MELBOURNE Street by Street (44) William Street ― その 3 ― ケン・オハラ William Street の南の端に近くなると、競馬とりわけメルボルンカップについて思う。そして競馬の馬の名前を付けることの難しさについて考える。 ケン・オハラは the Mitre Tavern を出て、William Street に戻るために Little Collins Street に沿って歩き、Gurners Lane を横切った。 20年前、このあたりにオフィスを持つビジネスマンのグループが競馬馬を共同で持っていた。彼らは馬の名前を付けるとき、考えた末に Gurners Lane と名付けた。 1982年に Gurnes Lane はメルボルンカップで優勝した。 このビジネスマンのグループは William Street Syndicate と名乗り、先の優勝に気をよくした彼らはもう1頭馬を持ち、 Little Coll と名付けた。しかし Little Coll は Gurners Lane のように成功はしなかった。 競馬馬の名前を考えるのはなかなか難しいようだ。何年か前のこと、Financial Review と名付けられた馬がいた。The Financial Review の発行者は馬のオーナーを告訴した。しかし馬の名前は許可された。理由は、オーナーが馬に新聞を発行させるわけではないから、ということであった。同じ名前でもまったく異なる分野の場合はよい、ということなのであろう。 20世紀のオーストラリアには、大衆を沸かせた三大スポーツヒーローがいた。一人はビリヤードプレーヤーの Walter Lindrum。もう一人はクリケットプレーヤーの Donald Bradman、そして競馬馬の Phar Lap である。 Phar Lap は1930年のメルボルンカップに優勝した。 Walter Lindrum Donald Bradman はイギリスへ行き、次々に記録を更新していった。 Phar Lap はアメリカへ行き二つのレースに優勝した後、不可解な死を遂げた。これはオーストラリア人にアンチアメリカの感情を起こさせるほどの出来事であった。これは歴史の本や百科事典にも取り上げられている。オーストラリア人の多くは、Phar Lap を二度と輩出することのない不朽の名馬と信じている。(メルボルン博物館の Australia Gallery には剥製にされた Phar Lap の雄姿がある。) Phar Lap の名前であるが、ケン・オハラはいまだかってその由来を知る人に出会っていない。 1987年にはケンセイという馬がメルボルンカップで優勝した。日本語の名前のように聞こえるが、オーストラリア人はケンセイという名前が何を意味するかを知らない。馬のオーナーもその意味を知らないのではないが、とケン・オハラは思っている。 William Street のはずれまで来ると、ヤラ川の向こうに Lloyd Williams と彼の会社が建てた Crown Casino が見える。Lloyd Williams は William Street Syndicate のメンバーの一人で Gurners Lane のオーナーである。彼は1985年メルボルンカップの優勝馬のパートオーナーでもある。彼は馬の名前を考えるのに相当苦労したようだ。なぜなら1985年の優勝馬は What a Nuisance(なんとわずらわしい) という名前であった。 Copyright: Ken O'Hara
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