インタビュー (45) うみうまれゆみ |
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。 今月は メルボルンを根拠に舞踏、演劇、ショーなど幅広く舞台活動をしていらっしゃる「うみうまれゆみ」さんにお話を伺いました。 |
*オーストラリアにはいついらしたのですか?
1991年のメルボルンの国際芸術祭に、その頃所属していた「大駱駝艦」が招待されて、メンバーの一員として来ました。10日間だけだったのですが。 *「大駱駝艦」というのは?舞踏で知られているダンスカンパニーなんです。 *舞踏を始められたのは何か特別な動機があったのですか?最初はクラシックバレエだったんですよ。9歳の時から習い始めて。私はもともと身体を動かすのが大好きだったので、器械体操などが得意でした。それで母が体操教室のようなところを探してくれていたのですが適当なのがなくて、少し離れた所にバレエの教室がありました。元はといえば母がバレエを習いたかったんですね。自分ができなかったことを娘にやらせる、という気持ちもあったのでしょう。私自身はバレエをやりたがるような少女っぽいところがなくて、どちらかといえばドッジボールの方がいい、みたいなやんちゃだったので、うーん、クラシックバレエか、ちょっと違うな、というような感じはあったのですが、身体を動かすのが好きなので、小学校の4年から週に3回ほど通い始めて、中学の終わりまで続けました。同時にいろいろなスポーツも続けてやっていました。それで大学にいって教育学部で舞踊を専攻して卒論を書きました。大学生の時に「舞踏」の舞台を初めて観て、凄いショックを受けました。自分が今までやってきた西洋の踊りとぜんぜん違うんですね。すごく日本的などろどろしたモノがあってぶきみだな、なんて思いました。ダンサーたちもトレーニングされた体つきではなかったんですね。後で話を聞いたら、アーティストではあっても、バレエや踊りのトレーニングは受けてなくて、舞踏の世界に飛び込んでやっている人たちが多かったのです。まあ、その時、どぎもを抜かれた、という感じがありました。でもそこで舞踏に入っていくというつもりはなくて、大学で体育と国語の単位をとって教育学部を卒業しました。でも結局先生にはならなくて、会社に就職して普通の社会人生活を2年間経験しました。私は関西出身なんですが、東京に赴任して営業などのきつい仕事をバッチリやってました。今では考えられないくらいコーポレートの世界に入っていたんですよ。でも、やはり東京って関西に比べると、舞踊、演劇とか盛んですよね。会社で働きながらもその合間に舞踏とか芝居の人たちとめぐり会う機会がありました。その頃とても評判だった大駱駝艦の人との出会いがあって、ワークショップに入ったりしていました。しばらくは会社で働きながら舞踏もする、という生活をしました。この時に少しですがビジネス感覚というか、実務を学ぶことができて、その時の経験は、現在役にたっています。そうやって2年経ってから、会社の方を辞めて大駱駝艦に入団しました。それからはもうまっしぐらでしたね。 |
*舞踏というのは、創始者は土方巽ですよね。日本の土着的なものをすごく強調していますね。 |
そうです。土方さんは最初はノイエ・タンツというドイツの新しい形式のダンスを習って、クラシックバレエを習って、モダンダンスもされたんですね。大野一雄さんの踊りにも強く影響されたようです。それから独自の、西洋の上昇していくダンスではなく、下降して肉体の中に入っていく動き、内面的なダンスを生み出した方です。秋田の出身なので、東北の重心を低く構える粘り腰とか、ガニマタの鎌足とか、そういう動きを取り入れたダンスを生み出しました。踊りだけでなく言葉の使い方も天才的な方で、人間の暗い内面に下降していって、闇に光を当てるダンス、ということで暗黒舞踏と名付けたんですね。1950年代の後半から1970年代に活躍されて、土方さんの教え子たちが、後にそれぞれ舞踏団を作っていって、私が入団した大駱駝艦もその一つなんですけど。 |
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*1960年というのは安保闘争があったりしましたが、文化面では日本全体がまだアメリカ、西洋志向の強い時代でしたよね。その頃に日本の土着的なものを舞台に引っ張り出してきて、スポットライトを当てた、というのはやはり天才的ですよね。 |
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そうですね。土方さんがいわれたことのなかで、「舞踏は動かない肉体から始まる」というのがあるのですが。西洋のダンスというのは、あくまでも美しい動き、なのですね。ところが、土方さんは醜悪美、といって静や内に向かう動き、衰えていくものの中に美しさを見い出そうとしたんですね。それはすごく革命的なことだったんですよ。ただ時代が移ってきて、舞踏それ自体もだいぶ変わってきましたし、私自身の舞踏に対するとらえかたもだいぶ変わってきました。2年前に「ビヨンド舞踏フェスティバル」というのが東京であって、招待されたので私も行って来ました。そしたら、舞踏はもう終わったのか、次は何だ、みたいな事をいっていましたね。 |
