Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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インタビュー (46)    壷坂宣也    
  
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。 今月はジーロングの学校で教師をしていらっしゃる壷坂宣也先生に、Eメールを利用してインタビューをさせていただきました。尚、壷坂先生には「ユーカリ」の「オーストラリアで教える」にも、1カ月おきに執筆いただいています。
 
*オーストラリアにはいつ頃いらしたのですか?
初めて来たのは日本の学校で働き始めて3年目の夏休みでした。確か1994年の8月だったと思います。教員になる前から、いつか海外の学校で教師をしながら、異なった教育制度を学んでみたいと思っていました。その年から、教師をしながら民間の日本語教師養成講座を受講していた時に、その講座にあった海外研修で、2週間 Warrandyte 小学校と高校を訪問しました。とてものびのびした生徒達だなあ、というのが印象でした。その後、青年海外協力隊でパプアニューギニアにいた1997年の終わりに、オーストラリアで教員資格を取るための方法を調べるために、教育局や大学を訪問しに1週間ほどメルボルンに来ました。そして19987月に、実際に大学生活を始めるためにメルボルンに来ました。  
*なぜオーストラリア、と思われたのですか?

理由は幾つかあります。大学時代に、よく図書館でいろいろな国の学校を紹介した本を読んでいたのですが、その中でオーストラリアの学校を紹介した本が印象的に残っていたこと。チャールズ皇太子がハイスクール時代に過ごされた、有名なジーロンググラマースクールのティンバートップキャンパスの一年間の様子を紹介した、素晴らしいドキュメンタリーのテレビ番組を見たことも理由の一つです。また、先ほども言いましたが Warrandyte 小学校と高校を訪問した際に、お世話して頂いた元小学校の校長とその後も交流が続いたことも大きな理由の一つです。ただ、一番の理由は、オーストラリアは日本語教師の需要が大きく、教壇に立てる可能性が最も高い国だったからでした。

*オーストラリアは初めての海外ではなかったのですね。

初めてではありません。初めて海外に出たのは大学を卒業した翌年に50日間、ヨーロッパを旅行したのが初めてでした。大学で建築学を勉強していたので、一度ヨーロッパの建築を実際に見てみたかったのと、高校、大学時代にラグビーをしていたので、ラグビー発祥国のイングランドに行ってみたかったのが理由でした。その旅で足を運んだ国はフランス、スペイン、イタリア、スイス、それにイギリス(イングランド、スコットランド、ウェールズ)やアイルランドでした。初めての海外旅行で一人旅、しかも言葉は全くできませんでしたが、旅先でいろいろな人に出会い、素晴らしい旅行でした。しかも、どの国に行っても、歴史のある素敵な建物があって、ワクワクしたのを今でも覚えています。特にスペインはとても印象的でした。またラグビー発祥の地の、ラグビーという町にある名門のパブリックスクールの、ラグビー校を訪問して、何面にも広がる芝生のグランドの上に実際に立った時は、感動して足が震えました。その他にも、よくテレビで見ていたケンブリッジ大学のラグビーチームの練習を見学したり、ワールドカップが開かれた競技場を見て回ったりしました。それから、イタリア、スイス、オーストリアでスキーをしたのですが、スキー場の頂上が3500メートルを超えていたり、頂上から下まで15キロの滑走距離のスキー場があったりと、ただただ驚くばかりでした。そして、その旅行以後、海外をとても身近に感じるようになり、ラグビーの盛んなニュージーランドに行って、ラグビーチームの練習を見学したり、スキー、特にヘリスキーをしに行ったりしました。誰も滑っていないパウダーの新雪スキーはまさに天国でした。それから、アメリカのコロラドやユタにも何度かスキーに行きました。あと、近畿青年洋上大学というプログラムで中国でホームステイをしたり、韓国の青年との話し合いに参加したりしました。韓国といえば神戸で勤務していた時に修学旅行が韓国でしたから、その際にもソウルにある姉妹校などを訪問しました。また、青年海外協力隊で行ったパプアニューギニアにいる間に、バヌアツやソロモンアイランドにも行きました。教員になるためにオーストラリアに来たのはその後でした。オーストラリアに来た後は、カナダに一度スキーに行ったきりです。その分、国内旅行やサーフィンを楽しんでいますが…。

