Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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インタビュー (40)    Scott Rogers                                 
  
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。 今月は メルボルンでお仕事のかたわら茶道をしていらっしゃる Scott Rogers さんをお訪ねしてお話を伺いました。
 
*スコットさんは茶道を始めて何年になりますか?

1974年に始めましたので31年になります。

*そんなに長く茶道を続けていらっしゃるのですか。それできっかけはどんなことから?

大学生の頃のことですが、人生の意味、それから文化の異なる人たちの異なる暮らし方、考え方、生き方に興味をもっていました。アメリカで生まれて、周りには豊かな自然があったので、自然だとか伝統的なアメリカのインディアンの暮らし方にも興味がありました。彼らのライフスタイル、狩猟をしながら大自然の中で自然の一部となって暮らしていて、狩猟をしながらも動物たちとの精霊的な交流をもっているし、豊かな精神生活をもっている、彼らのライフスタイル、生き方に興味がありました。私たちが近代的な生活の中で失ってしまったものを、彼らはまだ持ち続けている、と感じて、とても魅かれていました。いくら科学や医学が発達しても、人間は自然の一部に違いないので、そういう自然を理解しないで、どうして人間を理解することができるだろう、と考えました。そういう私自身の背景があって、大学では哲学と宗教哲学を学ぶことにしました。それぞれ異なる民族が異なる宗教をどのように信じているか、宗教の概念とか形式ということなのですが、その過程で仏教に出会いました。仏教の特に禅宗に興味を持ちました。その頃、マサチューセッツ大学で日本について学ぶことを薦められました。マサチューセッツ大学で日系の教授から日本について学んでいるうちに、日本の文化や伝統に興味を持つ人たちのグループができました。その学生たちと一緒に学ぶうちに茶道に出会いました。それで少人数のグループで茶道についても学び始めました。ちょうどその頃、京都の裏千家が、茶道をアメリカにも広めようとしていて、アメリカの教育機関とのコネクションを求めていました。当時の裏千家15代は、若くて有望で大志を持っている人でした。日本留学のスカラーシップもあることがわかって、それを受けることができたので、では京都に行って日本について学びながら、茶道をやってみよう、ということになったわけです。

*それでは日本へ行く前から日本で何をするか、かなり目的が定まっていたのですね。
ええ、けれど茶道についても日本についてもそれほど知識はありませんでした。留学先の京都に行ってからすべてが始まりました。1週間に5日から6日、日本語、茶道の文化や歴史、お手前などフルタイムのスケジュールが組まれていました。時には土曜日、日曜日にも朝早くから夕方まで盛りだくさんのプログラムをこなしていきました。
*日本へ行く前に日本語はどの程度お解りだったのですか?

ある程度の基礎的な日本語は習っていました。でも日本に来たら、私がアメリカで習ったような日本語は誰も話していませんでした。東京駅で電車に乗るためにたずねることはできましたが、その後はもう全然わけが解からなくなってしまいました。

*それでは裏千家の人たちとのコミュニケーションはどのように?

若い世代の先生方はたいがいある程度英語ができました。でも茶道においては、本当のコミュニケーションは、言葉ではないのですね。その場の雰囲気を感知しながら、先生のすることを見習い、毎日少しずつ体得していくものでしょう。だから言葉はそれほど重要ではなかったと思います。

