*私の英語よりオーツさんの日本語の方がずっとお上手なので、日本語でインタビューさせてください。メルボルン大学で日本語と東洋史を教えていらしたのはどのくらいの期間ですか? |
1965年から、1990年に退職するまで25年間です。 |
*では日本と関わるようになった動機をお話しいただけますか? |
ハイスクール(中学・高校)に入って、新しく語学を学ぶことになったのですが、戦前は、語学というと、ラテン語ぐらいしかありませんでした。なにか変わったことをやってみたくて、日本語を勉強することにしました。 |
*オーストラリアではその頃から日本語が学べたのですか? |
オーストラリアでは戦前から羊毛を日本へ輸出していて、通商関係はかなり早くからありました。ただ、白豪主義でしたから、東洋、日本に興味を持つ者は本当に限られていました。だから僕はちょっと変わっていました。でも日本人の先生もいて、日本語を学ぶことはできました。稲垣蒙志という方で、メルボルン大学で日本語を教えていました。時々ハイスクールでも教えていました。太平洋戦争中もシドニー大学では日本語の講座がありました。イギリス人の教授だったので、ずっと講座が継続できたのですが、メルボルン大学では稲垣蒙志という日本人の教授だったために、戦争が始まると同時に収容所に収容されてしまったので、日本語の授業は戦争が終わるまでありませんでした。昔のハイスクールは5年生までで、日本が真珠湾を攻撃した時は、私は丁度5年生でした。私は戦前の最後のハイスクールの卒業生で、5年生の卒業試験の時に、稲垣先生の姿を見たのが最後でした。終戦後、一般の日本人と同じように日本に送還されました。 |
*では戦争中は日本語の勉強は途絶えていたのですか? |
いいえ、一所懸命日本について学んでいました。敵を知らなければ戦いに勝てません。敵を知るためには語学は最も重要な手段ですから、日本語の勉強は重要でした。 |
*先生は収容所に入れられたのに、勉強はどのようにして? |
それまで日本に住んでいたオーストラリア人が交換船でオーストラリアに帰ってきました。その人たちが日本語だけでなく、日本の社会や政治、文化、日本人の考え方などを教えました。その頃、私の叔母は国防省に勤めていたので、叔母の紹介でマッカーサー司令部で翻訳、通訳の仕事をしました。その頃、日本語がわかる人が少なかったのです。翻訳は捕虜たちが持っていたり、戦場で拾った日記やメモ。それから品物の製造元などを調べることでした。18歳になると同時に軍隊に志願しました。終戦を知ったのはボルネオにいた時でした。20歳になる直前でした。マラリヤにかかって、日本に着いてから発熱しました。 |
*終戦と同時に日本へ行かれたのですか? |
いいえ、モロタイ島、チモール、ダーウインにも通訳のために行きました。戦争裁判の尋問の通訳もしましたが、私は少しだけしかしませんでした。終戦の翌年、2月に英連邦軍が、モロタイ島から占領軍として日本へ出発すると聞いたので、モロタイ島に行って、英連邦の占領軍に加わって日本に行きました。 |
*それは何時のことですか? |
最初に占領軍として日本へ上陸したのはアメリカ軍で、英連邦軍が行ったのは翌年ですから、1946年で、私が行ったのは1946年の3月でした。呉に上陸して呉から山口県に行きました。山口県はあまり爆撃を受けていませんでした。南海岸の光に軍需工場があったので、そこは爆撃されていましたが。 |
*なぜ山口県に? |
山口県は英領ニュージーランドの管轄でしたが、ニュージーランド軍に日本語が解かる人がいなかったので、通訳としてオーストラリア軍から派遣されました。東南アジアで主に日本軍と戦ったのはアメリカ軍とオーストラリア軍でした。もちろん戦前アメリカの植民地だったフィリピンは別で、フィリピンではアメリカ軍が主戦力でした。しかしニュージーランド軍はほとんど日本とは戦っていませんでした。というのは、日本が真珠湾を攻撃して、太平洋戦争が始まってから、ヨーロッパ、中東にいたたくさんのオーストラリア軍は、日本軍と戦う為に呼び戻されて、東南アジアに移動させられました。しかしイタリアに駐屯していたニュージーランド軍は、呼び戻されることなく、イタリアで戦っていました。イタリアが降伏した後も、戦後処理などの事務にあたっていました。しかしニュージーランドも同じ英領太平洋諸国の一つなので、日本を占領すべきだ、ということになって、山口県に進駐することになったのです。ところが日本語が解かる者がいなくて、地元とコミュニケーションがとれなくて困っていたので、広島のオーストラリア軍から私が派遣されたわけです。 |
