Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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インタビュー (30)        永見博義
                                
  
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。 今月は、メルボルンの日本囲碁クラブ代表、永見博義さんをお訪ねして、碁クラブを軸にいろいろなお話をうかがいました。
 
*オーストラリアにはいくつぐらい碁クラブがあるのですか? 
オーストラリア囲碁アソシエーションに登録しているクラブが今のところ11あります。
*けっこうあるのですね。 
各都市にあって、シドニーが一番多いです。というのは、シドニーではエスニックごとに別れていて、中国、韓国、日本、オーストラリア、とこれだけで4つクラブがあります。あと日本人駐在員の碁クラブもあるときいています。メルボルンには今2つあります。
*シドニーは民族別に分かれているところが、おもしろいですね。

シドニーの碁クラブの特徴ですね。他はそんなことないですよ。メルボルンの日本碁クラブは反対に、多民族多文化が特徴です。中国人、韓国人、日本人、ベトナム人、オーストラリア人、ヨーロッパ人といろいろいます。僕はいろいろな国の人と碁を打ったほうが面白いと思うんですよ。

*オーストラリアに碁クラブができたのはいつごろですか?

1975年です。その頃、日本に長くいたことのあるアメリカ人がシドニーに住んでいて、その人の大きな家に同好者が集まって碁を打っていたようですが、クラブができたのは1975年だそうです。

*ではヨーロッパやアメリカに比べると比較的新しいのですね。

そうです。新しいですよ。日本人が本格的にヨーロッパに碁の普及に出かけたのは昭和30年頃(1955年)です。その後、日本経済の発展に便乗して、文化交流の名目でどんどん派遣して普及していきました。だから、現在、国際的な碁の用語はほとんど日本語になっています。            

*そうなのですか。碁の発祥は中国ですよね。でも中国語ではなくて国際的には日本語が使われているのですね。碁のルールそのものは中国も日本も同じなのですか?
用語はほとんど同じですが、ルールは違います。根本的な違いは、中国の碁の場合は、最後に盤上にある白黒それぞれの石の数と、白黒双方が囲んでできた地の数の合計を競うのだそうです。日本の碁の場合は囲んだ陣地の目の数を競います。

*そうなのですか。現在国際的に行われている大会などでは日本の碁のルールが適用されているわけですね。

そうです。でも中国式碁の世界大会も開かれるようになりました。中国も経済力をつけてきましたからね。韓国も碁が盛んですよ。ヨーロッパ、特にロシアへは韓国がどんどん進出して碁を教えにいっています。ロシアからも韓国に習いに行ったりしていますから、ロシアの碁では、うって返しとか、伸び、はね、などという用語はもうハングルになっているそうです。先日の第8回NEC碁トーナメントに日本棋院からのプロの棋士が来られ、私が半日ほどメルボルンをご案内したのですが、その時にそんな話をききました。韓国経済も力をつけてきていますからね。一方日本は落ち目ですからね。
*うーん。そうなのですか。碁の世界まで。やっぱり経済の影響力って凄いものですね。

日本棋院の方ではスポンサーがほとんど降りてしまいました。現在残っているわずかなスポンサーもおりつつあるようです。スポンサーを見つけるのが大変らしいですよ。どこも文化交流だの、なんだかんだと口では言っても実際にお金を出してはくれませんからね。今回のNEC大会はかろうじて開けましたけど、来年はプロが来れるかどうかは、わからないですからね。