*それでどのくらいの期間続けられたのですか?
スカラーシップは1年間だったのですが、3年延長しました。大阪万博の後の頃で、その頃はまだ日本に滞在する外国人の数は少なかったので滞在する場所に困るということもなかったし、もっと茶道を深めたかったので、私たちはそのまま続けていました。その間に様々なイベントに参加しました。家元が主催した伊勢神宮のお茶会とか。私たちの存在は家元の宣伝にもなっていました。お茶が初めて国際的なものになって、若い外国人がお茶のお手前をする、というのは、日本人にとってかなり印象的だったと思います。外国人留学生のOBの研修グループのようなものもできて、お茶を国際的に広める役割を果たしたと思います。家元のお供でハワイに行ったりもしました。
*家元は頭のいい方ですね。あの頃の日本の若者たちはアメリカの影響で、西洋的なものに憧れて、日本の伝統文化や習慣を軽視する風潮でした。そんな時代に、若くてハンサムなアメリカ人のあなたが着物を着てお点前をすれば、非常に印象的で宣伝効果満点だったはずです。ところで東洋的なものに魅かれて日本へ行って、失望した人たちもいたでしょうね。
そういう人たちはかなりいました。生活習慣、考え方、文化の違いがあまりにも大きすぎましたから、様々な問題があって、ノイローゼになった人もいました。西洋的な価値観、考え方に固まってしまっていた人がそうでした。私はまだ若くて順応性がありましたから大丈夫でしたが、それでも最初は容易ではなかったですね。それから女性の方が大変だったようです。日本は基本的に男性が主導権を握っている社会ですから、西洋の女性には抵抗が多かったと思います。
*たぶん日本人がアメリカに適応するより、アメリカ人が日本に適応する方が難しいのでしょうね。
そうでしょう。アメリカの方がずっとオープンで、日本は閉鎖的ですから。特に京都は他の日本の都市にくらべて、さらに伝統的で閉鎖的で古い文化が残っているところですね。だからこそ私にとっては魅力があったのですが。私の故郷はボストンなのですが、ボストンと京都は姉妹都市なのです。ボストンの美術館には岡倉天心の本があります。彼は明治の学者で、茶道について英語で本を書いています。その彼の本との出会いが、私が茶道に興味をもつきっかけとなって、日本に15年も滞在することになりました。
*その間にホームシックになったことはありませんでしたか?
ぜんぜんありませんでした。両親の方が私に会いたがって、母は日本に何度か訪ねて来ました。後半には私も何度かアメリカに帰りましたが、インド、韓国、東南アジアなど、アジアを旅することの方が多かったです。アメリカからみると日本はアジアへの入り口、という感じでアジアでは一番身近な国なのです。アジアに興味があったり知りたいと思えば、日本がとりかかりとなって、その向こうにアジアの国々がある、という感じです。ヨーロッパから見れば、日本はアジアの一番はずれにある遥かかなたの国ということになるのでしょうが。それで日本にいる間にアジアを見ておきたい、と思って日本からアジアの国々へ行きました。
*日本にいらした間、生活費などはどのようにされていたのですか?
スカラーシップが切れてから、京都大学病院の医学博士を紹介されました。京都大学病院の医学部では、国際医学学会誌に医学論文を発表するために、英語の編集者を探していました。というのは以前に論文発表をしようとしたところ、拒否されてしまいました。理由は研究の論文内容ではなくて英語が問題だったのです。それで論文が学会誌に受け入れられるような適切な英語に直す仕事を、私がするようになりました。医学用語を学び、彼と話して、何をいわんとしているのか、聞き出して内容を確かめながら英語に直して行きました。科学は理論的ですから理解するのは、それほど難しいことではありませんし、それに速く理解できます。科学的な分野での私の日本語も、速く向上しました。この仕事が上手くいって、論文が掲載されてからは、京都医科大学から仕事がくるようになりました。報酬も高くて良い仕事だったので幸運でした。その後、大阪の大きな会社で似たような仕事、教育関係の仕事などをしました。
*日本での15年間は有意義でしたか?
もちろんです。1970年代の半ばから1980年代の終わりにかけての、日本が最も活気に満ちていたエネルギッシュな時代をそこで過ごしたのですから。あの頃の日本は産業、経済、文化においても、活気にあふれていました。あの頃の日本人が持っていたバイタリティ、日本にあふれていたお金、すごいものだったでしょ。ファッション、建築、舞台なんでも新しいエネルギーと刺激に満ちていました。日本の建築家やファッションデザイナーが世界の舞台にどんどん出て行ったでしょう。私はイッセイ三宅、洋司山本の初期のデザイン発表をみています。初期の頃の服をもっています。私は若かったので、そういうものにとても新鮮な魅力を感じていました。ヨーロッパとはまた違って、その頃の日本には強烈なエネルギーがあって、私はその影響を受け、それを吸収していきました。私は文化や民俗学に興味がありますから、日本という異なる文化のなかにいることは興味のつきないことでした。それに日本にいるアメリカ人ということで、普通だったら会えないような特別な人にも会うことができました。若い時代に日本の非常にエキサイティングな時代を共有できた、というのはとても意義のあることです。
*それでは15年後に日本を離れてオーストラリアに来ることになったきっかけは?
