この国の成り立ち (27)
ゴールドラッシュ 3
前田晶子
希望に燃えてやってきた金鉱の生活も、ほとんどの人にとっては惨めなものでした。金を見つけて豊かになれる人はごくわずかで、だんだん大掛かりになる金山で、雇われ炭鉱夫として、朝暗いうちから暗くなるまで働き、テントや掘っ立て小屋または野宿で蚊やのみに悩まされながら寝るのでした。
中でも、警察官(ポリス)は最も嫌われた存在でした。金鉱で働くには、許可証が必要でした。政府は収入源として、金を掘りに来た人から1ヶ月30シリングもの金を徴収して、許可証を発行していました。日に3回も4回もポリスは人々の間を回っては、この許可証をもっているかどうか、確かめにくるのです。半分水につかって働く人は許可証を小屋においてきています。わざわざ地上まで上がって、ポリスに見せなければなりません。貧しい人はこのお金を払うことが出来ません。すると、牢屋に入れられ、重労働を課せられます。人々の間に不満が積もっていきました。
ビクトリアの金鉱の町バララットは、たくさんの人が集まる大きな町になっていました。1854年10月の深夜、飲んだくれた炭鉱夫2人が、ユーレカホテルのドアをどんどんとたたきました。もう閉店になっていたので主人は断りました。二人は悪態をついて帰路に着きました。途中何者かに襲われ、一人は殺され、一人は殴り倒され意識不明になりました。翌朝、ホテルの主人夫婦と友人の3人が殺人の罪で捕らわれました。しかし、証拠不十分ですぐ釈放になりました。炭鉱夫たちは、ホテルの主人が裁判官と友達だから釈放されたと、これに抗議しました。殺人現場に4000人が集まり、興奮した群集はユーレカホテルに火を放って焼いてしまいました。3人が放火の罪で捕まりました。
炭鉱夫たちは政府に自分たちの要求をつきつけました。捕らわれた3人を釈放すること、許可証の廃止、投票権、土地が買えるようにとりはからうことなどです。これらの要求をはねつけた政府に怒って、炭鉱夫たちは許可証を焼き払ってしまいました。暴動を恐れた政府は、軍隊を続々バララットに送り込みました。
12月にはいると、炭鉱夫たちは、砦を築き、軍から奪った武器で武装し、南十字星の旗を掲げ、1500人がたてこもりました。日曜日は襲ってこないだろうと油断した彼らは、少しずつ砦を離れ自分たちのテントへ帰っていきました。200人しか残っていなかった砦は、12月3日未明突如軍に襲われました。ほとんどが寝入っていた炭鉱夫たちは一方的にやられ、戦いは20分で終わってしまいました。炭鉱夫側の死者22人、けが人20人、軍は死者4人、けが人12人でした。
ユーレカ革命と呼ばれるこの暴動は、数字から見ると小さな出来事のように見えますが、歴史的には大きな意味のあるものでした。翌年には、ポリスは許可証の見回りを取りやめ、支払う料金も年1ポンドと20分の一近くに引き下げられました。議会の席も炭鉱夫に8席与えられました。炭鉱夫が土地を買って農家になる道も開けました。ユーレカ革命の指導者は、後に議員になりました。
・主な参考図書
Dreamtime To Nation by Lawrence
Eshuys Guest (
MacmillanAustralia)
Investigating Our
Past by Sheena Coupe (Longman
Cheshire)
A Country Grows Up by J.J.Grady (Cassell
Australia)
その他の参考資料は連載の最後にまとめて表示します。
*この記事の無断転載、借用を禁じます。
(私的な学習、リサーチ、評論、書評のための利用は例外とされています。)