*そうなんですか。厳しいですね。ところで、碁は中国、韓国、日本以外のアジアの国ではどうなのでしょうか。
どの国でもたいがいやってますよ。インドは少ないですけれど、タイ、ベトナムもあります。タイには中国も時々行って普及してます。ベトナムもそうですね。ベトナムには私も2回普及に行きました。最初に行ったのは8年くらい前ですかね。当時のメルボルン囲碁クラブのメンバーだったベトナム系オーストラリア人の友人に、日本棋院から女性プロ2人がハノイとホーチミンに普及に行くようなので、飛行機代をもつから一緒に行ってみよう、と誘われ、ハノイへ行きました。日本棋院がハノイの将棋・チェス協会に碁盤や碁石を寄付して、二つの小学校にプロの先生のお伴として碁を教えに行きました。その小学校では先生が碁に興味があって、生徒に少し教えていましたが、碁盤も碁石もないので紙に描いたりしてやっていました。ここではとてもうまくいきました。次に行ったのは、大使館主催の日本ベトナム友好25周年記念の催しでした。日本棋院や友達から、お前また行ってみないか、といわれて行きました。だけど大使館が主宰でやってることは、日本から来た人たちを、先生、先生といってもちあげて、飲み食いばっかり。それに駐在の日本人を集めてパーティでしょ。もちろん、大使館内でベトナムの子供たちを集めての普及講座もありましたが、現地との交流にはぜんぜんなってないんですよね。僕はそんなのウマが合わないから、自分でさっさと、前に碁を教えに行った小学校にまた行きました。そしたら僕のことを覚えていてくれて歓迎してくれました。それで日本棋院プロに、「先生、他の学校や大学に行って、教えてもらえますか?」と頼んだら、取り巻き連中に、「先生、先生といって、気軽にただで使えると思わないでくれ」、といわれました。それで僕は頭にきて、又別行動をとることにして、ハノイの碁クラブの英語の解かるベトナム人と一緒に、別の小学校へ行って教えました。文化交流なんていって、大使がカッコよく見せたいだけで、中身がないんですよね。お茶をにごしたようなもんで。2回目は後味の悪い訪問となりました。オーストラリア式に「国民の税金を、ちゃんと使え、外務省、ムダ使いするな」と言いたいぐらいでした。
*そういうことはよくありますね。実際に草の根交流をしている人はカチンときますよね。それに確かにオーストラリア人は税金の使い道に関して厳しいですね。所得税がけっこう高いということもありますけれど。我が家では収入の3分の1以上、半分近く払っていますから。オーストラリア人の夫はニュースを見ながら、俺の払った税金、そんなことに使っているのか、けしからん、とか、それはいったい誰が払うんだ! としょっちゅうテレビに向かって怒鳴っていますよ。そういう反応が一般的ですね。 ニュースでも、これを実施するためには納税者は何億ドルを払うことになる、とはっきりいいますからね。
ベトナムの場合は、日本の駐在員で何十年も駐在している方が居て、この方が熱心に教えてくださっていて、かなりいいところまでいっています。ベトナム人はチェスも強いんですよ。たしか最近のチェスのチャンピオンはベトナム女性だったとか聞きました。頭がよくてセンスがあるんですね。碁でもこの前の世界大会では、上位の部に出てやってましたから、ベトナムではこれから碁が流行って強くなっていくでしょう。
*世界大会というのはどこで開かれるのですか?
だいたい日本ですね。ヨーロッパ碁大会とかアメリカ碁大会とか、それぞれありますから大会が開かれるところへ世界各地から参加して打つわけですが、一番盛んなのは日本で、長野の大町とか九州の別府とか、温泉地など毎年いろいろな所で開かれるので人気があります。しかも全部招待で、上げ膳据え膳ですからね。
*それではお金がかかりますね。やっぱり日本でやるとなると、そうなってしまうのかな。ヨーロッパなどではどうなのですか?
招待ということはないと思います。オープニング、打ち上げなどのパーティだけでなく、色々なイベントを企画したり、歌ったり、踊ったりして楽しんでいるようです。
*碁の世界も国や時代により、だんだん変わっているのでしょうね。
