Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
前へ 次へ
 
インタビュー (44)    浦川ひろこ    
  
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。 今月は指圧をメルボルンに最初に紹介し、長い間指圧治療を続けてこられた浦川姉妹の妹さん、ひろこさんをお訪ねしました。メルボルンでは浦川姉妹として知られてきた浦川さんですが、昨年お姉さんの美千代さんが他界されました。ここに謹んで冥福をお祈り申しあげます。浦川美千代さんの死は、メルボルンの新聞 The age の死亡記事欄に大きな写真いりで指圧に貢献された業績を讃え、死を惜しむ記事が掲載されました。
 
*オーストラリアにはいつ頃いらしたのですか?

1974年ですね。今年でまる31年になります。

*随分前にいらしたのですね。

そう、長いですね。はっと気づいたら31年経っていた、という感じですが。

*オーストラリアにいらしたきっかけをお聞きしたいのですが。

父の影響もあるでしょうね。父は戦前、朝鮮の商船大学を出て、常に海外を廻っていたんですね。戦争が終わった時には私たちの家族は満州でした。満州から引き上げてきたんですよ。ですから昔から海外、という雰囲気は身近にありました。それと姉が、自分は日本にはちょっと合わないから、どうしても海外へ行きたい、といっていたので、それもあったですね。

*海外と指圧はどのように結びついたのでしょうか?

それも父と関係があるのですが、父はずっとエンジニアとして世界各国を船で廻ってきて、自分の体験からなんでしょうね、「お前たちは人種差別というものを受けたことがないから、わからないだろうけれど、人種差別を受けた時は酷いぞー」と、しみじみいっていました。人種差別はいけない、いけない、とただ言っていても、相手に対抗できる何かを持っていないとバカにされるぞ、と。だから海外へ出るのなら人種差別をされないように、相手と対等になれる技術をもっていなければダメだ、といっていました。父はエンジニアでしたから、技術のことはよくわかっていて、コンピューターという言葉は知りませんでしたが、先見の明はあった、と思います。お前たちが大きくなる頃は、機械がぜんぶやるようになっているから、中途半端な女の技術なんていうのは、役に立たないぞ、ともいわれました。そろばんを習おうか、というと、そんなのはばからしい、機械がもっと速く複雑な計算もやるようになる。字が下手だから、お習字をならいたい、といっても、それもばからしい、今にみんな機械がやるようになる、中途半端な技術というのは、もう技術にはならないぞ、とよく言っていました。だから、ただ漠然と海外にいってもしょうがないんで、日本人としての誇りを持った上で、外人にバカにされないような技術を身につけるとしたら、どんなものがあるか、とずっと考えていました。丁度その頃、母が五十肩でもの凄く苦しんで、夜も寝られないくらいだったんですね。それで近所の人が指圧に連れて行ってくれたんですよ。そしたら一発で治ってしまったんです。それで母が、「世の中には凄い治療法というものがあるんだね。あんたたちもそういうのを学んで、人々を痛みから解放してあげたらいいのに」といったんですよ。それが頭のどこかに非常に強く残っていたんですね。それで海外に出て行こうとした時に、海の向こうの人たちに対抗できるのは、日本独特の技術、文化だろう、と考えたんですよ。それで父のこと、母のことなどを考えて、指圧を学ぼう、ということになりました。けれど、結論を出すまでに2年くらいかかりましたね。あれこれあれこれ考えて。姉はもう東京の大学を出て実家に帰っていて、私が入れ違いに東京に出ていたのですが、姉と2人で浪越指圧治療の学校へ行きました。指圧療法の技術を修得して、これから海外へ、と思っていた時に、学校にオーストラリアとカナダとハワイから仕事のオファーがきました。その時父に相談しました。3つあるけどどこがいい、と。そしたら、オーストラリアにしなさい、といわれたんです。

*なぜオーストラリアと言われたのでしょうね。

オーストラリアには行ったことがある。白豪主義と言われてはいるが、そのなかでオーストラリアは一番人種差別が少ないはずだから、ということでした。ハワイもカナダもアメリカの影響下にあってまだ人種差別が強い、人種差別されたら苦しいぞ、といわれまして、オーストラリアを選んだんですよ。そういう、いろいろな要素が重なってオーストラリアで指圧をすることになったんです。