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*日本で舞踏の全盛時代、というとやはり60年代70年代なんでしょう? 演劇の世界でも、早稲田小劇場とか新宿の赤テントとか、アングラ的なものがさかんでしたね。芝居の方では鈴木正とか蜷川さんとかが出てきて演出をやってましたよね。西洋化に対するアンチテーゼみたいな要素を含んで、アングラ的だった舞踏が、メジャーになってしまったら終わらざるを得ない、ということなのでしょうか。 | |
大駱駝艦の艦長、麿さんも赤テントにしばらくいました。そうですね。あの方たちは今はもうベテランですよ。TV出演などもしてメジャーですね。そういうところが東京の面白いところですね。有象無象の人間がたくさんいて、鬱屈しながら何かを創っていて、その中から何か新しいものを生み出していく、というあのエネルギーは凄いな、と思いますね。 | |
*いまでもそういうものはありますか? なんだか薄れてきているような気がするのですが。 | |
うーん、やっぱり、あると思いますよ。大駱駝艦なんか世代交代が起きていて、若い子たちは張り切っていますし、私たちの世代は自分の劇団を作ったりして、何らかの形でやってますよ。 | |
*舞踏自体はどのように変わってきているのですか? | |
舞踏自体に対しては諸説があって、国粋主義的なところがあるとか、いやそういう思想的なものではなくて、圧倒的な西洋化のなかで自分たちの肉体のアイデンティティの発見なのだ、とか。あの頃、世界中でニューウエーブとかいろいろな運動が起きていましたから、その一つだ、という見方もありますし。まあ、東京ではもう終わりだ、といわれていても、ある一部の世界ではまだ全盛で、オーストラリアなどはやっと今頃、という感じで、舞踏というと習いたいという人が多くて、生徒さんを集めるのには困らない、という風なんですよ。 | |
*うみうまれさんのように海外に出て行った人もかなりいらっしゃるのでしょう? | |
いますね。ドイツに行った人もいるし。さっき言った「舞踏フォーラム」には世界各国に散っていた舞踏の人たちがみんな集ってきて、舞踏の同窓会、みたいなところがありました。私よりずっと上のベテランの人たちにも会えて、わくわくするようなイベントでした。舞踏のダンサーが朝日新聞の賞をもらったり、NHKの教育テレビで放映されたりして、舞踏自体も変わっていました。 | |
*うーん、NHKの教育テレビですか。時代というか、変われば変わるものですね。それでは2度目にオーストラリアで舞台活動をするつもりでいらして、最初はどのようなことをされたのですか? | |
最初の時は大駱駝艦の一員としてきて、メルボルンでは一番大きいアートセンターの舞台に出たりしたので、2度目の時も張り切って希望に燃えて来たのですが、オーストラリアって、だからといってすぐ仕事があるような国ではないですよね。だからすごく時間がかかりました。ワークショップをひらいたり、知り合いの知り合いに、たまに仕事を紹介してもらったりしていましたが1ヶ月に一つあるかないかですよね。だから語学学校へ行ったり、通訳の仕事をしたりしました。でも自分のやりたい仕事というのではぜんぜんなかったですね。だからやっぱりそこで一瞬挫折しました。 | |
*当時、オーストラリア人にとって舞踏というのは、まったく未知のものでしたでしょ。彼らの反応はどうでしたか? | |
ヨーロッパではすでに知られていましたが、オーストラリアでは聞いたことがある、という人が少しいた、というぐらいでした。なんだかわけのわからない踊り、と思った人が多かったでしょう。私自身も舞踏に対する姿勢が少し変わってきて、今では「舞踏キャバレエ」というのをやっています。舞踏もしますが芝居の要素を多くして、役柄もはっきりさせて解かりやすくしています。もちろん舞踏の暗黒とか内へ、という部分はどこかに必ず入っていますが、そればかりを強調して、お客さんをシャットアウトする必要はないわけですから。 | |
*そうですよね。ところでアボリジニーのダンスを観たときに、舞踏の動きと共通しているところがあるなー、と感じたことがあるのですが。 | |
そうですね。アボリジニーの文化も大地と密着したものですから。舞踏の踏という字には土を踏む、という意味がありますから、土の中から湧き出る力を吸い取っていく、という感じでは似てますね。やっぱりアジアのダンスには、腰を下げて体重を低くとったりとか、共通したものがありますね。アボリジニーのダンスには白い灰を身体に塗って踊る、ということで似ている点があります。そういえば、アボリジニーのダンスを観て、「舞踏の真似をしている」といって怒った日本人の観光客がいる、という笑い話があるんですよ。アボリジニーの文化や踊りには何千年という歴史があるのに。舞踏にも動物の動きを真似た動作というのもありますし。それはそれぞれの原始的な文化の、もとのところで共通したものだと思うんですよ。 | |
