Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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インタビュー (37)    博子・ワイアット                                 
  
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。 今月はメルボルンから少し離れた田舎で、自家菜園などをしながら自然に囲まれて暮らしていらっしゃる、博子・ワイアットさんをお訪ねしてお話をうかがいました。
 
*オーストラリアにいらして何年になりますか? 
20年です。
*オーストラリアに住むことになったきっかけを伺いたいのですが。
オーストラリアに来てジョンと出会ったのがきっかけ、といえるでしょう。オーストラリアの牧場で働きたい、というのが最初に来た時の理由でした。初めにパースに行ってそれからパースから南へ300kmほど南下したブリッジタウンというところの牧場を紹介してもらって、運よくステイさせてもらいました。代わりに牧場の仕事をしました。牧場には3ヶ月いました。牧場の生活は私が理想としていたもので、英語では苦労しましたが、毎日が本当に楽しかったです。それからオーストラリアを旅行して廻ることにしました。その旅の途中でジョンとの出会いがありました。
*どのような出会いだったのですか? 
西オーストラリアのずっと北の方、地図ではほとんどダーウインに近い、カヌナラという所、そこのアボリジニーのコミュニティセンターに滞在して、エレクトリシャンの仕事をしていたのがジョンでした。実は牧場主のご両親が、そこでミッショナリーとしてアボリジニーの世話などをしていたのです。それで私もそこに泊めてもらいました。2週間ほどそこにいました。ジョンはその時は奥さんと別居中、私も日本で結婚していたのですが。ちょうどその頃、ジョンのお父さんが癌にかかり、看病の手伝いをするために帰ることになったので、では途中、アデレードまで一緒に行こうか、ということになったのです。私がダーウインに向けて出発する日の朝、バスの出発を待っていたとき、アボリジニーの子供がジョンからの小さな紙切れを届けてくれて、やっぱり一緒に行かれない、みたいなことが書いてあって、もうこれで終わりかと思いました。ところが、私はそのままダーウインに行き、紹介してもらった教会に泊まってから、キャサリンに下ってきて、また紹介してもらった教会に泊まった翌朝、朝食を食べていたところにジョンが入って来たのです。私は柄にもなくドキドキして、教会の人が特別に作ってくれたベーコン・エッグのお皿を、オタオタと見つめていたのを憶えています。
*運命的なものを感じましたか?

うん、そういえるのかなー。でも運命というのは何か大げさ、縁があって流れにまかせてみた、という方が私の気持ちにあっている気がします。キャサリンで再会して、そのままジョンの車でアデレードまで行って、ジョンはメルボルンに、私はパースにと別れました。その時も、お互いにこれでさようなら、と思ったのですが。日本に帰って後、私の方からジョンに手紙を書きました。しばらくしてジョンが日本に来て、私の家族に会ったりして、1年後に私がオーストラリアに来て、ジョンと一緒に暮らしはじめたわけです。

*オーストラリアの生活はどのように始まったのですか?
まずお互いに過去を清算して、それから結婚して、2人でゼロから出発しました。お互い、本当にまったくのゼロからの出発でしたから、すぐに私はメルボルンの免税店で2年間働きました。そこで働いていた間に、こちらで永住している日本女性と知り合って、今でも友だちづきあいをしています。私が田舎に引っ込んでしまってからも、年に1、2回、日本の本や雑誌、日本食の調味料などを持って会いに来てくれます。

*免税店を2年で辞めて直ぐに田舎に来られたのですか?

いいえ、ジョンとヒロコという日本食のテイクアウェイの店を9年間やりました。
*そうでしたか。お店の名前はメルボルンで聞いたことがあります。それでレストランのようなお店の経営経験はお2人にはおありだったのですか?