*指圧を修得するのにはどのくらいの期間がかかりましたか?
あの当時は2年でした。今は法律が変わりまして3年になりましたけれど。でも学校を卒業したからといって指圧の免除が出るわけではなくて、さらに国家試験を受けなければならないのです。学校は卒業証書を出すだけで、卒業証書をもっていると国家試験を受ける資格がある、ということなのです。私たちは国家試験を受けて、東京都知事から公認証というのを受けてオーストラリアに来ました。
*そうだったのですか。初めからすごくきちんと計画を立てていらしたのですね。
そうです。ばくぜんとオーストラリアに憧れて来た、ということではないですから、一瞬もムダにしていませんね。
*それでは滞在ビザの問題などもなくすんなりと?
いや大変でしたよ。当時サザンクロスというホテルが市内にあって、そこのショッピングアーケードに、私たちを受け入れてくれたチェコ人のマッサージ師が運営している診療所がありました。顧客に、たまたまオーストラリア大使館に勤めていて、日本から帰ったばかりの人がいらしたのですね。その方から、日本には指圧というものがある、と聞いて、指圧療法を取り入れることにしたのです。日本の指圧学校に要請の手紙が来て、2人募集をしたのです。それで私たちが推薦されたのですが、3年契約のビジネスビザを取るのに1年かかりましたよ。何回も東京のオーストラリア大使館に出かけて行って、昔も今もビザは大変なことですよね。
*そうですね。日本人に対しては昔の方が厳しかったでしょうね。それで、いらした31年前の当時のメルボルンはどんなところでしたか?
田舎でしたよね。丁度メルボルンのカップデーに来ました。だからカップデーが来る度に、今年も一年、一年という気がしていました。でも本当に74年の頃のメルボルンは、田舎も田舎でしたよ。日本食なんて食べられなかったですもの。日本食料品店は1軒だけありましたが、お醤油など少しの日本食料品を買っただけで50ドル、パーッと無くなってました。週給が80ドルの時ですよ。野菜だってポテト、にんじん、たまねぎ、キャベツ、いんげんぐらいしかなくて、やっとズキニーが出てきた頃ですよ。ベトナム戦争が終わって、ベトナム人が入ってきたあたりからですよね。いろいろな野菜が出回るようになったのは。当時は食べ物に季節感がなかったですね。だって年中、たまねぎにキャベツに人参、いんげんとポテトでしょ。そういう時代でしたよ。今は本当にいろいろ、出回って楽ですよね。安いし。
*やはり、食べ物とかでホームシックになりましたか?
食べ物もそうですが、私の場合は、朝起きて赤レンガの壁を見たときでしたね。日本でいう「バカの高のぼり」で、フラットの一番高いところを借りたんですよ。それで朝起きて窓をぱっと開けると、赤いレンガの家が並んでいるのが見えました。その時、すごいところに来たのだな、と思いましたね。日本の木の家とは全然ちがうでしょ。あのレンガの赤い色を見たとき、本当に外国に来たんだな、と思いました。
*オーストラリア人はどうでしたか? 人種的偏見などありましたか?
わたしたちは技術をもって来ていたので、仕事の上では感じませんでしたね。だけど買い物などに行くと無視されるということはありました。次が私の番なのに、わざと目を合わさないようにして、背の高い人を先にして私を後にする、というようなことはよくありましたね。でもね、差別というのはオーストラリア人からよりも、同国民の日本の商社の人たちからの差別を感じましたね。
*そうでしたか。駐在員の人たち?
当時駐在の人たちはエリートでしたもの。給料だってオーストラリア人はせいぜい高くても週給150ドル位の時に、彼ら(日本の商社の人たち)は倍以上でしたでしょ。何のバックグラウンドもなく個人で海外に来ていた私たちは、棄民扱いでしたよ。あなたはそういうことは感じませんでしたか?
*私がオーストラリアに来たのは1979年で、初めの5年ほどは日本の駐在の人たちとの接触はまったくありませんでしたから、10年ほど差がありますね。10年後では状況がだいぶ変わっていました。駐在の人たちもエリートというよりは普通の人たち、という感じで、彼ら自身もエリート意識はあまり持っていないようでした。
10年の間に随分変わりましたね。私たちが来た頃は、日本の会社は海外に進出していませんでしたから、駐在は商社ばかりで、商社員でなければ日本人ではない、という風でしたよ。領事館の人たちも何だか威張ってましたね。5年に一度パスポートの更新に行くでしょ。会社とかのバックグラウンドのない個人に対しては、尊大な態度でしたよ。今はだいぶ良くなりましたけれど。