*それでオーストラリアにいらした当初はお仕事がなくて大変だったとおっしゃっていましたが。 | |
2、3年は本当にメチャメチャ暗かったですね。日本に行っても「あなた、まだいたの? 何やってんの?」みたいな。こっちに戻ってもこれといったものもないし。日本にもオーストラリアにも、どちらにもコミットメントがない所属していない、という宙に浮いてしまったような感じがありました。 | |
*転機が訪れたのはいつですか? | |
転機といえるかどうか。1997年に知リあいがビクトリア州の女性アーティスト・グラントに応募の手続きをしてくれたんですね、そしたらグラントがもらえたのです。その資金を元に翌年「フリーティング・モメント」という舞台をやりました。 | |
*拝見しました。舞踏と芝居とパントマイムをミックスしたような舞台でしたね。舞台装置もとても印象的でしたよ。 | |
あの時に、あせらずゆっくりやればいいんだな、と思うようになりました。それから1年後に「東京脱色ガール」というのをやって、その時に、私は私、思うようにやればいいんだ、と少し開き直った気がします。自分が日々の生活の中で感じていることを舞台で表現したり、コメディっぽいものも入れて、軽い明るい舞踏もできるんじゃないかな、と思いました。暗黒暗黒ととらわれずに、自分なりのものを創っていこう、と思うようになりました。もう考えているよりやるしかない、と開き直ってやっているうちに、いろいろ賞とかもいただくようになりました。 | |
*そうですね。「東京脱色ガール」のようなものの方が観客も理解というか、楽しめるのではないですか? | |
そうですね。それでいてメッセージも伝わるし。両方やっていきたいと思うんですよ。東京脱色ガールみたいなはっきりしていて解かりやすいものと、抽象的で難解だけれども何かを感じる、という純粋なダンスと。関西大震災の「鎮魂の踊り」を創作してコペンハーゲンで上演して、その後大阪でもやりました。それは抽象的な部分とストーリーのある演劇的な部分と両方が入っているんですよ。だんだん演劇的な部分が増えていっていると思います。ずっと以前は、何を表現したいのか、自分でもはっきり解からなくて、だから踊っているんだ、みたいなところもあったのですが。だんだん自分が表現したいことが解かってきた、見えてきた、というところがありますね。だから演劇性のある短いものも、どんどんやるようになりました。去年は Burlesque Hour というのが大ヒットしたんですよ。オペラハウスでも上演して、2週間の公演で切符は連日完売でした。 | |
*新聞にも大きくとりあげられていましたね。批評もよかったのではないですか。 | |
ええ、とてもいい批評をいただきました。今年中にツアーでスコットランド、エジンバラに行く予定なんですけど。そして戻ってからメルボルンのアートセンターのスピーグルテントでまたやるかもしれません。今現在は脱・色シリーズパート3「脱・色ホラ!!」を創っているところなんですよ。助成金がおりて、まだ他の助成金がおりるのを待ちながら、次の内容を考えているところなんですけど。舞台で踊ったり演技するだけでなくて、いろいろなこと、創作やマネジャー的なこともしなければならないんで。 | |
*それは大変ですね。ほとんど全てご自分でされているのですか? | |
自分でやらなければ誰もやってくれないですよ。校正などで誰かに助けてもらうことはありますけど、自分でプロデュースして自分でやっています。そのあたりがカンパニーに入ってやっているのとは違います。自分で自由にできるので、それなりの楽しさはありますが、リスクもありますね。自分が動かなければ何も起こらない、というところがあります。劇場を探して交渉するのも自分だし。 | |
*ご自分で企画、プロデュース、上演して赤字になるということはありますか? | |
いや、わたし、これだけ働いていますので、赤字は出さないようにしています。赤字の可能性がありそうだったら助成金をもらわないとできません。赤字になるということは人にも払えない、ということはプロを雇えない、ということですよね。もうそれだったらやらないですね。予算を立てるときは観客30%の見込みで予算を立てます。30%以下ということはまずないだろう、ということで、30%以上になれば収入になるわけです。それと私は舞踏を教えることもしていまして、メルボルンの舞踏コミュニティもだんだん増えてきているのですよ。 | |
*どのくらいですか? | |
Eメールのリストだけで150人くらいですね。友人知人その他いろいろ全部ひっくるめると、メルボルンだけで300人くらいになるかもしれません。いろいろやってきて、新聞とかテレビとかでも取り上げられるようになってきたので、舞踏に興味を持つ人が少しずつ増えてきたみたいですね。 |