いいえ、私の方は全く無し。ジョンの方は以前にハードウエアーの店をやったことがあった、というくらいです。

*それでビジネスの成果はいかがでしたか?
初めの2、3年は全く利益がありませんでした。3年目くらいからだんだんと利益が出るようになりました。それから6年間続けました。
*ビジネストとして成功だったわけですか?
そういえるのでしょうね。本来ならもっと上手くいってもよかった、と思うのですが、私たちは商売に向いてなくて、手間をかける割りには儲けるのが下手でした。
*ヒロコさんはオーストラリアに来る前はアーティストでいらしたとか。
ええ、東京で15年間グラフィックデザイナーの仕事をしていました。
*そうですか、それでは大きな変化ですね。
ええ、でも母が料理上手な人でして、私も料理は好きでした。人に食べてもらって喜んでもらうのが好きなのです。楽天的な私は、なんとかなるさ、と思ってしまったわけで。でも素人の悲しさ、なんとかなるのにずいぶん回り道をして、疲れました。でも料理はものを創りだすこと、それにアーティスティックな面もありますよね。だから楽しいこともあって、後悔はしていませんが、なにしろ9年間は長くて2人とも疲れはてました。
*それでは、ビジネスを売り渡してここに引っ越していらした、ということですか?
この家は店をやっていた時、土地を買って建てたものです。週末に来てはペンキ塗りやら内装工事やらを2人でやりました。いつかは店を止めてここで暮らすつもりでした。
*オーストラリアで今までにアートの仕事をするチャンスはありましたか?
オーストラリアに住み始めて半年も経たないころでした。知人の紹介でタイムマガジンの編集をしていた日本人男性を通して、バイセンティナリー特集に載せる、古い帆船のイラストを数点描かせてもらって採用されました。私のオーストラリアでの初収入でした。それ以後は店を始めてしまったこともあって、アートの仕事はしていません。

*お二人ともここの生活が気にいっていらっしゃるのですか?

もちろん。色々不便な事の多い田舎ですけれど、自然の中で暮らす喜びの方が今のところ勝っています。

*ではここでリタイヤーして生活を楽しんでいる、ということで?

私は仕事を持ってなくて、自家菜園などをしていますが、ジョンは仕事をしています。どちらかが仕事をして収入を得る必要がありますので。ここでの生活は地味ですが豊かな自然に囲まれてジョンも私も満足しています。

*ここでは日本人との交わりとか、限られていると思いますが、オーストラリアにいらしてから、こちらの生活習慣になじむ苦労とかホームシックになったり、とかいうことはありましたか?

それはなかったですね。私は割合異なる環境に適応できる性質なので。それに私は日本にいたときから、人がするから自分もとか、こうしなければいけない、という方ではなかったので。私たちの時代は女性は花嫁修業をしなければいけない、とかありましたでしょ。お茶、お花、お料理、そういう習い事には興味がなかったです。みんなでワーッと集まって習い事をする、というのが苦手なのです。それに人にどう思われるか、ということをいちいち気にしたり、人と比べて、うらやましがったり、などはしない方ですから。
*では、むしろ日本よりオーストラリアの生活習慣の方があっていますね。

日本人でいながら、そういう日本的な部分には強く反撥していましたね。だから最初の結婚も、親に勘当されても自分の意志を通して21歳で結婚しました。相手のなかに私の好きな部分があったから結婚したのですが、一緒に生活していくうちに、私が大事に思うものと、彼が大事に思うものとが違っていることに気が付いて。18年間の結婚生活でしたが、子供はつくらなかったし、将来このまま、自分の気持ちを隠し続けて生きていけるのか、と思うようになって。

*価値観が違っていたのですね。人それぞれですものね。でも、一緒に暮らしていく上で価値観の違いは決定的ですよね。
それで39歳の時に、40歳になる前に、今ならまだ何かに間に合うのじゃないか、という気持ちで、一人でオーストラリアの旅に出たのです。友だちや知り合いの中には、博子さんはいいわね、自分の思うことができて、という人がいますが、私だってただ自分勝手に行動しているわけではなくて、あれもこれもといわずに、切り捨てられるものは切り捨ててきています。自分で自分に責任をもってやればいいと思うのですよ。私は行動を起こす時、ある程度までは考えますが、それ以上は思い悩まず踏み切ってしまいます。そして決めたらもう後は振り返りません。もし間違ったとしても、自分のことは自分で責任をとればいいことですから。たぶん楽天家なんでしょうね。何とかなるさ、と思ってしまうのです。でもだんだん年をとってくると、何とかならないことも出てくるかもしれませんけれど。
*でも先の心配ばかりしていたら何もできないですよね。それで今はどのようなことをしていらっしゃるのですか?
一つは野菜、果物を育てることです。畑で採れた小たまねぎ、きゅうりでピクルスを作り、ラズベリー、プラムでジャムを作り、トマトがいっぱい採れればチャッネを作ったりです。日本のごぼう、山芋は特性の箱で育てて、少しですが日本食のレストランに卸したりしています。果物は日本の梨、幸水、20世紀、さくらんぼ、アプリコットなどがあります。
*では野菜や果物は買う必要はないわけですか?