*以前はそういうところがありましたね。それで、当時のオーストラリアで、他に何か印象に残っていることはありますか?
そうそう、飲酒運転。あれは怖かったですね。私たちはしらふで真っ直ぐ運転しているのに、後ろの人は酔っ払ってふらふら運転してて、自分が揺れてるのに、私たちの方がふらふらしてる、とかん違いして、後ろからブーブー鳴らすんですよね。土曜、日曜の夜なんかひどかったですよ。いや凄い国に来たな、交通事故で殺されるんじゃないかと思いましたよ。今は飲んで運転するのは厳しくなっていますが、30年前は普通だったんですから。それと私たちが来てから3年位してカラーテレビが入ってきたんですね。「カラーテレビを買ったから、ディナーにおいで」って、よく招いてくれましたよ。東京ではもうとっくに普及してましたけどね。
*そうでしたか。以前はオーストラリアはアメリカや日本に比べると、いろいろな面で遅れ気味でしたよね。今はだいぶ違ってきましたが。それでお仕事の方は順調に?
仕事そのものは順調でしたが、何だかんだといいながら、オーストラリアがだんだん気に入ってきたんですね。それでは永住権を取ろう、ということになって移民局に行っていろいろな手続きをして永住ビザを申請しました。ボスはキャンベラから問い合わせが来たら、イエス、といってサポートしてあげる、といっていたのに、実際に問い合わせがあった時にはノー、と言ったんですね。それで永住ビザが取れなかったんですよ。しかし弁護士を通して、もう3年、ビザを延期することはできました。ところがボスは私たちが永住ビザを申請した時点で、給与制から歩合制に切り替えたんですね。そんなこんなで、姉が腹を立てて、私たちは仕事を辞めてしまったのですよ。それが丁度、姉のアイディアで、銀行から金を借りて家を買って、半年ぐらいの時だったんですね。姉も太っ腹と言うか向こう見ずというか。それで辞めた翌日の朝、家の周りを散歩していたら、患者さんに出会って、「あなた方、どうしたんですか?」と聞かれたんで、わけを話しました。そしたら、では直ぐに失業の申請をしなさい、といって、事務所に連れて行ってくれて、彼が書類の書き込みなど手続きを手伝ってくれて、失業手当の申請をしました。そしたら直ぐにお金が届きました。ヘンな話で、あの時代にですよ、一所懸命働いてもらった給料と、失業手当の金額と、たった20ドルしか違わなかったんですよ。こちらは交通費なんて出ないですから、毎日仕事に行ったら交通費とかかかりますよね。必要経費を差し引くと、失業手当の方が高くて貯金ができたんですよ。
*まあ! 信じられないような話ですね。
そのうちに、前の患者さんたちが私たちの家を探し当てて、訪ねてきてくれるようになりました。その患者さんの一人が、「あなたたちこんなところで細々とやってないで、ちゃんと場所を借りて独立してやりなさい」といって、シティに場所をみつけてきてくれました。それで独立して自分たちで仕事を始めました。20年ほどシティで仕事をしていましたが、もう忙しくて忙しくて、それにシティは家賃も高いですから、仕事も整理して、住むところと仕事場と両方兼ねた家を、ということでこちらに引っ越してきたんですよ。
*患者さんはオーストラリア人ですか?
99%オーストラリア人ですね。
*独立されてからは問題もなく?
というわけでもなかったですが、ある日患者さんがふらーっと見えて、姉が一所懸命治療したんですね。その患者さんがとっても喜んでくれて、その場で新聞のヘラルド・サンに電話をかけたんですよ。そしたらヘラルド・サンから取材に来て、その記事が新聞に掲載されてからですね。オーストラリア人のお客さんがひっきりなしに来てくれるようになりました。ただ患者さんのメンタリティーの違いに直面して、困ったことが度々ありました。指圧というのは、一回でバシッと治る場合がありますが、そうではなくて時間がかかることもあるんですよ。それが理解できなくて、直ぐ治らないと文句をいって、お金も払わない、というんです。厳しいですよ、そういう面では。反対にそれがあったから、腕も上がったですね。もう、ここでめげたらお終い、と思いましたから。日本に帰ったって日本の社会に順応できませんもの。
*そういう点では、ご姉妹が一緒だったのでお互いに励ましたり、なぐさめたり、ということはありましたか?
うーん、姉はですね。性格が男よりも男っぽかった、というか、普通にいう慰めだとか励ましだとか、そういうのはなかったですね。もう、やるときはやるしかない、という姿勢でしたから。文句をいわれたら言われないように勉強して、腕をあげようではないか、ということですよね。
*努力されただけあって、オーストラリアの指圧やマッサージ協会から表彰されていますね。

