インタビュー (28) Young R. Choi |
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。 今月のこの人は、メルボルンの Grand Hyatt Plaza で、Topia Jewellery shop を営んでいる Young R. Choi さんを、お店にお訪ねしてお話をうかがいました。 |
*インタビューは英語か日本語になりますが、どちらがいいですか? |
そうですね。日本語の方がいいかな。でも私の日本語は100%ではないので、不明なところはその都度指摘してください。 |
*わかりました。私も日本語の方が楽です。ではさっそく、オーストラリアにいらしてどのくらいになりますか? |
2年と8ヶ月ほどですね。 |
*まだいらして間もないのですね。ではオーストラリアの前はどちらに? |
日本に16年ちかくいました。 |
*その前は? |
韓国です。 |
*では日本にいらした動機をお話しいただけますか? |
留学です。私は韓国の軍事政権下で教育を受けてきましたので、高校を卒業したら、もっと自由な環境で勉強をしたい、とずっと思っていました。その頃韓国で留学先、というと圧倒的にアメリカ、次がイギリスで、日本はメジャーではありませんでした。私もアメリカに行くつもりで資料などを取り寄せていました。そうしたら日本との貿易の仕事をしている父に、ではアメリカで何を勉強したいのか、と問われました。金融です、と答えると、これからアジアの金融の中心は日本になる、アメリカに行く必要はないのではないか、といわれました。今から20年ほど前のことで、その時には現在の日本文化開放政策など存在しなかった時代でしたので、日本からの情報が極めて乏しかったのです。それまでの反日教育の影響もあったと思いますが。実際には日本の高度成長から学ぼうと必死だったのですが、表向きは反日、日本から学ぶものはない、というのが大方の姿勢でした。日本へ留学? なんで日本に? お前、物好きだな、という風潮でした。まあ私としては、父の助言を受け入れて、賭けをするつもりで日本留学を決めました。ソウルの日本大使館へ日本の大学について調べに行きましたが、今と違って資料も情報も少なかったですね。でも、留学先をアメリカから日本へ変更して、いく分気が楽になった点もありました。同じアジアだからなんとかなるんじゃないかと。言葉も韓国人にとって日本語は難しくない、と聞いていました。とにかく私は日本に行くことに決めました。しかし、アメリカの大学なら韓国で入学試験が受けられたのですが、日本の大学は日本へ行かないと試験が受けられませんでした。そのくらい当時の日本は国際面で遅れていました。今は変わっているのではないかと思いますが。日本へ行って1年間勉強をして受験しました。 |
*たったの1年間ですか? どうしてそんなことが可能なのですか? 留学先を変えたから日本語はぜんぜん勉強していなかったわけですよね? |
韓国語と日本語はそれくらい似ているのです。文法も似ているし、漢字も使いますから。私の個人的な考えでは、韓国人が英語と日本語を勉強する場合、英語に10年、日本語に1年、で同じレベルになると思います。 |
*でも、私が韓国語を聞いても、全く何も解かりませんけれど。 |
そうかもしれませんが、新聞などは理解できたと思いますよ。私も日本に着いてすぐ新聞を買って読みましたが、だいたい理解できました。逆に日本人も韓国に旅行に行って、新聞を読むと、だいたいの意味が解かった、というのを聞きました。今はもう韓国では漢字がなくなりましたが。 |
*ハングル語に統一されたのですね。 |
そうなのです。漢語学者がハングル語学者に負けてしまった、というか、ナショナリズムの一環なのですが。韓国語から漢字を無くしてしまったのは、教育面において最大の失敗ではなかったか、と私は思っています。漢字を無くしたがゆえに、ハングル語しか知らない子どもたちが、これから中国語を学ぶのも、日本語を学ぶのも非常に苦労をすると思います。なぜ、そこまでナショナリズムに走らなければならなかったのか・・・・。まあ、それも当時の国の政権維持の手段にしか過ぎなかったわけですね。民族的な内なるプライドを持つ、ということは良い事ですが、何もそこまでしてナショナリズムを高め、民意を統一する必要があるのか・・・・。もう、新聞には漢字は使われてないし、韓国のインターネットからも漢字は消えています。 |