最近のいちじるしい変化はインターネットで誰とでも碁が打てるようになったことですね。これはある意味では脅威でもあるのです。わざわざクラブや碁会所に出かけて行かなくても、家でただで打てるのですから。
*家のコンピューターで、インターネットを使えば中国や韓国はもとより、スエーデェン、ドイツ、南アフリカなどの人とも打てるわけですね。碁の世界もまさにグローバルになってきているのですね。その場合、言葉が障害になる、ということはありませんか?
碁を打つには、言葉はあまり必要ないですね。ハロー、といって始めて、終わったら、サンキュー、と言えばいいわけですから。ただ、英語のできる人は碁を打ちながら、チャットもしてますね。ところであなたはどこに住んでいますか? とか、何年ぐらい打ってますか? などとやりとりしていますよ。インターネットは脅威ではありますが、碁の普及にもすごく貢献してくれている面もあります。僕はこちらのローカルの高校に呼ばれて、碁を教えに行ったりしていますが、行ける回数も限られているので、碁のソフトで学んだり練習する方法を紹介しています。それでたまにクラブに来て貰って打つ、碁の普及には、もうそれしかないような気がしています。僕なんかは、クラブに来て相手と冗談をいったりして、無駄口たたきながら打ちたい方なのですが、若い人たちは必ずしもそうではありませんから。もう徹底して対戦し、技術を学んで、もっと上の人と打ちたいという人が多いですよ。プロの指導も、もうインターネットでできるようになっています。無料ですよ。日本棋院も、そういうことを考慮に入れていかないと、どんどんと韓国や中国にお株を取られてしまいます。僕なんか、そんなことを言う立場にはないんですがね。このサイトを日本棋院の人が見たら怒るかな。
*そういえば一般的に英語力などは、韓国人の方があるようですね。メルボルンに来ている留学生なんか見ていると、日本より韓国からの留学生の方が遥かに優秀ですね、英語力も含めて。態度なども、甘やかされてなくて、ずっと大人のように見えますね。それに韓国人の方が国際的かもしれませんね。
そうです。ずっとさばけてますよ。だから韓国の碁はこれから国際的にどんどん伸びていきます。現在、韓国には囲碁塾がたくさんできています。約2千校、10万人以上の子供たちとか。日本の勉強塾みたいなもので、学校が終わったら囲碁塾に行くわけです。イ・チャンホという中学生の男の子が、世界プロ選手権大会で優勝したのがきっかけで、韓国ではすごく碁が盛んになりました。子供は碁をすることによって、集中力、論理力、推理力、忍耐力、頭脳の発達、礼儀作法を養う、ということで親たちも子供たちに囲碁を奨励しています。日本の受験勉強は受かってしまえばそれで終わりで、弊害の方が多いですが、囲碁を学ぶのは、そうではなくて実際に形として残っていきます。現在、日、中、韓の国際囲碁トーナメントがよくありますが、優勝するのはたいがい中国と韓国です。日本はあまり勝てません。
*うーん、経済のみならず、碁の世界まで、日本はそんなに後退しているのですか。考えてみると、日本の受験制度というのは、国民的エネルギーのもの凄い損失ですね。8歳くらいから18歳の人間の大切な成長期の10年間を、日本の多くの若者たちは、受験技術の習得に明け暮れしているわけですが、これは非常に特殊なテクニックであって、受験以外に役立たないですよね。その間に世界の若者たちは、自分の得意な才能を伸ばすことに全力を傾けているわけですから、結果として差が出るのは当然ですね。オリンピックはもとより、テニス、ゴルフ、サッカーなどスポーツの世界でも、日本はめったに国際舞台に登場のチャンスがないですものね。
そうです。それに日本では碁をする若い人を、政策的、組織的に将来を見据えて育てていませんから。今現在は「ヒカルの碁」というマンガがヒットして、ブームになっています。でも、日本の場合なんでもそうですが、ブームだけなんですね。このブームも当然終わりますから、終わってしまえば後には何も残らない。
*うーん、なんだか悲しくなってきますね。