1993年にオーストラリアの指圧セラピー協会からパイオニアとしての業績を表彰されまして、その後、オーストラリアのマッサージセラピー協会のライフ・メンバーにしていただきました。

*患者さんに指圧治療をするだけでなく、指圧を習いたい、という人たちに指圧の指導もされていたのでしょう。
ええ、Balaclava に指圧・アカデミーという、指圧セラピストたちをトレーニングする教室を設けました。50人くらいの生徒さんがコースを完了しました。かなり厳しいコースなので途中で脱落する人もいましたね。
*指圧をすることだけでなく、指圧師の養成までされたのですね。
私たちが来た頃は、指圧がどういうものかも知らない人がほとんどでしたからね。指圧の普及とレベルアップには貢献できた、と思います。お蔭様で2003年にはアメリカの指圧セラピー協会の名誉会員にしていただきました。
*日本の指圧を海外に普及することにも、随分貢献されたのですね。それで長い間オーストラリアで暮らしてこられて、オーストラリアの良いところ、悪いところについて、お話いただけますか?
良いところはスペースですね。広さ、ゆとりですね。悪いところは真面目さが足りない。日本語でなんといえばいいのでしょう。そう、人間がいいかげん。いい加減でも生きていける国なんですよ、この国は。日本人みたいに釈迦力にならなくても生きていける、ということはある意味でいいことなんですが、釈迦力になってやるべき時、というのも人生のうちにはあるわけでしょ。そういう時でも釈迦力になりませんもの。すぐあきらめるでしょ。何かを選択しなければならない時に、イージーな方、易しい方に行っては行けないんですよ。それでは、物事は達成できないんです。だけどオーストラリア人には歯を食いしばってやるという人は、みごとにいませんね。それでも生きていける国なんですよ。それが良いところでもあり、悪いところでもある、といえるのではないですか。
*そうですね。昔は大変だったようですが、暮らしやすくなってくると、生活態度や考え方もだんだん変わってくるようですね。他に何か最近お気づきのことなどありますか?

そうですね。最近思い始めたことは、この国では一所懸命働いてもあまり報いられないということです。例えば残業などして一所懸命働いて収入が増えると、その分ガバッと税金でもっていかれるんですよ。働くほど税金をたくさん払わなければならなくて、働かない人、何もしない人って、とっても楽なんですよ、この国って。その点でアンフェア(不公平)だとつくづく最近感じますね。働く意欲をそがれますね。だから、いい人材が海外に出ていくでしょ。これは考えるべきですね。この国の将来のためにも。まじめに一所懸命働く人を、税、その他の面でもっと優遇すべきですよ。移民にしたって、高級技術を持った人を、といっているでしょ。その前に国内で技術をもって働いている人たちを、なぜもっと優遇しないのか、と思いますね。

*確かにそうですね。弱者を保護する、弱者に優しい、というのは良いことですが、兼ね合いが必要ですよね。昨年は、もっとも身近な肉親であり、ビジネスパートナーでもあったお姉さまを亡くされて、いろいろとご苦労が多いことと思いますが、無理をなさらず健康に留意されて、これからも指圧を続けていってください。今日は興味深いお話をありがとうございました。


インタビュー:スピアーズ洋子

*この記事の無断転載、借用は著作権法違反になります。


前へ 次へ