偶然も多少あるのですが、日本女性と結婚したことも理由の一つです。いつまでも今までのように自由にしているよりもフルタイムで仕事をしよう、就職をしようと思ったのです。アメリカに帰ることも選択肢の一つだったのですが、偶然オーストラリアでの仕事のオファーがありました。いい会社で仕事の内容も良く、給料、ビザ、その他の待遇もとても良かったので、そちらを選んだ、ということです。その頃日本ではオーストラリアは人気のある国でしたが、内情はあまり知られてなくて、私にとっては未知の国だったので、冒険心も手伝って、行ってみようという気になったわけです。本当は最初、シドニーに行くはずだったのですが、最終段階でメルボルンに派遣されました。メルボルンは暗くて社会が沈滞している印象だったので、メルボルンといわれてがっかりしました。来てみたら気候的にメルボルンはどちらかというと私の故郷のボストンに似ています。
*それでメルボルンに住んでみての感想はいかがでしたか?
正直にいって失望しました。カルチャーショックを受けました。例えばインドに行くと誰でもカルチャーショックを受けるでしょう。川や道端に死体があっても、人々は平然としていますね。そういう光景に出会って受けるカルチャーショックとは質の違うカルチャーショックなのです。初めの印象は暗く沈滞していて保守的で、これといった特徴も刺激もないところ、というものでした。
*メルボルンの経済が最低の時にいらしたのですね。1980年代から1990年代のメルボルンは実際にその通りで暗かったですね。一時は失業率が12%になったこともありましたから。
日曜日にシティに出かけても、なーんにもなかったですよ。日本だったら日曜日はレストランも店もなんでもみんな開いていて、人々は街にくりだして大盛況で活気にあふれていたでしょう。日本経済の高度成長のピークを体験した後、不況の真っ只中のオーストラリアに来たので、その落差は激しかったですね。私自身は仕事に追われていましたが、まわりの人々は保守的で活気がなくて、社会的にも沈鬱な雰囲気に包まれていました。19世紀のヨーロッパってこんなだったのかな、と思ったくらいです。そういう状況のなかで暮らしていく、というのは、私たちにとって容易ではありませんでした。今はずいぶんと変わりました。良くなりましたね。
*そうですね。ここ10年でずいぶんと変わりました。それでオーストラリアに住まれて何年になりますか?
15年です。日本に住んだのも15年ですし、もうそろそろ動く時かな、と思っています。オーストラリアは15年間で私のグローバルネットワークの一部になりました。アメリカに里帰りする時は日本経由で帰ります。オーストラリアに戻る時も日本経由で、日本でお世話になった人や友人知人たちに会います。それに私は日が長いメルボルンの夏が好きです。故郷のボストン、兄の住んでいるシカゴなど北半球の冬は厳しいですから、向こうの冬をオーストラリアで過ごすのはいい、と思います。
*話は変わりますがオーストラリアでもお茶はずっと続けられたのですね。
ええ、お茶に関する記事を書いたり、公的な教育機関で教えたり、個人的にも教えたりして、ずっと続けてきました。どこへ行ってどこに住もうと、お茶は続けていくつもりです。
*お茶に興味を持つオーストラリア人は多いですか?
数からすればほんの少数ですが、興味を持っている人はいます。オーストラリア人はフランクでオープンですが、同時に繊細な面を持ち合わせている人もたくさんいます。イベントでお手前を披露したり、レクチャーをしたり、教え方をオーストラリア人に合うように工夫すれば、興味を持つ人はもっと増えると思います。
*ところで先ほど、そろそろまた動く時かな、とおっしゃいましたが、具体的に考えていらっしゃるのですか?
まあ、まだアイディアの段階ですが。一所不住という言葉があるでしょう。私はこの言葉が好きなのです。人それぞれに価値観が違いますが、私にとっては不動産だとか地位だとかに縛られずに、自分が興味の持てる所、住みたいと思うところに住んで、自分が興味を持っていてしたい、と思うことをする、これができたら最高だと思います。1箇所に定住しない、ということは世界中どこでも自分の住むところになるわけでしょう。幸い今私がしている仕事は、現在のテクノロジーを使える場所であれば、大都市でなくても世界のどこでもできるんですね。私はアメリカで育って、青年から成年の15年間を日本で暮らし、その後15年間、オーストラリアに住みましたから、次はヨーロッパに住みたいと考えています。シシリーに行こうかと、考えているところなのですよ。
*シシリー! 何故またシシリーなのですか?
私の母方の祖父母はシシリー島出身なのです。私の母はシシリア系のアメリカ人で、父はノーマン系アメリカ人なのです。シシリーは古い文化をもっていて、芸術面においても、とても興味深いところなのですよ。一所不住としての私の人生が、異なる文化を求める旅であるとすれば、次はヨーロッパとなるのは必然のような気がするのです。そしてシシリーでも私は日本のお茶の文化を紹介したいと思っています。もう、お茶は私の一部になっていますから、どこへ行っても、お茶は続けていけますし、どこに住んでもいいので、住む所にこだわる必要はないのですね。 
*そういう生き方ができるというのは素晴らしいですね。でもパートナーである奥様もそれに同意していらっしゃるのですか?