*それで早稲田に入学されたのですね。たった1年の受験勉強で、すごいですね。で、早稲田を選ばれた理由は? |
韓国では早稲田が比較的知られていたのです。日本で学生運動があった時に、その様子がニュースで世界に流されましたが、その場面は東大の安田講堂ではなくて、早稲田の大隈講堂のシーンだったのです。 |
*あっ、そうだったのですか? それは知りませんでした。 |
それと、早稲田は昔から留学生を受け入れていました。韓国でも成功した人の中に早稲田に留学をした人が何人かいます。他の大学を知らなかった、というのも大きな理由だったと思いますが、早稲田は昔から留学生に門戸を開いていたくらいだから、それほど閉鎖的ではないだろうと、考えました。 |
*留学生時代に、辛い思いをしたとか、嫌な目にあった、ということはありましたか? |
それはあんまりなかったですね。私の場合非常にラッキーだったのです。留学生に対しての奨学金をもらえましたので助かりました。それと学生職員も2年間していました。昼間は普通の学生として勉強して、夜に夜間部の大学の職員として働きました。飲食店で1時間、5百円とか6百円でアルバイトをする学生に比べれば、恵まれていました。けれども、失望した面もありました。授業内容がなんというか、ゼミの教授が、ただえらそうに30分くらい、しゃべってどこかに消えてしまったり、とかいうことが2年くらい続きました。他のゼミもあまり変わらなかったです。学生も勉強しなくて、それでいて誰でも卒業できるんですね。卒業したいという意志さえあれば、卒業させてくれるでしょ。 |
*そうですね。日本の大学生のレベルが低い、というのは、世界的にも知られてきていますね。教授の中にはアルバイトなどに忙しくて授業を手抜きしたり、やる気がない人が多いようですし、学生は学生で入学してしまうと勉強しませんからね。今現在はどうなのか知りませんけれど。それで、失望なさった? |
ええ、こんな環境で4年間、過ごさなければならないのか、と思ってがっかりしました。アメリカか日本か、ということで、日本留学に賭けたわけですが、賭けに失敗した、と思いました。でも賭けたのは自分ですから。まあ、日本の学生を批判しておいて、じゃあ、お前はどうなんだ、といわれれば、私も朝から晩まで勉強していたわけではありませんが、非常に失望したことは確かです。なぜアメリカに行かなかったのだ、という後悔の気持ちが強かったです。勉強をして学問の世界に入れなかった、というのは自分の判断ミスだった、と感じています。だから、今こうして商売をしていますが、でも、それも長い人生の中で考えれば、日本にいたから、今こうしてオーストラリアに住むことになったわけですし、商売もけっこう面白くて、自分に向いているのかもしれない、とも思います。考えたこと、計画したことと、現実とずれがあっても、それは当然のことかもしれないですしね。 |
*そうですね。人間万事、塞翁が馬、という中国の例えがありますけれど、何が幸いとなり、何が禍となるか、わからないですよね。長い目でみると。 |
さっきの質問に答えるとしたら、留学生として、そういった精神的な落胆というのはありましたが、その他の面ではかなりうまくいっていました。妻とめぐりあえたのもその頃でしたから。いい友人もできましたし、卒業後には、仲人まで経験したんですよ。日本では3回仲人をすると一人前といわれるそうですが。日本人と家族ぐるみの深い付き合いができるようになったのは、この4年間の結晶ですね。勉強の面は別として、日本での4年間の大学生活は成功だった、と思っています。 |
*日本の大学を卒業して、日本人と結婚して、日本でビジネスをしていて、現在、オーストラリアに住むことになった理由をうかがってもいいですか? |
そうですね。いろいろあって、簡単明瞭に一言ではいえませんが、バブルがはじけた後のビジネスのフラストレーションもありましたし、子どもの教育に関しての不安も大きかったですね。サカキバラ事件とか次々にあって、学級崩壊とか、子どもが丁度学齢期にさしかかっていましたから、とても心配でした。私は学校任せにしないで、家庭で教育してもいい、とも考えたのですが、それでは社会性が育たなくなります。子どもを外に出さなければいけない時期なのに、教育環境がおかしくなってきていて、経済だけでなく社会もゆがんできているのがとても心配でした。そういう時期に、ストレス解消に旅行に行こう、ということになって、オーストラリアに家族旅行に来ました。シドニーを観て、メルボルンにも来たのですが、その時に、凄いショックを受けました。