春から秋の終わりまで、何かしら野菜が取れますが、とてもとても自給自足とまではいきません。雨水を溜めたタンクの水が生活用水なので、夏は特に水不足。限られた水を大切に使って、洗濯の水なども全部バケツに溜めて、と結構重労働なので、買った方がよほど安くて簡単なのに、といわれますが、、、、。一粒の種から芽が出て、花が咲いて実になっていくのを見るのが楽しみで、腰痛をだましだましやっています。

*やっぱり、家庭栽培のものは味がちがいますからね。で、アートの方をする時間はありますか?
 絵を描くことも店を止めたらやりたかったことの一つです。ブッシュの中を歩いていると、いつも何かしら描きたいものが見つかります。特に好きなのは古い大木。山火事で真っ黒になった太い幹から出た小枝に、小さな葉が出ているなんていうのが好きです。
*それで話は変わりますが、ご夫妻はヌーディストクラブのメンバーとか。

ええ、裸の付き合い、というのはとてもいいものです。クラブは家族単位のメンバーから成っていて、小さい子供から80歳の老人までいます。ヌーディストというと何だか完璧な体型でなければ、と思われるかもしれないけれど、そんな人は子供たちを除いて一人もいませんよ。自分の身体を見せびらかしたい人、というのは本当のヌーディストの意味からははずれていると思います。クラブのメンバーになって3年ですが、私も始めはちょっと戸惑いました。こっちの人って、太っている人は日本人には想像できないくらいの太り具合でしょ。でもそんな人も見慣れてしまうと、それはそれできれいだなー、と思うようになるんです。かんじんなのは外形じゃなくて中身だ、ということです。体型などはだんだん気にならなくなります。自然の中で裸でいるのは、とても良い気分です。特に私は裸で泳ぐのが大好きです。それでヌーディストビーチへ行ったりしたこともあるのですが、あそこは観に来る人もいて気になるんです。このクラブは広い敷地の森の中にあって、クラブメンバー以外は入れません。クラブにはテニスコート、プール、スパー、サウナなどがあります。

*高級ブランドの品々で身をかためたり、見せびらかすことができないわけですね。
クラブには一部にそういうたぐいの人もいます。でも私たちはそういう人たちとは交友していません。飾らない、隠さない、裸の付き合いで、ありのままの個人の内面性を尊重できるようになった、とジョンもよく言います。それと自然を愛する人たちですね。私たちはヌーディストとは言わずに、ナチュラリストと言っています。それとある意味で保守的というか、善悪の基準などがはっきりしていて、良い意味で道徳的な人が多いです。
*メンバーにはどういう方たちがいらっしゃいますか?
ヌーディストはヨーロッパで始まったので、ここでもヨーロッパ系のオーストラリア人が多いですね。だからとても国際的です。リタイヤーした人たちもたくさんいます。メンバーはそれぞれキャラバンカーを持っていて、いつでも滞在できるようになっています。私たちも古いキャラバンカーを持っていて、月に2,3回週末に行っています。
*話は変わりますが、このあたりには日本人は住んでいないようですが、そのことで淋しいとか、感じることはありませんか?

そういうことはあまりないですね。わたしはけっこう一人で居るのが平気なので。まわりに友だちが沢山いないと淋しくて、いつもグループで行動する、という人もいますが、私はそういう性質ではないですから。シティには用事があれば年に2、3回出かけますが、ブッシュの中に帰ってくるとほっとします。ここで暮らし始めて5年になるのですが、飼い犬のベンジーとブッシュの中を歩き回っていると、山のケモノや鳥たちといろいろな出会いがあって、それらをモチーフとしたイラスト入りの童話みたいなものをいつか本にできたらと、少しずつ書き溜めています。いつかは、とそれが私の夢です。

*澄んだ空気の中で充実した生活をなさっていらっしゃるのですね。お宅のまわりの自然をモチーフにしたイラストとエッセイの本、楽しみにしていますので、ぜひ実現させてください。今日はいろいろとお話を聞かせていただいてありがとうございました。

インタビュー:スピアーズ洋子

 

 


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