*オーストラリアの前の海外生活についてお話いただけますか? パプアニューギニアの学校、教師生活、なぜパプアニューギニアに行くことになったのかも含めてお願いします。
海外生活はパプアニューギニアが初めてで、その次が今のオーストラリアです。海外協力隊に参加した動機は、国際協力ということに興味があったことと、自分に何ができるのか試したかったからですが、パプアニューギニアを選んだ理由は、パプアニューギニアがリストにあった国の中で一番ラグビーが盛んだったので、言葉ができない分、スポーツを通してコミュニケーションをとれるのでは、と思ったからです。パプアニューギニアでの教師生活は大変でしたが、初めての海外生活でしたし、毎日が刺激に溢れていました。理数科教師として赴任が決まっていたのですが、ふたを開けてみれば、学校の事情で商業を担当することになり、教員不足で週30コマを超える時間数の中、教材研究や語学の勉強で毎日寝る暇もなかったですが、つらいと思ったことは一度もなく、毎日とても充実していました。男子校でしたが生徒は純朴で、英語もピジン英語もままならない私に、一生懸命ついてきてくれましたし、よく私を励ましてもくれました。任期後半には商業にあわせて、体育と数学も担当しました。また任期終了直前に、生徒達と歩いたココダトレイルの遠足の思い出は生涯忘れることはないと思います。今でもテレビの旅行番組で大洋州の国が紹介されるたびに、パプアニューギニアの私の家の前にあったマンゴーやパパイヤの木の様子や、放課後、楕円球を一緒に追いかけた村人や生徒の姿がよみがえってきます。パプアニューギニアは、私にとってまさしくパラダイスでした。  
*ニューギニアというと、第2次世界大戦では、日本軍とオーストラリア軍の激戦地となったところですが、対日感情はどうでしたか?もう過去のことになっているのでしょうか? それともまだ影響がかなり残っているのでしょうか?

当然、私の同僚や生徒も、そういった歴史上、起こったことは知っていましたが、反日感情といったものは感じられませんでした。もちろん、私がボランティアとして働いていたからでしょうが、それ以上に日本がODA(政府開発援助)のお金を使って、パプアニューギニアを支援するプログラムやプロジェクトが、頻繁に新聞紙上を飾っていましたから、そういったことをプラスに受け取ってもらえたのだと思います。また、パプアニューギニアにいる日本人は、青年海外協力隊の隊員を含めJICA(国際協力事業団)関係者と大使館の関係者が半分以上を占め、あとはプロジェクトを支える建設会社や、木材や漁業関係の商社の方ぐらいで、みんな何らかの形でパプアニューギニアの人々の利益のために働いていましたから、それもよく受け取ってもらえた理由の一つかと思います。ただ、旅先で日本軍が残した大砲や戦車の残骸を度々目にすることがあり、そのことが私の気持ちを複雑にしました。時には離れ島やジャングルの中で、そういったものに出会うこともありました。また、時々戦争を体験したお年寄りに会うこともありました。そんな中でも一番記憶に残っているのは、ココダトレイルを歩いた時に出会ったおじいさんです。そのおじいさんはニコニコしながら、「私は日本語を少し覚えているから、聞いてくれ。」と言って、いきなり「バカやろ。」という言葉を口にしました。突然のことで、私もどう返答してよいのやら、困ってしまいました。そして、そのおじいさんが、その言葉の意味を理解していなかったことが、私の心の痛みをさらに倍増させました。きっとその言葉を一番耳にしたので、よく覚えているのでしょうから…。

*日本、パプアニューギニア、オーストラリアの学校の環境、教育の違いなどについてお話いただけますか?  

違いはあり過ぎて、このインタビューだけでは言い尽くせません。また別の機会があれば『パプアニューギニア体験記』としてお話したいくらいです。パプアニューギニアはオーストラリアに一番近い国ですから、オーストラリアに関心のある方なら、きっと興味を持っていただける話がたくさんあります。 何はともあれ、3つの異なる国で教員の生活ができたことは、私にとって貴重な体験です。途上国のパプアニューギニアと先進国のオーストラリアと伝統文化と現代文化の共存する日本という、つの全く異なった視点から物事を見たり、考えたりすることができるようになりました。また、日本とオーストラリアしか知らない場合は2つの国を単純に比較するか、どちらかの国の視点に立って是非を判断してしまいますが、つの国を比較すると、オーストラリアとパプアニューギニアにあって日本にないものがあれば、日本が例外なのだという事を認識することができます。ただ、子供達はどこでも基本的には変わらないと思います。風貌はもちろん全く違いますし、生活環境も違うのですが、子供達の純真な心は同じです。

*オーストラリアの学校の教師生活については、1ヶ月おきに「オーストラリアで教える」に書いていただいていますが、ここでも少しお話いただけますか?