びっくり仰天、いったいこの人たちは何という、生活をしているのだ! と思いました。私は宗教を持っていませんが、オーストラリア人の生活を見て、大げさかもしれませんが、「神の祝福を受けた人たち」という言葉で表現したいような印象を受けたのです。こんな国が世界にはあるのか、と思いました。人々がなんと明るく、のんびりと暮らしているのだろう、と。高いブランドものを身につけている人はいませんでしたが、清潔そうだし、田舎の素朴さがありながら、それでいて近代的で都会的でもありますね。素晴らしい環境ですよね。それで私は、家内に言いました。考え方を変えよう、と。ホリデーではなくて、この国に永住するならば、という気持ちで後半の旅行をしよう、と。それで住宅街をドライブしたりしました。そしてこの国で職さえみつかれば、ちゃんとした仕事さえみつかれば、どんな犠牲を払っても、この国に住んで子どもを教育しよう、と帰りの飛行機の中で移住を決心しました。それで、どうやったらオーストラリアに住むことができるのか、日本に帰って早速、インターネットで情報を集めました。そうして、移民には点数制の条件があって、その点数さえクリアーすれば、永住権が取れる、ということがわかりました。それに則って条件をクリヤーできる書類を申請しました。このときインターネットがどんなに便利なものかつくづくわかりました。インターネットがなかったら、私たちのオーストラリア移住は、そう簡単には実現しなかったかもしれません。というのも、短時間で自分の仕事を続けながら情報を集めたり、書類を申請したりするのはとても無理だった、と思います。4ヶ月ですべての手続きを終えて、後は英語の試験の結果を待つだけでした。その結果が出るのが何故か遅いんですよ。他はすべてクリアーしていたので英語の試験の結果で可否が決定という状態だったのです。12月25日のクリスマスの日に、クリスマスカードに混じって、合格通知が届きました。ああ、これは私に行きなさい、ということなのだな、という運命のようなものを感じました。英語の試験の結果を大使館に送ったら、すぐ永住ビザがおりました。 |
*その当時日本ではどんな仕事をされていたのですか? |
宝石商です。大学を卒業してからずっと宝石関係の仕事をしていて、1992年に自分のビジネスを起業しました。でもバブルの後でしたから、厳しいものがありました。不動産の投資で資産を失った人も多かったし、悲惨な目にあう人も多かったですからね。 |
*オーストラリアにいらしてからのビジネスはどうでしたか? |
おかげさまですごく順調でした。移住後、初めの1ヶ月はいろいろと準備をして、それから1ヵ月後に会社を設立しました。真珠を主とした宝石関係の卸業ですが、面白いくらいに売れたのです。日本は閉鎖的な社会ですし、特に卸業などでは、初めてその中に入っていく、ということは非常に難しいのです。信用とか繋がりとかありますから、知らない人がいくらいいものを持ってきても、はい、買いましょう、ということは100人中1人いれば、いい方だといわれています。だから私はオーストラリアでも、半年くらいはあいさつ回りをするつもりでした。あいさつ回りに商品を持参して、みてもらうつもりだったのですが、オーストラリアではそんな必要はないのですね。即ビジネスなんです。日本だったら卸の場合、販売後、少なくとも3ヶ月後の決済、半年ということもあるのです。ところがここでは気に入ったら買ってくれて、その場でチェックにサインして渡してくれるのです。チェックをその日に銀行に持っていけば、3日後には自分の口座に入金されているわけですから、日本のような閉鎖的なマーケットを経験して来た者にとっては、こんなにオープンなマーケットというのは、ビジネスをする人にとっては天国みたいなものですね。仕事が順調にいって、半年後にはこの店を見つけてオープンできたのですから。それだけビジネスがしやすい、ということなのです。 |
*たった2年半でここまでされた、ということは、本当に素晴らしいですね。ビジネスの才覚がおありなのと、オーストラリアの経済が好調な時にいらして、事業を始められた、ということもあるでしょうね。 |
そうですね、なにしろ来た当時は無我夢中で、良いも悪いもわからなかったのですが、少し落ち着いて、近頃ビジネスのデーターなどを見てみると、内需は非常にいいですね。 |
