インタビュー (38) Kaz 武村一夫 |
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。 今月はオーストラリアでレストランのシェフ、レストラン経営などされて、現在は包丁砥ぎを専門にされているカズ( Kaz) さんこと武村一夫さんにお話を伺いました。 |
*カズさんはいつ頃オーストラリアにいらしたのですか? |
初めて来たのは1973年でした。 |
*まあ、では30年以上も前にいらしたのですね。その頃と比べると日本もオーストラリアも変わりましたでしょ。 |
そうですね。最初に来た時は船できました。オランダの船会社の船で、横浜・シドニー間の最終航海の船だったんですよ。僕は神戸から乗船しましたが、日本人の乗客は僕を含めて7人で、平均年齢22歳の男ばかりでした。船長さんの配慮だったんでしょうね、食堂のテーブルも船室も、日本人7人がかたまらないようにバラバラに配置されていたので、気軽に日本語ばかり話すわけにはいかなくて、その意味ではよい英会話の勉強になりました。 |
*途中いろいろな港に停まったのですか? |
最初に着いたのが台湾の北の港で、観光客はそこで降りて、それから1週間後に台湾の最南端の港で乗船しました。だから1週間台湾を北から南に観光旅行できました。これはとても良かったですね。台湾の北で降りた時、1週間後に台湾の南の港に着いていなかったら、船は待たないで出航しますからね、と念を押されて下船しました。誰も遅れた人はいなかったですね。次は香港、その時は昼間だけ上陸して、夜は船に戻りました。それからブリスベンに寄ってシドニーに着きました。 |
*まあ、素晴らしい旅ですね。どのくらい日数がかかりましたか? |
24日でしたかね。その時は長くて退屈でしたが、今から振り返って見ると、もう、ああいう旅はできないでしょうね。スワイヤー・マッキノンというオランダ船で最初にも言いましたが、最後の航海だったんです。乗客のほとんどは西洋人で、90%がリタイヤーしたオーストラリア人でした。船旅にしたのは、外国に行くのには時間をかけた方がいいし、船内はもう外国と同じだから、オーストラリアに着くまでの間にテーブルマナーだとか、いろいろ学べるから船で来た方がいい、というオーストラリア人の知り合いの勧めもあって船にしました。1年滞在する予定だったんですが。 |
*オーストラリアに来たのは何か特別な理由があったのですか? |
高校生の頃から海外に出たい、と思っていました。敷かれたレールに乗ってそのまま生きていくのではなくて、どこかに別の生き方があるのではないか、と考えていました。アメリカかヨーロッパかオーストラリア、と思っていました。アメリカへ行く人はかなりいたし、ヨーロッパは国がありすぎてどこへいったらいいのか考えが定まらなくて、言葉の問題もありますし、あまり知られていないオーストラリアにしよう、と思ったわけです。日本では食肉関係の仕事をしていて、まあ、ほぼ一人前になっていたので、海外のその方面で修業をするつもりでした。そのうちにオーストラリア人のジョン・スチュアートという人と知り合って、オーストラリアに行くことに決めました。ジョンも食肉産業にたずさわっていた人で、彼が同業の仕事を紹介してくれました。1週間ほど観光などしてその後、アパートもみつけてもらって働き始めて2週間したら、日本から連絡があって、父が急病なので直ぐ帰って来い、ということでした。ジョンと彼の家族の人に相談しました。ジョンは「帰るな、あんたのお父さんなら直ぐよくなるはずだから、しばらく仕事を続けた方がいい」という意見でした。奥さんの方が、「あなたのお父さんはこの世に一人しか居ないし、いつまでも生きていられるわけではないので、今はお父さんのそばに行ってあげた方がいい、オーストラリアは動かない、逃げていかないから、いつでもあなたを待っているから、また来ればいい」、と言ってくれたので、残念でしたけれど、奥さんの忠告に従うことにしていったん日本に帰りました。そして2年後の1975年にまたオーストラリアに来ました。 |