そうですね。日本政府はグローバルな視点で教育問題に本腰を入れて取り組んでいかないと、将来、碁だけでなくあらゆる面で取り残されてしまうのではないですか。

*では、メルボルンの日本碁クラブに話題を移して、つい最近のNECカップでは入賞者がたくさんでたとか。
全国から約70人の参加があり、我々のクラブから10人参加しました。第二部門で2位3位4位をとりました。第三部では3位と4位でした。
*第二部門といいますと?
アマチュアの5級から2段までです。10人参加して5人入賞ですから。やっぱりうれしいですね。しかも3人は若い人ですから、これからが楽しみです。2位はメルボルン大学の学生です。僕は彼に負けたので3位でした。以前メルボルン大学には碁のプロモーションにいったことがあります。メルボルン大学にも碁のクラブが出来つつあるのですよ。
*それはいいことですね。クラブとしての将来の希望などは?
あそこへ行けば碁が打てる、という場所を確保しておくこと。それとコンピューター、インターネットを利用してローカルの子供たちに普及していくことですね。コンピューターを利用するのは若い人たちには受けます。彼らはゲーム感覚でやりますから。やっぱり若い人たちに興味を持ってもらわないといけません。日本の場合、碁というと、なんだか年寄りのボケ防止みたいなネガティブな感じですが、僕が主宰しているクラブは年齢層が若いです。多国籍多民族ですし、面白いですよ。僕はメルボルンから新しいやりかたで、囲碁を日中韓以外にもどんどん普及して、多くの人に楽しんでもらいたいと思っています。
*それはいいですね。ぜひそうしてください。ところで話はまったく変って、永見さんご自身のことを少しうかがいたいのですが、最初に日本を出られたのはいつですか?
1973年で、24才の時でした。大学ではレンズ光学関係を学んで、たいがいの卒業生はカメラやレンズ関係の会社に就職しましたが、僕は学生時代から海外に出たかったので、永久就職ではなくてお金を稼げる仕事を選びました。レントゲンの会社でレントゲンの集団検診をする仕事をしました。バスみたいなレントゲン車で日本全国まわりました。出張出張でほとんど家にはいませんでした。独身でしたから、宿泊費と出張手当だけで生活していると、東京に戻ってくると給料は丸々手つかずで残りました。それで2年間でオーストラリアに行く費用が貯められました。本当はアルゼンチンに行きたかったのですが。
*どうしてアルゼンチンに?
星が好きでして。ですから南半球の星が見たくなりました。僕が高校時代に、色々な面で非常に影響を受けた先生がアルゼンチンが好きで、星の話だとか、南米の音楽とかオペラとかの話をその先生から聞いて、アルゼンチンに憧れていました。でもなかなかアルゼンチンまで行く船がみつからなくて、まあ、とにかく南半球まで行ってみよう、ということにしたら、パプアニューギニアまで行く貨客船がみつかったので、パプアニューギニア経由でオーストラリアに行くことにしました。学生時代からの友人と一緒の旅でしたが、パプアニューギニアからケアンズまで飛んで、ケアンズでモーリスの小さい車を買って、アデレードまで下りて行きました。
*すごいですね。その小さな車でオーストラリアを縦断したのですね。どのくらいかかりましたか?
車がしょっちゅうパンクしたりエンジンが故障したりして、直しなおしの旅だったので、1ヶ月はかかったと思います。それでアデレードに着いたらお金がほとんど無くなってしまいました。こりゃ困ったな、どうしようか、といっていたら、働らけばいいじゃないか、と言われて、ああ、そうか、働けばいいんだ、ということになって、僕はタイヤ工場で、タイヤを付けたり外したりする仕事をして、夜はレストランで皿洗いをしました。それで少しお金ができたので、メルボルンを通過してシドニーまで行きました。話は少し前後しますが、妻の粧子とは僕が日本を出る1年前に、東京で出会いました。シドニーから、東京にいた彼女を「オーストラリアに来ないか」と誘ったら、彼女は、「行く」といって僕が乗ったのと同じ船でパプアニューギニアまで行って、ケアーンズに着くことになったので、僕はまたケアーンズまで彼女を迎えに行きました。それからシドニーとキャンベラで、ふたりで1年間働きました。だけど、とうとうビザの更新ができなくなってしまって、ニュージーランドに行きました。ニュージーランドをずっと旅行して廻りました。それからオークランドで3ヶ月くらい働いたかな。このオーストラリアとニュージランドで働いたお金で、南米へ行く資金ができましたが、粧子を連れて南米を旅する自信がなかったので、南米行きは勧めませんでした。彼女は来る時は貨客船でしたが、今度は豪華客船に乗って、フィリピンのマニラをずっと廻って行く船で日本に戻りました。僕も世界一周の豪華客船P&Oに乗ってアカプルコへ行って、パナマで下船しました。それからブラジル、アルゼンチン、チリにも行きました。