*そうなのですか。私はオーストラリアに来るまで、第二次世界大戦について無知なところがあって、長い間、進駐軍というとアメリカ軍のことだと思っていたのですが、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド軍とそれぞれ役割分担があったわけですね。 |
1948年には、ほとんどのニュージーランド軍は帰還しましたが、私はそれまで下関に駐在して仕事を続けました。当時、下関というところはいろいろな問題のあるところでした。朝鮮半島との関係があって、密入国、密貿易の問題もありました。それに右翼も左翼も政治的な活動が活発でした。あそこは明治維新の始まりに関わったところだし、右翼が活発で暴力団との関わりもありました。右翼には犯罪的な面と思想的な面と両方ありました。その一方で韓国から渡ってきた労働者と日本の労働者の間には左翼的なつながりもあって、共産党の代議士が当選したこともありました。英連邦の管轄下では、下関が戦術的に一番微妙なところでした。 |
*今おっしゃったような現状把握は、通訳をしていただけでできるものなのですか? |
日本に行く前から、戦争前の日本の社会や政治に興味をもっていましたから、本や資料を読んで勉強をしていました。でも、実際に行ってみると、思っていたより現実はもっともっと複雑でした。でもますます興味をもちました。 |
*では日本の新聞とか雑誌などは不自由なくお読みになれたのですか? ラジオなども聞けて。 |
ええ、もちろん。それは戦争中からしていましたから、できました。ただ、当時、日本はアメリカ軍の検閲下にありました。だから、その範囲内ですが、日本語で直接情報は得られました。それと呉には情報局がありましたので、ニュージランド軍が山口県から引き上げた後は、呉に戻って情報部に所属しました。 |
*日本側にレジスタンスなどはありませんでしたか? |
全く無かったです。それには二つ理由があります。第一は天皇が連合軍に協力するように声明したこと。国民は天皇の命令には従順に従うように慣らされていたこと。第二の理由は、連合国よりもソ連の脅威の方がもっと怖かったこと、です。だからよく協力しました。右翼もそうでしたね。ソ連の脅威から日本を守る、と言う理由で暴力団関係の右翼の人たちも公然と私たちに接触してきました。特に下関ではそういうことがありました。でも最初に最も協力的だったのは、戦争中に思想犯として牢屋に入っていた人たちでした。終戦になって開放されたので、私たちにとても協力的でした。でも冷戦時代になると事情が逆になりました。 |
*日本にはどのくらいいらしたのですか? |
平和条約が結ばれてから帰国しましたから、7年間です。でも私は帰国の前に軍隊を除隊して、最後の1年半は民間人として滞在しました。その時日本女性と結婚しました。 |
*オーストラリアに戻られてからも、日本に関連のあるお仕事を続けられたのですか? |
逓信(ていしん)省(郵政と電気通信関係)の国際部で働きました。フランス語とドイツ語もできますので、ヨーロッパからの資料を読むこともたくさんしました。同時にメルボルン大学の東洋学部に入りました。そこで日本関係の勉強を続けました。 |
*その頃、敗戦国日本について勉強しようという学生はまれだったでしょうから、みんなと違ったことをしたい、というハイスクール時代からのオーツさんの意志はずっと一貫して続いているわけですね。オーツさんがメルボルン大学で東洋学の講義を始められたのは1965年ということですが、その頃メルボルン大学で東洋学または日本語や日本文化を学びたいという学生は少なかったのではないですか? |
そうですね。非常に少なかったですね。1年に平均20人くらいでした。でも非常に深い興味をもって勉強する優秀な学生たちだったので、成績もよく、卒業してからも日本関係の仕事をする人が多かったです。私はそれでいい、と思っていました。成績のよくない学生たちがたくさんいるよりも、人数は少なくても優秀な学生たちがいる方がいいと考えていました。それでも中国語に比べると日本語をとる学生の方が少し多かったです。 |
*それは第二次世界大戦後、中国が共産国になったからですか? |
