Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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この国の成り立ち (29) 

        
                一つのオ-ストラリア                 前田晶子

ゴールドラシュは、掘り出した金で植民地を財政的に豊かにしたばかりでなく、オーストラリア全体に活気をもたらしました。急激な人口増加によって、産業界は労働人口の増加という決定的な恩恵に恵まれました。産業は発展し、農産物は増産し、町はどんどん立派になっていきました。海外からゴールドラシュにやってきた人たちは、植民地の境など気にも留めず、どこにでも動き回りました。そのおかげで、道路は作られ、交通手段が整って行きました。またゴールドラシュ移民がオーストラリアに留まる社会的下地がすでにあったことも幸いしました。これは歴代の各植民地の総督の努力のおかげでもあります。

それぞれの植民地は、総督の独裁政治から始まりました。流刑の地という性格上、これはやむおえないことでした。自由移民が増えて、町が大きくなるにしたがって、政治は総督の手から、民主的な議会政治へと移っていきました。そして各植民地は、自立の道を歩みだしました。19世紀後半にはほとんどの植民地が独自の政治を行っていました。中でもニューサウスウエールズとビクトリアは2大植民地でした。植民地の成り立ちや性格が違うために政治のやり方も異なっていました。たとえば、自分たちの産業を守るために、関税を設けているビクトリア、自由貿易をしているニューサウスウエールズといった具合です。みな自分の住んでいる場所が一番いいところと考えていて、お国自慢的な傾向がありました。ですから、1860年ごろから言われだしたオーストラリアを一つの国にしようではないかという意見にもほとんどの人は真っ向から反対するか、まったく無関心でした。

それでも1890年代に入ると人々の心にオーストラリアという意識が芽生えてきました。この頃になると全人口の75%はオーストラリア生まれの人が占めるようになったこともありますが、それに加えてスポーツ選手はオーストラリア代表として、海外で試合をするようになり、画家、詩人はオーストラリアの特色を出した作品を世に送り出していきました。新聞には連邦政府移行に賛成、反対の論文や投稿が載り、討論会も盛んになりました。少数派だった賛成派は、だんだんと数を増やしていきました。


・主な参考図書
Dreamtime To Nation   by    Lawrence  Eshuys  Guest MacmillanAustralia)         
Investigating Our Past  by    Sheena Coupe (Longman Cheshire
A Country Grows Up  by  J.J.Grady   (Cassell Australia)
その他の参考資料は連載の最後にまとめて表示します。

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