*そうだったのですか。そういうことも起こりうるんですね。それで2度目の1975年にいらした時は、オーストラリアに住むつもりでいらしたのですか? |
そうですね。前回が3週間で終わってしまったので、今回はその続きをするつもりでした。ジョンのところには挨拶にいきましたが、2回目の時は自分で仕事をみつけました。昼間はレストランのキッチンハンドとか、いろいろな仕事をしながら、夜の6時から始まる移民のための英語学校に通いました。オーストラリアに住んだら、英語と税金からは逃れられない、といわれていますから、英語はきちんと勉強しておこうと思ったので。 |
*仕事をしながらの勉強というのは大変ですよね。 |
そうですね。親戚、知り合い、コネ、頼る人など一切ないですからね。2年ほどシドニーで働きながら勉強して、その時知り合った人にさそわれて、マウントブラへ行きました。スイス人がオーナーのホテルで、昼間はスキー場でリフトのお客さんの世話をしたりして、夜はレストランの仕事を手伝いました。ヨーロッパのスキー場はこんな感じなのかな、と思いながら働きました。1シーズン過ごして、ここでニュージーランド人のシェフと友だちになって、彼と一緒にメルボルンにきました。彼の紹介でフッツクレイにある食肉会社で働きました。肉処理の技術も西洋と日本とではずいぶん違うんですよね。ナイフとフォーク、箸の違いですね。日本の場合は箸で食べられるまで、細かくスライスしなければならないですが、西洋料理ではそんな必要はないですから。まあ、両方を学んだので、今度は小売関係の事情を知りたい、と考えていました。ちょうどその頃、メルボルンで3軒目の日本食レストラン、マダムバタフライのオーナーと知り合いました。オーナーはマルティソー(地中海のマルタ島出身の人)で奥さんが日本の方でした。そこで今度はシェフとして働きました。その頃から、いつかは自分の店を持ちたい、という希望を持っていました。マダムバタフライの次に乾山でしばらく働いて後、自分の店を開きました。オーストラリアに来て丁度10年目でした。 |
*そうですか。食品関係、レストラン関係の仕事をしていると、いつかは自分の店を持ちたい、という気持ちになるのでしょうね。それを10年目で実現されたわけですね。どういうお店ですか? |
「サクラ」という日本食のレストランです。家の直ぐそばで歩いて行ける距離に店を持ちました。 |
*いかがでしたかビジネスとしては? |
忙しかったですね。それと世の中のことがよく解かりました。いい勉強になりました。 |
*人に雇われて仕事をしているのと、人を雇って自分が全責任をもってやるのとでは、やはり色々な面でずいぶんとちがうんでしょうね。材料を仕入れて料理をするだけではないですものね。スタッフのマネージメントもあるでしょうし。 |
うん、むしろそっちのスタッフのマネージメントの方が大変ですね。面接一つにしてもね。される方よりする方が難しいかもしれませんね。1回するたびに勉強になりましたね。ほかに人に任せる、ということも学びました。自分でできるから直ぐ手を出してしまったりするのですが、やっぱり任せられることは他の人に任せた方がいいのだ、ということも経験でわかりました。8年間経営を続けました。 |
*どうして止めてしまわれたのですか? |
子供ができたのが大きな理由ですね。家内がオーストラリア人で仕事を持っている人なので、レストランの仕事は労働時間が長いですから、子供がいる上に、レストラン経営をしながらの共稼ぎは無理だと思ったので。 |
*奥様はどんなお仕事をなさっているのですか? |
メルボルン大学で歯科コースの講師をしています。 |
*優秀な方なのですね。どのようにして知り合われたのですか? |
マダムバタフライでシェフとしてステーキを焼いていた時に、彼女はお客さんとして来ていて、それがきっかけです。 |
*そこでロマンスが芽生えた? |
