Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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MELBOURNE Street by Street (4)

Flinders Street   ―  その 9  ―    

ケン・オハラ 

Sir John Monash はオーストラリアの名将軍であると同時にエンジニアでもあった。しかし、オーストラリアでは、偉大な軍人として彼を銘記している人は多いが、エンジニアとしての業績はあまり知られていない。

100年前、彼はエンジニアだった。兵士の方はパートタイムであった。1913年、彼は Victoria Institute of Engineers のプレジデントで、歩兵連隊の連隊長だった。

John Monash は第一次世界大戦中のフランスで、オーストラリア隊の指揮官として、陸軍にその名を知られるようになった。当時実践されていた騎兵や歩兵隊の突撃戦法は、大砲や機関銃の前で無駄な死をもたらすだけであった。それをいち早く認識して、彼は新しい戦術を練り、フランス各地の戦場で華々しい戦果をあげた。当時戦地であったフランスの町や村には、現在でもオーストラリア部隊とJohn Monash への感謝の記念碑が随所に残っている。

母国オーストラリアにおいても、彼は紛れもない英雄であった。ビクトリア州メルボルンの東部郊外には彼にちなんだ大学 Monash University があり、 Monash City Council がある。Melway index  には20もの Monash Street や Monash Avenue がある。

しかし Monash House はもうない。

では Flinders Street に戻って、 William Street の方を見ると、15W オフィスビルディング William Street が見える。ここは1995年まで、長い間 Monash House と呼ばれていた State Electricity Commission の本局であった。

Sir John Monash は第一次世界大戦が終わって帰国する前に、ドイツの褐炭炭鉱を訪れた。そしてビクトリア州に戻ってから、メルボルン東部にある Latrobe Valley に褐炭産業を起した。

Sir John Monash は1921年に State Electricity Commission が設立された時に初代の会長となった。彼は質の悪い褐炭から電気を起し、メルボルンに送電する、という難事業の指揮監督をした。

SEC ビクトリア州で最も成功した事業の一つであった。Latrobe Valley の褐炭炭鉱とその発電所はヴィクトリア州の電力の大部分を提供している。しかし SEC は設立後70年にして、ビクトリア州の歴史に残る経済的な大失敗をした。

1992年、SEC は新しいオフィスを求めた。そこで Grollo brothers との間で取引が行われた。Grollo brothers  が新しいオフィスビルを建設し、SEC が向こう20年、年間$33mの賃貸費を払う、というものであった。しかしこの金額はあまりにも高すぎた。1980年代の不動産ブームが終わった2年後のことである。

1994年に新しいオフィスビルが完成した。452-470 Flinders Street がそのビルである。ビルが完成する前の1993年に、ビクトリア州政府はこの契約とは関わらないように試みたが、それは不可能であった。

この理不尽な賃貸契約を清算するために、州政府はこのビルを、Grollo brothers から1994年に$250mで購入した。そして4年後の1998年に$120mで売却した。

州政府は SEC に事務所の入居もさせなかった。

このビルディングはいくつかの建築賞を受賞している。しかし、ケン・オハラとしては好ましくない。ビルディングは暗く、陰気な塊のようにみえる。たぶん納税者の血税をあまりにも多く吸い過ぎたせいであろう。

以前の Monash House も経済的に失敗している。1992年にシンガポールと香港に根拠をおく Thakral family (アジア、オーストラリアの大ホテルのオーナー)が、$40.1mという高額で 購入したが、2000年に$22.5mで売却した。

ケン・オハラが思うに、もし Sir John Monash が SEC を運営していたら、こんなことはあり得なかっただろうし、我々の税金がこんなに無駄遣いされることもなかったに違いない。


copyright: Ken O'Hara
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