*でも、オーストラリアも1980年代前半は失業率が二桁になって、大変だったのですよ。一時は1920年代のような世界恐慌になるのか、という危機感がありました。私たち都会に住んでいるものは、スープをもらう為に行列するようになるのかしら、と冗談半分にいったこともあるくらいです。世の中、薄暗い雰囲気でしたが、それほど深刻ではなかったですね。失業しても次の職がみつかるまで失業保険が出るし、食料品が安いから、あまりお金がなくてもなんとかしのいでいけます。公園や海辺でぼーっとしている分にはお金がかかりませんから。太陽の恵みはカネのあるなしにかかわりなく平等ですからね。 |
そうですか。でも日本では金がないとみじめですよ。何をするにしても金がかかります。それに、たえず人のことを気にして、比較しないと生活できないような雰囲気があります。隣の人が車を買った、ということが気になるんですよ。そんなこと気にする必要はない、とはわかっていても、すべての密度があまりにも濃いので、気になってくる、気にせざるを得ない雰囲気なのです。ところがオーストラリアでは隣が何をしようが関係ない、隣は隣、家は家で、自分の領域が持てる、他人に影響されずに自分の人格を保つことができます。 |
*そうね。それでいて、けっして冷たくはないですよね。 |
そうです。ちょっとラフなところはありますが、冷たくはないですね。老人を優先する、弱者を優先する、それから、日常生活で、ちょっとしたことでの人間のふれあいの暖かさを感じます。 |
*韓国と比べては、どう思われますか? |
それは、私にはちょっと簡単にはいえないのです。オーストラリアに来る前に日本に16年ほど住んでいましたから、私の知っている韓国は20年前の韓国です。20年前の軍事政権の韓国と現在ではずいぶん変わってきているはずなんですね。それを、オーストラリアから、ちょっとインターネットで得た情報だけで、20年前の韓国と比較してどうこうとは、いうべきではないと私は思うんです。 |
*ごもっとも、全くおっしゃるとおりですね。では話を変えて、オーストラリアに移住する、という2度目の賭けは成功だった、と思われますか? |
いや、今度は賭けはしたくなかったのです。自分だけではないですから。妻も子供もいますから。だから最悪の状況を考えて、その最悪の状況でも、自分でやっていけるかどうかを考えました。そしてたまたま蓋を開けてみたら、自分の考えていた最悪の状況よりは、ずっと良かった、ということです。特に教育面ですね。心配していた大きな二つのこと、教育面と経済面が良かったです。経済の方はなんとかなると思っていました。大学を出たからといってホワイトカラーにならなくてもいいわけですから、ウエイターになってもいいし、労働者になってもまだ働ける自身がありましたから、とにかくこの国で働いて家族を守っていけさえすればいい、とその覚悟できました。でも、仕事の面ではそんな心配はなくて、非常にうまくいっている、ということなのです。もう一方の教育面は、こればっかりは私の力の及ばないところですから、来る前に徹底的にインターネットで調べました。それで、これならいいだろう、という結論を出したのです。そして来てみたら、教育システムはきちんとできているし、これも予想していたよりも、ずっと良かったのです。 |
*いらした時のお子さんの年齢は何歳でしたか? |
6歳と8歳でした。英語を学んで母国語のように使いこなせるようになる、ぎりぎりの年齢だと、私は思ったのです。子供たちの歳がもっと上だったら、たぶん移住はしなかったでしょう、子供たちのために。言葉が自由に使えない、ということが、どんなにつらくて、不利なことか、私が身をもって体験していますから。言葉ができないとその国に入っていけない、自分の位置づけをすることができないのです。言葉というのは単に用件を伝えるだけでなくて、言葉ってやっぱり、自分の気持ちを伝えたい、考え、思想などを伝える、ということですよね。たまには哲学的な話もしたい、だけど、それができなくて、いつまでたっても、簡単なレベルの幼稚な表現しかできないで終わってしまうのなら、子供がかわいそうだ、と思いました。それで、行くなら今、と思ったのです。 |
*それで、初めてオーストラリアの学校に通い始めたお子さんの様子はどうでしたか? |
家のそばの普通の公立の学校に入れましたが、のびのびしてましたね。英語もなにもわからないのに。学校が楽しい、といってました。 |
*ご家庭では何語を話していらっしゃるのですか? |