*素晴らしい!では南米へ行ったのはいつ頃で?
1975年だったですね。たしかチリではピノシェットが政権をとって2年たってない時でした。軍事政権のメチャクチャな時代でした。チェックポイントなどで、何人か、って訊かれて、日本人だ、というと、ああ、日本人か日本人はOKだ、といって通してくれましたが、白人はずいぶん捕まって殺されてましたでしょ。恐かったですよ。チリだけではなく、当時南米はどこも軍事政権でした。CIAが影で動いてましたからね。チリからバスと汽車を使って、ずっと北上していきました。
*中南米はどのくらいの期間、旅したのですか?
約1年半ですね。ベネズエラ以外の中南米を全て歩きました。
*1年半も!それで南米へ渡る旅費その他の資金は、全部オーストラリアとニュージーランドで働いたものですか?
そうです。当時オーストラリアドルは1ドル400円でしたからね。価値がありました。賃金も週給でしょ。あれっ、この間もらったばかりなのに、もう次のがもらえるんだ、という感じでした。だから、どんどんカネが貯められました。南米にはP&Oという豪華客船で1ヶ月かかって行きましたが、南米旅行を控えているので、一番下の一番安い船室をとりました。旅費に食事代は含まれているけれど、ビールなどの飲み物は別払いで、豪華船だから、ビール1杯が1ドルぐらいで、高いんですよ。だからビールも我慢して船では飲みませんでした。だって南米では1日1ドルで旅行ができた時代ですよ。移動の費用と宿泊代と食事代も含めてです。もちろんいいホテルなんかには泊まれませんけれど。
*南米では鉄道はあまり発達してないですよね。移動の交通機関は何を使ったのですか?
バスとヒッチハイクでした。ヒッチハイクでは日本人は珍しがられて、わりと拾ってくれましたが、主にバスを使いました。でもこのバスというのが、大変なシロモノで荷物は屋根に括り付けて運びます。ところが目的地に着いてみると、荷物がない、ということが度々ありました。運転手に、「お前に預けたじゃないか」と詰問しても、「いや、自分は知らない」というばかりで、どうにもならないんですよ。物はよく盗まれましたね。でも親切というか何というのか、バスを降りると、俺のところに泊まれ泊まれ、ホテルなんかに泊まると高いから、といってくれました。ところが誘われて行ってみると、貧乏な家で、俺の寝るところ、どこにあるんだ、という風でした。そういうところでも誘ってくれるのですね。断ったら悪いから、と思って泊まるでしょ、そうすると、しばらくしてどうも小切手の枚数が少ない、ことに気が付いて、まわりにいる子供たちに、「これはお金じゃないから銀行に行って手続きをしないと使えないんだよ」というと、「これのこと?」っていいながらどこからか出してきて返してくれたりしたこともありました。彼らにしてみれば僕なんか金持ちに見えるんでしょうね。ある時なんか、泊めてもらっていた家のおじいさんが突然亡くなったのです。僕、そのおじいさんと同じ部屋に泊まっていたんですけど。家族は貧乏で葬式ができなかったので、僕が葬式のお手伝いをしてあげました。料理を親戚や近所の人に振舞うお金もないので、豚とか魚、野菜などを一緒にマーケットへ行って買ってあげました。
*まあ、それは貴重な経験ですね。
いろんな国でのけっさくな体験話は、まだまだたくさんあるのですが、きりがないですからね。そんなこんなで、コロンビアにたどり着いたときには、またスッテンテンになって、日系の空手道場にころがり込んだりもしました。当時知り合った人とは今でも文通しています。そこからメキシコまで行って、メキシコから日本に戻りました。アメリカとカナダにはまだ行っていません。だいたい僕はアメリカは嫌いなんですよ。メキシコで、お前ここまで来て、なんでアメリカに行かないんだ、と訊かれたので、アメリカは世界中廻った後で、いくところがなくなって最後に行けばいい国だと僕は思っいるんだ、と言ってやりました。今でも、あの当時の体験から南米の国際情勢は割合、よく解かるんですよ。あの時こうだったから、やっぱり今こうなっているんだ、という具合に。
*南米での体験は本が1冊書けそうですね。日本に帰ってからはどうされたのですか?
