受け入れられるようになりました。友達扱いもされるようになって、フットボールなどに一緒に行くようになりました。 |
*カールトン・ビール会社には長くいらしたのですか? |
しばらくいました。そのうちにシェブロンホテルのレストランのウエーターの仕事がみつかってそちらに移りました。シェブロンのレストランでもシドニーのロマーノと同じことが起こって、直ぐにヘッドウエーターに抜擢され、それから間もなくマネジャーになりました。その頃、シェブロンはメルボルンでは一流のレストランでした。そこではいろいろな人との出会いがありました。現在の妻と出会ったのも、シェブロンが縁でした。ある時、日本からトウキョウ・バイ・ナイトというレビュー団が公演に来ました。その一員と妻の郁子が友達だったのです。 |
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*オーストラリア女性との結婚はどうなったのですか? |
そのずっと以前、メルボルンに引っ越してから3年目に離婚しました。私はトウキョウ・バイ・ナイトのメンバーを迎えたり、彼らにメルボルンを案内しました。郁子はホリデーでメンバーと一緒にメルボルンに来ていました。知り合って親しくなり、将来のことも話し合うようになりました。郁子が日本のお父さんに相談すると、「直ぐ帰って来い。そして1年間冷却期間をおきなさい。1年後にまだ意志が変わらなければ、結婚を考えなさい」ということでした。郁子は日本に帰って、1年後に私たちは結婚しました。 |
*シェブロンでは長い間働かれたのですか? |
13年働きました。それからホーソンにシーフードレストランを開店しました。ビジネスパートナーとの共同経営でしたが、パートナーと意見が合わないことが多くて、私の持分のシェアーをパートナーに譲り、自分でレストラン「マダムバタフライ」を開店しました。1974年12月でした。 |
*その頃、日本食レストランは何軒くらいあったのですか? |
マダムバタフライはメルボルンで3軒目の日本食レストランでした。シェフをはじめスタッフはみんな日本から呼び寄せました。1階は鉄板焼き、寿司、さしみなどを出し、2階はスキヤキ専門にしました。 |
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*その頃、日本食はまだ珍しかったのでしょうね。 |
そうです。ごく一部の人しか知りませんでした。スキヤキはウエイトレスが全部料理して、食べ方などもていねいに説明しました。 |
*日本食レストランのアイディアは奥様からですか? |
そうです。彼女は色々な面で強力な味方でした。彼女もレストランで一緒に働きました。日本から来たスタッフたちもよく働いてくれました。後に彼らは自分のレストランを開店しました。 |
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*レストランは繁盛しましたか? |
ええ、始めは店舗を借りていたのですが、3年後には建物も買い取りました。 |
*大成功だったわけですね。 |
13年経営した後、ビジネスと建物を売ってリタイヤーしました。 |
*リタイヤーしてからはどんな生活をされてきましたか? |
しゃばらく休んだ後、また働き始めました。 |
*こんどはどのようなお仕事で? |
リタイヤーしてからは、カジュアルな仕事をしました。フレミントンのレースコースでケイタリングの仕事をしたり、メルボルン・テニスセンターやMCGでもケイタリングをしました。それからウエスト・サンシャインのレストランのマネジャーもしました。 |
*マダム・バタフライを売却された後でも、ずいぶんとお忙しかったのですね。 |
ウエスト・サンシャインでレストランのマネジャーをしていた時に、病気になって入院しました。それからは完全にリタイヤーしました。71歳でした。明日、76歳になるのですよ。 |
*まあ、それはおめでとうございます。これまでいろいろな仕事をされて十二分に働いてこられましたね。 |
いつもゼロから始めて、ビジネスを成功させてきました。 |
*6ヶ国語を話せることが、ずいぶんと役にたったようですね。 |
そうです。約50年、ずーっとレストラン、ケイタリング関係の仕事をしてきましたが、仕事を通して沢山の興味深い人たちにも会いました。妻の郁子に会ってから、寿司やさしみなどを、たくさんのオーストラリアの人々に紹介してきました。メルボルンの動物園に日本庭園があるでしょ。あそこの軽食堂に寿司バーをつくるようにサジェストしたのも私です。これまでずっと仕事を楽しみ、充実した日々を過ごしてきました。 |
*それで現在はどのように毎日を過ごしていらっしゃいますか? |
ガーデニングとチェス、それに読書を楽しんでいます。歴史や国際政治関係などがおもしろいですね。 |
*今日はお時間をさいて、インタビューに応じてくださりありがとうございました。 |
(c) Yukari Shuppan
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