MELBOURNE Street by Street (32) Flinders Street ― その 7 ― ケン・オハラ かつていいパブがあった所が空き地になっているのを見ると、とても寛大な気分にはなれない。 Fox and Hounds Hotel があった空き地を通り越して、 Flinders Street 沿いに歩いていくと Queen Street に出るが、ここに来ると、かつて世の中には本当に寛大で気前のいい人がいたのだ、ということを思い出させてくれる。 John MacPherson が妻と共に入植者のパイオニアとして、スコットランドからオーストラリアに着いたのは1825年のことであった。彼らが最初に開拓した農場は現在キャンベラの一部になっている。 彼らの孫娘 Helen MacPherson Schutt は、1874年に両親がスコットランドを旅行中に生まれた。彼女はヴィクトリア州に50年間住み、あとの27年間をヨーロッパで過ごした。1951年、彼女が他界した時、遺産をヴィクトリア州の慈善活動に寄付した。その遺産は不動産と株に投資され、現在では$60ミリオン以上になり、毎年$3.5ミリオン以上がビクトリア州の慈善活動に寄付されている。 20 Queen Street のオフィスビルは数年前まで、 Schutt Trust's investments の一つであった。 向かい側の 7-11 Queen Street は Felton Building である。100年以上も前の19世紀の終わりに、Alfred Felton が建てた。 1904年に他界した時、Alfred Felton は富豪であった。19世紀に彼とビジネスパートナーはオーストラリア最大の薬品会社を設立した。その他にも最大のガラス会社、最大の肥料会社など、多くのビジネスを起こした。 彼はその莫大な遺産の半分を主に女性と子供のための慈善事業に、あとの半分を絵画(古典と現代)の購入に当てるために残した。絵画の購入は人々の芸術的な趣味を向上させるためであった。 Alfred Felton's trust からの収入は現在でも慈善事業を援助し、絵画を購入し続けている。National Gallery of Victoria に行ったら、ぜひ気をつけて見て欲しい。絵のそばに ”bought with funds provided by the Felton Bequest" と書かれた1行がみつかるはずである。 The Felton Trust は1983年まで、7-11 Queen Street のオーナーであった。 Fleton Building の隣は Fletcher Jones 服店である。 David Fletcher Jones は50年ほどの間、オーストラリアで有名人の一人であった。 彼は1895年に生まれた。第一次世界大戦のヨーロッパから無事帰還した後、manchester (シーツ、枕カバー、タオルなどの綿製品の総称。かつてイギリスの Manchester city は、これらの綿製品の主産業地であったため、オーストラリアでは現在でもこれらの綿製品を manchester と呼んでいる。)のセールスマンとなって各地を廻り成功した。 1924年、彼は Warrnambool で服の製造業を始めた。様々な困難を乗り越えて、彼はここでも事業に成功した。 Fletcher Jones は熱心なクリスチャンであった。彼は日本のクリスチャンで社会主義的な考えを持った賀川豊彦に共鳴して、1935年に賀川豊彦がオーストラリアを訪れた時には、彼を Warrnambool に招待して、講演を依頼している。翌年、1936年には Fletcher Jones が日本へ行き、賀川豊彦が提唱する生活共同体を訪れている。 第二次世界大戦後、Fletcher Jones は、会社を協同組合組織にし、社員が株を持つ制度にした。同時に会社は男性のズボンのみを作る方針にした。(1941年から1956年の間実施された。) 1947年に彼の会社を "Fletcher Jones & Staff Pty Ltd" と名づけた。1950年に、社員の持ち株は53%に達し、1970年には70%になった。 従業員は3000人、直属の小売店は33店という、世界でも有数の一大製服会社となった。 現在 Warrnambool を訪れる観光客は海岸線の景観を見に行くが、40年前は、近代的な Fletcher Jones の工場とそこにある素晴らしい庭園を見に行ったものである。 Fletcher Jones は1977年に他界した。その後会社は産業界の指導的な立場を徐々に失い、現在はごく普通の製服会社として運営されている。 彼の名前と業績を覚えているオーストラリア人は少なくなってきている。当時有名だった彼のズボンのキャッチフレーズ、"72 scientific sizes" (72のサイズ)、 "no man is hard to fit" (誰にでも必ず合う)を覚えている人は少ない。
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