職探しをしていたら、あるカメラ会社に就職していた友人が、お前、東京の小さな8ミリムービーカメラ会社が、ヨーロッパでカメラを修理する技術者をさがしているぞ、と知らせてくれたので、面接にいきました。その時、英語ができてスペイン語も少し話せるのですね、ヨーロッパとアメリカとどちらがいいですか、と訊かれました。ヨーロッパの方がいいです、と答えたら、じゃあ採用します、といわれて、その場で決まってしまいました。それから半年、カメラのアッセンブリー工場に並んで、カメラの組み立て工程を全部覚えさせられて、修理も少しやったらすぐにヨーロッパへ追い出されることになりました。ヨーロッパへ行くのなら結婚してから行ったほうがいい、ということになって粧子と結婚しました。だけど会社は一人分の旅費しか払ってくれないんですよね。それで僕一人だけ先に行って、半年くらい経ってから粧子はシベリヤ経由でベルギーに行くことになって、僕はパリまで彼女を迎えに行きました。
*では新婚生活はベルギーでスタートしたのですね。
ベルギーに1年半住みましたが、その間ドイツには修理のためにしょっちゅう出張していました。修理のカメラがたまるんですよ。ドイツの会社の修理人たちは30人位いたのですが、ノルマ式なので1日5台、と決めたらもう5台以上はやらないのです。それで3ヶ月ほどすると200台ぐらいたまってしまうのです。溜まるわけですよね、みんな朝から飲んでるんですから。机の引き出しにビールだとかコニャックを入れて、飲んでるんですから。それで、ベルギーの会社で働いている僕が呼ばれて、ドイツに行ってたまっているカメラの修理を2週間ぐらいかけて修理しました。僕も彼らに負けずに飲みながら修理したので、みんなホメてくれました。それで3,4ヶ月経つとまた溜まるので、また行くということを繰り返していました。
*そのカメラはもちろん日本製なわけですよね。
そうです。カメラとか当時流行りだった8ミリとかですね。ところが2年経たないうちに東京の会社が倒産してしまいました。給料を送ってくれなくなって、おかしいな、どうしたんだろう、って話していたら、友人が、お前の会社、組合が赤旗立てて、闘争しているうちにつぶれちゃったよ、って教えてくれました。給料は払ってくれないし、帰りの切符も送ってくれないから、帰るに帰れず、友人の家に転がり込んで、しばらく居候をさせてもらいました。彼は独身だったので、粧子が料理など家事を担当してくれました。その間に僕はドイツ、フランス、イタリアなどヨーロッパ中職探しに出かけました。オランダに仕事が一つみつかりました。日本のコニカとかフランスのボリューとかのカメラを扱う代理店が、僕を採用してくれました。あー、やれやれ、とやっとほっとできました。3ヶ月ぐらい苦しかったですよ。なにしろスッテンテンでしたから。
*そうでしょうね。でも、まあ、いい経験で、若いからできることですよね。
このオランダの会社には3年働きました。オランダを代表して日本へ行ったこともあるんですよ。オートフォーカスといって、日本のカメラ会社が、当時開発した最新技術を披露するために、世界各国から技術者を1人づつ集めて、東京で技術講習会をやりました。そのときオランダ代表で参加しました。そういうこともありましたが、給料も上がらないし、会社の方針に合わないこともあって、会社を辞めて、アムステルダムに自分の店を開きました。
*海外で自分で起業されたわけですね。
この仕事は6年ほどやりました。だからヨーロッパには10年ほど住みました。息子と娘はオランダで生まれました。
*そうですか。1970年代の半ばから1980年代の半ばまでの10年間というと、ヨーロッパの良い時代ですね。国際情勢もそれほど不安ではなかったし、移民にからまる人種問題もまだ表面化していない時で。10年間に旅行などたくさんなさいましたか?
行きましたね。北欧、チェコ、ポーランドを除いてヨーロッパはほとんど全部、スペイン、ポルトガル、東の方はハンガリー、ユーゴスラビアにも行きました。
*なぜヨーロッパの生活に終止符を打たれたのですか?