だと思います。こんどはヨーロッパに住む、ということに興味をもっているようです。彼女の友人たちには、夫が会社の社長さん、ビジネスマンとか、社会的に地位のある人がいますが、考え方がその社会に適応するような型になっていて、色々束縛がある生活をしていて自由があまりないようです。だから対照的な私のような生き方も良いと思っているのではないでしょうか。ただ流されて一所不住なのではなく、自発的にダイナミックに暮らしていくことができれば、いいと思います。私は日本に15年住んだ間に素晴らしい体験をして、素晴らしい人たち、すぐれた人たちにたくさん出会いました。会社の社長さんの中には70代に入っても元気でバリバリ仕事をして、実にバイタリティーにとんだダイナミックな方がたくさんいました。そういう方々から実にたくさんのものを学びました。オーストラリアの暮らしは楽ですが、私はまだまだ人生にチャレンジして行きたいと思っています。

*そうですね。現在のメルボルンは適当になんでもあって、まだ水も空気もきれいだし、プレッシャーやストレスに押しつぶされないで暮らしていけますけど、なにか物足りないところもありますよね。居心地が良すぎるような感じがしなくもないですね。

私はそういう在り方を拒否したいと思っています。そういうことに満足して安住したくないですね。

*まだお若いから。

いや、年は関係ないですよ。今は、みんないつまでも若くて、今の60代は昔の40代50代に相当します。その人の価値観、気持ちしだいだと思いますよ。私は自分の好奇心や興味を追求するために、60代、70代になってもチャレンジし続けていきたいと思っています。

*今日はお忙しいところ、貴重なお時間を頂いて、興味深いお話を聞かせていただきありがとうございました。
 

インタビュー:スピアーズ洋子


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