そうですね。その頃中国語を勉強する学生には左翼関係の人が多かったですね。当時メルボルン大学の中国語の教授はイギリスの大学を出た非常に保守的な人でした。そして中国人の講師たちは台湾から雇われた人たちだったので、講師たちは非常に保守的で、学生たちは非常に左翼的だったので、なかなか面白い状況でした。私は両方に接触がありました。中国語のコースをとったこともありますし、レクチャーとして日本の近代史を講義する場合、中国とは強い関連がありますから。日本語科の場合はそのような思想問題はなくて、実用的に言語を教えていましたから、授業もスムーズで雰囲気も良かったですよ。1980年代に入ってからは外国語の中で日本語を学ぶ学生の数が一番多くなりました。どんどん増えて、200人を越えました。 |
*日本経済のピークの時ですね。ところでオーツさんが「中野正剛」についての本を出版されたのは1985年ですね。「中野正剛」という人物は、日本人でも知っている人が少ないと思います。私もオーツさんの本を読むまで知りませんでした。なぜ中野正剛に興味をもたれたのですか? |
そうですね。日本では戦前の歴史をあまり教えないから、戦後生まれの人で戦前の事情を知っている人は少ないと思います。歴史の専門家でないかぎり。私はなぜ日本が戦争を始めたのか、その社会的な背景を知りたいと思って、思想史を勉強していて、その背後にある日本の伝統的な思想についても興味を持ちました。その時に、国粋主義で革新右翼だった「中野正剛」という人物に興味を持ちました。戦前の日本の右翼は、観念右翼と革新右翼と二通りあって対立していました。観念右翼は天皇神聖論で全く政党を認めないで、天皇が直接統治する、というものでした。革新右翼の方はもう少し民主的なところがあって、政党政治を認めていました。北一輝とか中野正剛も革新右翼の一人でした。中野正剛は大衆にも人気があった人物でした。 |
*ご本によると、中野正剛は戦争中に東条英機を批判して切腹させられたのですね。そのような研究はメルボルン大学に在籍中にされたのですか? |
そうですが、メルボルン大学に在籍中に、半年ずつ2回、研究員として戦前の思想史を勉強するために、早稲田大学と東京大学に行きました。その時、神田の古本屋さんでたくさん資料をみつけました。運が良かったです。 |
*メルボルン大学で25年間教鞭をとられて、1990年に退職された後も日本、アジアに関わるお仕事をなさってこられたのですか? |
丁度退職したあくる年に、メルボルン大学のインドネシア語科と経済科の卒業生が私を訪ねて来ました。彼はインドネシア系の中国人と結婚し、シンガポールと香港で手広くビジネスをしていました。商売に非常に成功して財をなしたので、これからはその一部を資金にして、文化の方で興味ある事をしたい、ということでした。彼の奥さんは華僑で、ある日本人が華僑と戦争の関わりを研究していて、その資料がたくさんある、ということをどこからか聞いていました。彼は、そういうことに興味をもっていて、華僑についての研究をまとめて形にしたい、ということでした。 |
*ヨーロッパにも従軍慰安婦がいたそうですね。 |
そうです。普通の新聞だけ読んでいる人は、日本だけがそういうことをした、という印象を受けて、そう思っているようですが、実際はそうではありませんでした。 |
*その他にも本を書かれましたか? |
私は日本にいた時から朝鮮半島問題に非常に興味がありましたので、在日韓国人を中心に、日本と韓国、北朝鮮との三角関係を扱った本を書きました。その次には教科書問題をテーマにまた書きました。大学に在籍中は時間がなくて、本はなかなか書けませんでしたが、退職してから、シンガポールの例のメルボルン大学出身者との協力で、6冊出版しました。 |
*退職されてからもお忙しい生活をされてこられたのですね。最近奥様を亡くされた、ということで本当に残念ですね。ご愁傷さまです。お仕事の上で、生前、日本人の奥様の助けもずいぶんありましたか?
学問的というよりは、心理的な面ですね。 *ずっと一貫して東洋に関わってお仕事をされてきたわけですね。これからも続けられますか?実は、私は古代のギリシャにも非常に興味を持っているのですよ。高校時代にラテン語をやりましたので。ギリシャはヨーロッパ文明の発祥の地ですからやはり面白くて、ここ5、6年は古代ギリシャに集中して勉強をしています。戦争中は日本語を覚えること、日本について学ぶことに忙しくて、ギリシャ関係はずっと中断されていたものですから。もちろん日本、アジアの方も続けていますが。 *では、リタイヤーされてからも、充実した日々を過ごされていらっしゃるのですね。今日は興味深いお話をたくさんして頂きありがとうございました。注:このインタビューは日本語で、校正も日本語でしていただきました。訂正した難しい漢字にはルビが付けてありました。 |