気候が寒いんですよ。それと、今のオーストラリアで出会うような面白い人にもあまり出会わないし、日本の両親も歳を取ってきましたから、じゃあ、日本に帰ってもう一度やってみようか、ということにしたのです。粧子は反対だったんですけれどね。そのころ娘のアトピーがひどかったのです。北里大学の先生がオランダにこられた時に、娘を診てもらったら、うちの大学でなら治せる、とおっしゃったのです。それで、じゃあ、帰るか、ということになって荷物をまとめて日本に帰りました。オランダの永住権を持っていたのですが、そのまま置いておくと未練が残るから、ということで日本で住民登録した時に、オランダの永住権は破棄してしまいました。だけど僕も40近くになっていて、2年経っても3年経っても仕事はみつからないし、ああ、失敗したな、オランダに戻りたいな、と思いましたが、もう時すでに遅し、でした。それで、またやっぱり日本を出よう、ということにしました。技術労働者として移民を受け入れている国として、カナダとオーストラリアのどちらにしようか、ということで最初カナダにしたのですが、書類を整えて手続きをしに何度か大使館に通っている間に、大使館の人とケンカしちゃって、じゃあオーストラリアにしよう、ということになったのです。オーストラリアは前に一度来ているし、その時の印象も良かったし、まだ友達もいましたから。
*オーストラリアのビザは簡単にとれましたか?
はじめはちょっと大変でした。けれどメルボルンでペンタックスの修理代理店をしていた方に保証人になってもらいました。それと幸いにキャノンカメラのオーストラリア修理代理店になる話が日本を出る直前に決まって、それからは、とんとん拍子で、永住ビザが直ぐ下りました。うわっ、やった!という感じでした。僕が41歳の時です。
*それでオーストラリアに来られて何年になりますか?
今年で15年目になります。来た当初は、やっぱりいろいろ問題もありまして、そのペンタックス修理店を辞め、3ヶ月目からキャノンカメラの下請け修理を始めました。この時もまたスッテンテンになってゼロからの再出発。そういえば僕の人生、あちこちで度々ゼロからの再出発でしたが、こうしてやってこれたのも運が良かったからでしょうね。
*いや、それは運だけではないですね。やっぱり運を呼び込むものが永見さんにあるからですよ。それに世界のどこでも通用する技術をもっている、というのは強みですね。
1960年代の後半から1980年代にかけては、修理人が足りなくて、ドイツや日本のカメラを直す修理なんかは、いくらでも修理代を請求できたらしいですよ。そのころから来ていたドイツの修理人なんかは、家を2家も3家も持っていました。その後、僕らが来た直前の1980年後半からは、もうだめでしたね。
*それは他の産業でもいえますね。第二次世界大戦後オーストラリアに来て一代で財をきづいた、とか一旗あげられた人たち、というのは、やはり1980年代に入る前、60年70年代に移民してきた人たちですよね。苦労もしたでしょうけれど、それだけ可能性も残っていた。今はもう社会ができあがってしまって落ち着いていますからね。生活上の苦労も少ない代わりに、大きな可能性も少なくなっていますね。
そうですね。カメラの世界も時代が変わってきて、デジタルに移りつつあるでしょう。去年の3月位からキャノンのデジタルの修理をやらないか、といわれたのですが、僕はコンピューターはよく解からないから二の足を踏んでたんですが、息子にお前やってみるか、と訊いたら、やる、というので息子にやらせています。彼はRMITでコンピューター関係を学んでいたのですが、あまり熱心ではなくて休学して日本へ半年行ってみたり、なんだかんだしてましたが、今では息子の収入の方が高いんです。
*それは素晴らしいですね。いい跡継ぎができて。休学したり海外に出て行ったり、というのは一見無駄なことをしているように見えますが、決して無駄ではないんですよね。いろいろ経験してみるということは。
息子はもやもやしたものを持っていたようですね。自分は日本人、オーストラリア人のどちらなのだ、という。9歳の時にオーストラリアに来ましたから。でも半年日本で暮らしてみて、すっきりしたみたいですね。息子が帰ってきて、デジタルの方をやってくれることになって、仕事の方も順調になってきました。メルボルンでも従来の普通のカメラだけを扱っている修理店や写真店はビジネスを閉じ始めています。息子には、ここはオーストラリアなんだから、本当に勉強したくなったら、何十歳になっても大学に戻って勉強できるから、今のところはカメラの仕事をやるように、と説得したんですよ。
*そうですか。丁度タイミングのいい時に息子さんがビジネスに参加されて良かったですね。やっぱりついてますね。ところで話を碁に戻しますと、永見さんご自身は小さい頃からずっと碁をされていたのですか?
いいえ、高校生の時、親父に少し教えてもらいました。大学の時、東京のアパートに下宿していて、大家さんのおじさんが碁が好きで時々相手をさせられたくらいで、日本を出た時はあまり強くなかったですね。
*えっ? そうなんですか? ではどこで碁をされたのですか?