まあ、そういうことなのですかね。 |
*で、奥様はずっとフルタイムでお仕事をなさっているのですか? |
ええ、いまでもフルタイムで働いています。僕のレストランの仕事は午後3時から朝の1時2時までかかりましたから、9時から5時までの仕事をしたいと、思いまして。丁度レストランのリースも切れた時で、仕切りなおし、というかもっと別の世界も知りたい、ということもありました。しばらく魚釣りをしたり、日本にもずっと帰れなかったので、日本へ行ったりして休養してから、今の仕事を始めました。 |
*今度は9時から5時になりましたか? |
9時からきっちり5時というわけにもいかなくて、そう9時から7時くらいですね。 |
*お客さんはやはりレストラン関係で、日本食レストランが主ですか? |
いや日本食関係は5%ぐらいです。包丁を砥げない人、砥ぎ方を知らない人、砥ぐ時間がないので他の人にやってもらいたい、というような人たちです。レストラン関係でも包丁はレストランに備えてある場合も、個人が持っている場合もありますし、いろいろです。 |
*メルボルンは食のキャピタル、といわれていますよね。特に食べ物においてすごくコスモポリタンな都会ですが、カズさんのお客さんはどこの国の人が多いですか? |
やっぱりイタリア系ですね。次が中近東、レバニーズ(レバノン人)ですかね。それとケータリングの会社も多いですよ。 |
*では包丁は魚よりも肉を切る包丁ですね。 |
そうです。日本の包丁を砥ぐ機会はあまりないですね。やはりドイツの刃物が多いですね。 |
*砥ぐのは手ですか? それとも機械で? |
両方です。手で砥ぐこともありますが、機械の方が速く短時間でできます。その時々で使い分けてますね。包丁には持ち主、使い主の個性が非常で出るんですよ。プライバシーにも関わることだと思うんで、そういうことにはあまりふれないようにしています。 |
*それでは話は変わりますが、奥さまはオーストラリア人で、国際結婚なのですね。長短両方あると思いますが、国際結婚のよいところはどんな点だと思われますか? |
そうですね。お互いに自由を認め合える、ということでしょうかね。僕の母の具合が悪くて、しょっちゅう日本に帰っていた時もあまり文句を言わなかったですしね。 |
*でも、それは国際結婚とは関係ないかもしれませんね。 |
うん、まあ、そうでしょうね。お互いを尊重して認め合うことが出来るのは、確かですね。彼女はイギリスやイタリアにも住んだことがある人なので、文化の違いも理解しています。日本に行くと3歩ぐらい僕の後を歩いていますよ。メルボルンの空港に戻ると直ぐに、さっさと僕の前を歩きますが。 |
*奥様は何系のオーストラリア人ですか? |
3代続いているオーストラリア人で、お父さんはアデレードの空軍出身の人です。 |
*出会いがあった時は奥様はデンティストをされていたのですか? |
そうです。 |
*オーストラリアでもデンティストになるのは、すごく難しいんですよね。とても優秀な方なのですね。 |
まあ、僕よりはね。だけど僕の仕事だって、誰でもできるわけではないですよ。 |
*ごもっともです。ところでお子さんは何歳ですか?子育てはどのように? |
息子は15歳ですけれど、小さい頃はマナーなどは厳しく躾けていました。あるていど大きくなってからは、細かいことはあれこれ押し付けないですね。本人の意見や話もきいてやって、自分で判断させていますが、やっぱり真剣ですよね、子育ても。 |
*一番難しい時ですね。子育ての比重はどのくらいですか? |
そうですね。僕が30%で妻が70%位ですかね。スポーツでもなんでも好きなことをやってみろ、といってやらせています。初めはクリケット、次がテニス、今は野球をやっています。クリケットもテニスも私は見ているだけで指導してやれませんでしたが、野球をするようになって、助言をしてやれるようになりました。 |
*ご家庭での言葉はやはり英語ですか? |
