Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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MELBOURNE Street by Street (26)

Flinders Street   ―  その 1  ―    

ケン・オハラ 

今から203年前、Matthew Flinders と George Bass はタスマニア沿岸を船で一周することによって、タスマニアが島であることを証明した。ビクトリア州とタスマニアの間にある島が Bass Strait と名づけられたゆえんである。

Flinders はオーストラリアの方々を探検してまわった。その足跡は彼の名前と共にオーストラリアのあちこちに残されている。Bass Strait には Flinders Island があり、 Western Australia には Flinders Bay が、 South Australia には Flinders Ranges があって、 Queensland には Flinders River が流れている。そして我がメルボルンには Flinders Street がある。

勿論、Flinders Street は Matthew Flinders が発見したわけではない。1837年に Robert Hoddle がメルボルン市街地を設計した際に、Flinders にちなんで命名したのである。(シティの東にある Hoddle Street は設計者の名前にちなんでつけられた。)

ところで Ken O'Hara は 2分前にMelways Map で O'Hara Street を発見した。 Blackburn に一つだけあった。

さて話をFlinders Street に戻して、Flinders Street とSpring Street の角から始めるとしよう。この最初のブロックは、3人のオーストラリア人の名前を思い起こさせる。Harry Seidler, Walter Lindrum, Rupert Murdoch である。

Harry Seidler は1923年にウイーンで生まれた。オーストラリアで最も有名な建築家の一人である。1940年代にアメリカで学び、1948年からシドニーで仕事を始めた。

彼が設計、建築した主な建物は、パリのオーストラリア大使館、シドニーの Australia Square, the MLC Centre, Grosvenor Place 。 メルボルンではFlinders Street と Spring Street の角にあるthe Shell である。Harry Seidler は、強烈な自己主張とプライドの持ち主としても知られている。ケン・オハラは Shell のビルディングにつけられた S のマークを見るたびに、これはShell の頭文字なのか、もしかしたら Seidler  の方かもしれないと、首をかしげてみる。(ところで Shell は2003年に、本店をシティから Camberwell Junction にある新しいビルディングに移した。)

Walter Lindrum は、オーストラリアのビリヤードの名手であった。1932年から1950年に引退するまでの間、不敗の世界チャンピオンであった。彼は不運にも、クイーンズランドで食べたミートパイに食あたりして、1960年に他界した。Carlton にある Melbourne General Cemetery  には、大理石のビリヤードテーブルと真鍮のキューとボールでデザインされた彼の墓がある。

Flinders Street の 旧Shell の本店の隣には、 Hotel Lindrum があった。 Walter Lindrum の姪 Dolly Lindrum が、ここで 長年、the Lindrum Billiard Centre を経営していた。ケン・オハラはここで度々ビリヤードをしたものである。 Rupert Murdoch の 新聞 The Australian がこの建物を買い取る以前のことである。

Rupert Murdoch の父親 Sir Keith Murdoch は、第一次世界大戦中に、後にアンザックデーとして記念される Gallipoli 作戦の報道で有名になった人である。

彼が報道した Gallipoli 作戦に対する非難は、遂に英国の作戦指揮官を交代させるに至り、その名を不動のものにした。

Sir Keith Murdoch は、後に the Herald と Weekly Times (メルボルンの the Morning Sun と Evening Herald で現在の Herald-Sun )のチーフ、及び発行者となり、社をオーストラリア最大の新聞及び放送グループにしたてあげた。

Flinders Street 沿いの Exhibition Street の角から少し離れた所に建っている the Herald and Weekly Times ビルは、1923年から1995年まで新聞社として使われていた。後にビルの大改造がなされたが、その有名な正面玄関はそのまま残されている。

Sir Keith Murdoch は1952年に亡くなったが、氏は社の株の多くを所有していなかったため、当時21歳だった息子の Rupert Murdoch は、アデレードの小さな新聞社を引き継いだ以外、社に何の影響力も持ちえなかった。他の新聞社の経営者たちは、彼のことを " the boy publisher " と呼んだ。

1987年に the Herald と Weekly Times を買収し、現在、世界の  Rupert Murdoch  となった彼を " the boy publisher " と呼ぶものはどこにもいない。


copyright: Ken O'Hara
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