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*それはいいですね。 | |
今すごく忙しくなってきました。自分のだけでなく他の人のプロデュース作品も手がけていて。ツアーもあるし。ブルーム、アデレードなど国内と、それに今年中には海外のツアーもあります。 | |
*健康で体力がないとできないですね。 | |
もう体力だけですよ。それだけは今のところお蔭様でありますから。これだけ飛行機に乗ってあっちこっち飛び回っていても体がもっているのは、基礎体力があるからだと思います。 | |
*好きなことをなさっているから、ストレスにはならない? | |
やっぱり空白が必要だと感じる時はありますね。そういう時はもうカントリーサイドへ行って、ぼーっとしてます。そういう点はオーストラリアはいいですよね。空気がきれいで空の青い所が身近にあって、気軽に行けますからね。東京にいた時も目の廻るように忙しいこともありましたが、目の廻り方が少し違いますね。やはりオーストラリアでは人間的なゆとりを、自分だけでなくまわりの人も必要としてるし。それと東京にいたときはマネージメントとかはなくて、忙しく身体を使って動き回っていただけですが、こちらでは頭も使わないといけないんですよ。マネージメントとか、アレンジメントとか、コンピューターとか、英語も使わなければならないし。頭の中がゴチャゴチャになった時は、踊って発散してます。 |
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*うみうまれさんの場合は、完全にオーストラリアの英語の世界でやっていらっしゃるのですね。よく日本の伝統芸能、音楽家とか芸能人が海外ツアーで大成功。何なにホールを満員にした、なんて新聞などで報道されても、あれって、現地の日本人会とか領事館とかが在住の日本人に必死で動員をかけて、観客の80%は日本人、ということが多いではないですか。 | |
私の場合は日本人はほとんどいませんね。唯一の例外はこの間上演した「チカ」ですね。 | |
*「麻薬の運び屋」の嫌疑で10年メルボルンで服役した日本女性の話ですね。あの場合は、題材と制作目的や過程との関係もあったでしょうね。 | |
でもそのお蔭で、日本人にも知ってもらうことができました。今度上演する「舞踏キャバレエ」というのは、日本を初めとしたカルチャーとアイデンティティをテーマにした作品なんですよ。だから日本の方にぜひ観てもらいたい、と思っています。タイトルが「脱・色ホラ!!」というんですよ。このホラーというのは、いろいろな意味を込めていて、「ホラホラ、あれ見て」という時のホラ、それから怪談のホラー、それと現代のホラー、凄く恐ろしい事件が起きている現在の日本も題材にしているんです。
*それは楽しみ。ぜひ観たいですね。メルボルンではいつ上演を? 11月の予定です。今年と来年もしばらくは「舞踏キャバレエ」をやっていきたいと思っています。*演劇性のものはバレエやスポーツと違って、年齢が加わっても続けられるからいいですね。 そう。舞踏はね。内面的なものがありますから。でも今やっている「舞踏キャバレエ」は凄く体力もいるんですよ。だから、できるうちにいろいろやりたい、という気持ちがあります。*体力の限界を感じてきたら内面的なもを掘り下げていく、ということもできるわけでしょう。 ええ、題材は山ほどありますから。 |
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*それは素晴らしい。いくら体力やエネルギーがあっても、インスピレーションが湧かなくなったらお終いですものね。創作する者にとっては。 | |
今はありすぎて困るくらいなんですよ。 | |
*アイデアとかインスピレーションがどんどん湧いて来た時は、書き留めたりしておくのですか? | |
言葉にしてしまうと、実際に舞台で身体を動かしてみると、すごく違うことが多いんですよ。だから私の場合、言葉よりも簡単なスケッチとかマンガみたいに描いておくことが多いですね。今一緒に仕事をしている人は、言葉でカッチリ言わなくても、私の思いや表現したいことを解かってくれるんですよ。そういう人に出会えるまですごく時間がかかるんですよね。だから、そういう人に巡り合えたというのは、とてもラッキーだと思います。 | |
*ではこれから、うみうまれさんの舞台、ますます期待できそうですね。ところで最後になってしまいましたが、おうかがいしたいことがあります。うみうまれ、という名前の由来なのですが。 | |
海外に住んでいるし、生き物は海に生まれて、海を越えているような、という意味と音の響きがいいので、この名前にしたんですよ。 | |
*うみうまれさんの舞台と同じく、お名前もとてもユニークですね。どうぞこれからも末永くご活躍ください。今日は興味深いお話をありがとうございました。
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