そうです。日本語は学校で習っているだけです。母親がオーストラリア人なので、、、、というのが僕のいいわけなんですけれど。英語がしっかりできれば、それでいいと僕は思っていますので。 |
*そうですね。中途半端が一番困りますからね。ところで話がまた変わりますが、オーストラリアに来られて良かった、とお思いですか? |
後悔はしてないですね。周りを気にしないで互いのプライバシーを尊重しながら暮らしていけるのが良いと思います。ただ、やはり外国で一人で生活していると、いつも自分をポジティブにもっていかないと、ガックリくることがありますから、いつもポジティブに考えるようにしていました。それに僕が来た30年前は、日本に電話を1本かけるにしても、電話局に電話をして交換手に電話番号を知らせて日本へ繋いでもらう、という時代でしたから、電話代だって高かったですよ。今と違って日本人は少なかったので目立ちましたからね。日本人らしく、というか日本人として恥ずかしくない行いをしなければ、みたいなことを思って生活していました。今頃の人はそんなことあまり考えてないみたいですけれど。 |
*そうですね。30年でずいぶん変わりましたね。いろんなことが。 |
オーストラリアでの僕の生活は10年を区切りで変わっているのです。24歳でオーストラリアに来て、34歳で自分の店を持って、44歳でこの仕事を始めましたから、64歳でリタイヤーするとしてもまだ10年ありますから、また次のステップの仕切り直しを考えているところなんですよ。 |
*では次は何を? |
和牛を育ててみたいな、と思っているのです。オーストラリアでもわずかですが和牛を育てていますが、僕らが考えている和牛とはちょっと違うのです。自分流に納得のいく和牛を育ててたみたい、というのが次の夢ですね。ちょっと離れたところに農場を持って、週に2、3回ぐらい行ってやれればな、と思うのですが、家族のこととか、親のこととかいろいろありますから、そのへんはバランスをとりながら徐々にやっていかないと、と思っています。家内はあまり積極的ではないんですけどね。脂肪が多いから健康的ではない、というんですけれど。 |
*でも日本食は世界中でポピュラーになっていますから需要は多いでしょう。 |
そうですね。中国人、香港から来た人たちはわかってくれますね。だから食の味を追及する人たちが興味を示してくれるので、そういう人たちを対象にしていったらいいのではないか、と考えています。まあ、最初から儲けようとかいうんじゃなくて、損して得するみたいな気持ちですね。そういうところはオーストラリア人は、あまり理解できないみたいですね。ドイツ人なんかの方がその点はよく解かってくれますね。 |
*そうですね。ドイツ人と昔の日本人は似ているところがあったみたいですね。でも現在の日本の若者はちょっと違ってしまったみたいですけれど。 |
日本の場合は親が難しいところや苦しいところばかり子供に見せますよね。あれじゃあ、絶対だめですね。オーストラリア人は親が自分たちの生活を楽しむでしょ。ホリデーもたくさん取りますし。そういう姿をみれば、子供だって親の生き方や仕事を肯定しますよね。牧場なんかでも親の後を継いでけっこうやっていっていますよね。
*そうですね。次の10年、オーストラリア産の和牛に取り組んでぜひ充実した10年にしてください。 はい、ありがとうございます。それから、最後にちょっと付け加えたいことがあるんですが、僕はオーストラリア人にはすごくお世話になっているんですよ。僕がこれまでやってこれたのも、いろんな場面で励ましたり手を差し伸べてくれた彼らのお蔭だと思っています。彼らのサポートがなかったら、僕は日本へ帰っていたかもしれません。オーストラリアが僕を育ててくれた、というような気もしています。だからオーストラリアに来て良かったと思うし、この国の人たちには感謝の気持ちを持っています。 |
そうですか。今日はお忙しいところを、いろいろ良いお話を聞かせていただきありがとうございました。 |
インタビュー:スピアーズ洋子 |