オーストラリアの教師生活は毎日が挑戦です。言葉の壁、やんちゃな生徒のあつかい、自己表現力の乏しさ…。乗り越えていかなければいけないことはたくさんありますが、その経験こそが素晴らしいことだと思っています。英語に関して少し話しますと、私は元々数学教師でしたし、学生時代の英語の成績はいつも散々でした。英会話のコースやYMCAにも行ってはみましたがいつも下のクラスでした。ですから、当然の事ながら、こちらでの最初の3年は日本語教師はもとより、ヴィクトリア州にいる全ての教師の中で、私は間違いなく最低の英語力だったと自認しています。なにせ英語を使っていたパプアニューギニアの2年間を終え、オーストラリアに来る直前ですら、TOEFLの試験結果は475点。大学にも正規行けないような英語力で、英語のネイティブの生徒が通う学校で働き始めたのですから、無謀極まりなかったです。留学生やアシスタント教師の方が英語ができたことは、珍しくはありませんでしたから。まあ、オーストラリア生活が7年を越えた今でも、確実にワーストには入っていると思います。いや、まだ最低かもしれません。まあ、こんなことは恥ずかしい話で、ここでお話しするようなことではありませんが。ただ、職場で苦悩した時は、いつも日本で初めて赴任した学校での体験を思い浮かべます。と言うのは、私の初任校はいろいろな生徒が集まる定時制の男子の工業高校でした。正直なところ、私自身の高校時代なら避けていただろう、というような生徒もたくさいて、学校やクラスでは考えられないようなことが起こりました。それに対処していく中で、私自身の許容範囲が広がり、随分と成長できました。その時に、「教師という仕事は自分にあった生徒を選ぶのではなく、出会った生徒に対処していく中で、自分を成長させる仕事なのだ」と思いました。ですからこちらの学校でも、たとえ難題があろうと、それこそが自分を成長させるチャンスだと受け止め、一期一会の精神で年間やってきました。元々一部の選抜校を除いて、ヴィクトリア州の学校では生徒同士に学力の差があるのが当たり前で、しかも私立と異なり、公立学校には教育に全く関心のない家庭で育った生徒が何人もいます。ただ、そんな生徒達を励まし導いていく中で、私も随分生徒の事を理解できるようになりました。今年は選択授業の日本語の高校3年生のクラスの他に、必修科目として勉強している2つの中学2年生のクラスと、3つの中学3年生のクラスを担当しています。思春期で落ち着かない、この年頃の生徒を5クラスも担当している日本人は、きっとヴィクトリア州では珍しいかもしれませんが、日本の生徒と一番大きく異なる、この年代のクラスを担当することこそ、今まで経験できなかった事を経験できるチャンスだと思い、大変な反面、ありがたくも思っています。

*どのようなところが日本の生徒と大きく異なるのですか?
そうですね。これもまたたくさんありますが、頭にすぐに浮かぶものからあげますと、まず一つ目は、個人の判断力の速さの違いです。もちろん、こちらの学校にも恥ずかしがり屋の子もいますし、他人に流される子もいますが、それでも、日本の子供達に比べれば、尋ねた事に関して、すぐに答えがかえってきます。日本人は他人任せにしたり、集団の一部の人間についていくような傾向がありますから、一人で決断する力が弱いと思います。それから、二つ目は、オーストラリアの子供は励まされて育っているからでしょうか、クラスの中で生徒を励ましながら教えていると、例え成績がかんばしくない生徒でも、笑顔で気持ち良く積極的に授業に参加してくれますが、日本の子供は苦手科目の授業では、励まされてもオーストラリアの子供ほど積極的にはなりません。やはり受験の影響もあるのでしょう。三つ目は、この7年間、教室で寝た生徒を一度も見たことがないことです。こちらの生徒は授業がつまらなければ話し始めたり、ノートに絵を書いてみたり、時にはいたずらを始めたりします。これはやはり文化的な違いもあるのだと思います。こちらの生徒はエネルギーを外に向けて発散しますが、日本の生徒はうちに向けてしまうのかもしれません。これも、自己主張や積極性とも関係すると思います。もちろん、家庭での睡眠時間の差もあるのでしょうが。最後に、オーストラリアの生徒は中学一年生の時は、日本の生徒に比べ精神的に随分幼いですが、高校生になり、学年が上がっていくうちに落ち着いてきて、自立していくと思います。  
*これからのこと、将来の希望や計画などについてお願いします。
大学を卒業する時に思い描いた計画は日本の高校で3年、青年協力隊で途上国の学校で2年、そして、オーストラリアの学校で3年教員を経験した後で、再度日本に帰って、その経験を日本の生徒に還元しようというものでした。ただ、日本の学校で3年目の終わりに神戸の震災に遭い協力隊行きを一年延期して被災地にあった学校で被災者の世話をしましたので、日本では4年教師をしました。また、オーストラリアの学校でも当初3年の予定でしたが、生徒の扱いに慣れるまで時間がかかったことと、中1だった生徒が高3を終えるまで頑張ってみようと思ったことが理由で、今年ついにその最終年の6年目を終えようとしています。そして今私はまたまた人生の選択を迫られています。その選択とは、初心通り日本に帰って日本の生徒に私の素晴らしい経験を還元するか、オーストラリアで仕事を続けながら外から見た日本や日本の教育のありかたや意見を日本のメディアを通して訴えていく立場になるかです。今回もまた、選択は容易ではありませんが、40代をむかえる次の10年は私にとりまして人生で大切な時期となると思います。今まで学ぶことの方が還元することよりはるかに多かったですが、人生も後半に差し掛かり、もう少し社会に貢献できる人間になりたいと思っていますので慎重に考えたいと思っています。  
*教師というのは、その国の次の世代をになう人たちを教える仕事ですから、大変なお仕事ですよね。しかも壷坂さんの場合は、生徒や保護者のバックグラウンドが、言葉を初め全てがご自分のとは異なるわけですからなおさらのことですね。この度はとても興味深いお話をしていただきありがとうございました。


インタビュー:スピアーズ洋子

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