オランダにいた時ですね。オランダの碁クラブで少し打ちました。
*それは日本人の碁クラブですか?
いや、日本人は絵描きさんが一人いただけでした。他はみんなヨーロッパ人です。日本人駐在員の人たちとも打ちましたが、当時の僕の実力は5,6級といったところじゃないですかね。日本に帰ってからは碁どころじゃなかったですからね。広島にあるパラボラアンテナを山頂などに建てる会社の仕事がみつかって、そこで働いていましたが、トラックに乗って日本中廻っていました。毎日旅館暮らしで、粧子と子供たちには、年に2,3回しか会えませんでした。これじゃあいけない、生活を変えなければ、というのが日本を出た大きな理由で、結局一家でオーストラリアに来たのですが、オーストラリアに来た時は3級ぐらいでしたかね。だから今の3段になったのはオーストラリアに来てからです。
*まあ、そうなのですか? それは意外でした。でもこれからオーストラリアで碁をやろう、という人の励みになりますね。
それに今は碁クラブの世話役をやっているから、どうしても週に1回はクラブに顔をださなければならなくて、少なくとも週一回は打ってますからね。やっぱり継続ですね。やっぱり絶えず打ってないと上達はしませんよ。でも僕は碁が強くなりたいというよりは楽しみたいタイプですね。強くなりたい、というのと楽しみたいタイプと二通りあって、楽しみたいタイプはあまり強くなれないですね。中国人には強くなりたい、タイプが多いようですね。
*やっぱり、碁にも国民性みたいなものがあるんでしょうね。
それは、あります。日本人は、プロでも、そんなことまでやって勝とうとは思わない、とか言って、途中であっさりあきらめたりしますが、中国人は時間もいっぱい使って、最後まで粘り強く打っていきます。勝つか負けるかで、勝てばいいんであって、きれいに勝つとか負けるとか、そんなことには意味が無いんですよ。韓国人もそうですね。日本に追いつけ追い越せ、で頑張ってきましたから、今は強くなっています。日本は、まあまあ、中国も韓国もなかなか良くやってるね、だけど俺たちにはかなわないだろう、と言っていたのが20年前ですが、今ではもう、全然ダメですね。我々のクラブの場合は、日本人がだんだん減ってきて、オーストラリア人の方が多くなっています。日本人はどちらかというと碁を通して相手とコミュニケーションをとりたい、楽しみたい、というタイプが多いようですね。だけど若いオーストラリア人は、それでは物足りなくて、もっとチャレンジして強くなりたい、という人が多いですから、中高年のリラックス組と若い上達、チャレンジ組と分けて、両方受け入れていくようにしたいと思っています。ところで、先日は、ホリデーでメルボルンに来ておられた日本棋院女子プロの新海5段に我々のクラブに来ていただきました。彼女とは第一回のベトナム行きの時一緒で、光栄でした。あの時はベトナムの子供たちにも励みになったと思います。今回は、我々のクラブの学生たちを指導していただきました。
*メンバーも順調に増えているようですし、若い人が多い、というのは頼もしいですよね。メルボルンの日本碁クラブがますます発展するように願っています。
有難うございます。碁のクラブもそうですが、僕がこうやって、これまでやってこれたのも、粧子が一緒にいてくれて、いつもサポートしてくれてきたからだと思います。彼女は、先のことは何とかなるんじゃないの、もし僕が酒さえ控えれば、というタイプですから。それに、もてなし好きだし料理も好きで、僕が友達やクラブの若い連中を家に呼んでも、いつも機嫌よくもてなしてくれるんですよ。碁のクラブのパーティでも、いつも料理を作って持って来てくれます。彼女がいてくれなかったら、僕は碁のクラブどころか、何もできないでしょう。今、彼女は日本から来ている知り合いを、ここから15分くらいドライブした所にあるワイナリーに連れて行っていて、留守なのですが、もうじき帰ってくると思います。
*そんなに近くにワイナリーがあるのですか。
ええ、20分以内に3箇所もありますよ。ヤラバレー全体では40近くあります。ワイナリーが近いからこの家を買った、というわけではないのですが。
*ワインは健康にいいそうですから。お二人でワインを楽しみながら、これからも末永くご活躍ください。今日は、お忙しいところを、お時間をさいて、いろいろとお話しして頂きありがとうございました。


インタビュー:スピアーズ洋子 

(c) Yukari Shuppan
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