日本語です。家内がまだ英語は良く話せないので。それに子供たちには日本語も覚えていて欲しいので。上の子は日本で小学2年まで行きましたので、小学2年程度の読み書きはできますから、それを継続させるために土曜日には日本人学校へ通わせています。でも、こちらで2年過ぎた頃から、子供たちは家でも英語を話すようになりました。英語の方がらくなようです。それとこの国の教育システムがすごく良いことと、校長先生がみずから学校内を歩いて、生徒に声をかけたり、生徒の名前を覚えていたりするのですね。それには感銘しました。私たち移住者はどうしても教育熱心になってしまうのです。移住者はやっぱり色々な面で不利ですから、言葉の問題や何かで。その不利を克服するためにも、子供の教育に力を入れざるを得ない、ところがあるのです。オーストラリアの学校教育は内容もいいし、日本のように右にならえ、でないところがいい、と喜んだのです。ところがしばらく経ってみると、あまりにも自由すぎて不安になってきました。勉強の方はこれでいいのかと。だからといって日本のように塾に通わせるようなことはしたくないし、だいたい塾があるのかどうかもわかりませんでしたから、解決策として私立に行かせよう、ということになりました。ところが私立は、他の物価に比べて、学費が異常なほど高くて、しかも有名な私立にはウエイティングリストがあって、空きがないと入れないのですね。ただ奨学生になれば入れるとのことでした。それで奨学金をもらう試験を受けて、私立の学校に移りました。 |
*小学校にも奨学金制度があるのですか、それは知りませんでした。 |
あるんですよ。学校にもよりますが、私の娘がいる学校は、小学5年生から奨学金試験の受験資格がありました。娘は奨学生試験に受かって、その学校に通っていますが、少人数で生徒の個性を重んじて教育してくれます。試験だけでなく面接も受けて、その時、校長自ら、お子さんは責任を持って教育しますよ、と言ってくれたので、感動しました。日本ではそんな言葉は聞いたことがなかったですから。校長としての権威をふりかざすのでなく、教育者としてすることをきちんとして、生徒の名前も覚えていて声をかけたりするのですね。ビジネスの世界でもそうですが、この国の人は上の人でも偉ぶらないですね。市長さんでも自分で車を運転してどこにでも気軽に出向いて行くんですね。 |
*そうですね。上も下も、みんなファーストネームで呼びますよね。たまたまその人が、職業としてそのポストに就いているのであって、人間として各々は平等、という意識なのでしょう。では、移住の大きな理由の一つだった教育面でも、満足されいるわけですね。これからも、ずっとオーストラリアに住み続けたい、とお考えですか? |
うーん、オーストラリア、特にメルボルンは住めば住むほど、好きになってきています。乗り物などで老人に席を譲ったり、ころんだ人にさっと手を差し出すような、弱者を大切にする習慣がとてもいいですね。教育環境もいいし。自然環境もいい。このままずっと住み続けたい、という気もあります。まだ来たばかりで、子どもの教育もまだこれからですからね。私は子供が大学生になるまでは、しっかり面倒をみるつもりです。大学に入る時に、オーストラリアに限らず、日本、中国、アメリカ、イギリス、どこの大学を選ぼうが、それは子供の自由にさせるつもりです。外に行くのは自分の見聞を広めるチャンスですから。そして大学を出たら、どこへ行ってもいい、どこで暮らしてもいい、と思っています。ただ、それには、自分が迷わないためのアイデンティティが必要だと思います。そのために、そろそろ子供にはこの国の国籍をとらせてもいいかな、と考えています。私自身は、韓国人とか、日本人とか、オーストラリア人とか、何何人、ということにあまりこだわる必要はないと思っています。将来、子供が大学を卒業して、親の責任を果たしたら、その時はその時で、家内とも相談してどうするか、考えてみたいと思います。年を取ってきたら日本の、温泉があるそばに住みたくなるかもしれないし。 |
*だいぶ先のことですね。まだあと10年くらいあります。 |
でも10年なんて、あっという間ですよね。 |
確かにそうです。これからの10年が、ご家族にとってますます充実したものとなりますように。今日はお時間をさいて、インタビューに応じてくださりありがとうございました。 |
Young R. Choi さんへのコンタクト Topia Jewellery (c) Yukari Shuppan
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