Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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インタビュー (47)    Nick Polites                                
  
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。 今月はお仕事のかたわら、音楽をずっと続けてこられ、現在はリタイヤーしてクラリネット演奏を続けていらっしゃる、ギリシャ系オーストラリア人、Nick Polites さんをお訪ねしてお話をうかがいました。
 
*Polites さんは、オーストラリア生まれですか?

ええ、オーストラリア生まれのオーストラリア人です。しかし両親はギリシャ人で、2人はオーストラリアで出会いました。私の祖父はラフカディヨ・ハーンの生まれたネスカーダというギリシャの島で生まれました。

*ラフカディヨ・ハーンは日本ではとても有名な方ですが、ギリシャ生まれだったのですか、知りませんでした。

彼は日本で、生活のために英語の先生をしていて、作家でもあったようですが、有名だったのですか?

*ええ、日本の民話、特に怪談を聞き書き、収録された方で、日本の教科書にもラフカディヨ・ハーンの名前は出ています。
そうですか。父は彼と同じ島の出身です。私の母はトルコ生まれです。だからもし2人がメルボルンに移民していなかったら、両親が出会う、ということはなかったでしょう。トルコには、約250万のギリシャ人がイスラム帝国の時代から住んでいます。もともとはギリシャの領土だったのが、イスラム帝国時代にトルコの領土に組み入れられたわけです。こういう歴史はご存知ですか?
*いいえ。アレキサンダーの遠征以来、ギリシャの北東部の国々は、取ったり取り返されたり、というおぼろなことは知っていますが、詳しいことは存じません。

まあ、このあたりの歴史は、オーストラリアの学校では教えないし、詳しい人は少ないでしょうね。

*それで、ご両親はいつ頃オーストラリアに来られたのですか?

父がオーストラリアに来たのは1900年です。母は1922年にトルコから追放されてギリシャに行き、ギリシャからオーストラリアに渡ってきたのが1923年でした。それで、2人はメルボルンで出会って結婚しました。

*メルボルンはギリシャの外で、一番ギリシャ人の人口の多い都市だそうですね。
いや、そうではないですよ。ギリシャの国内では、首都のアテネ、続いて北部のサロニカがギリシャ人の人口が多い都市ですが、国外ではシカゴ、ニューヨークの方が、2世、3世のギリシャ人も含めて、メルボルンよりギリシャ人の人口は多いはずです。ただメルボルンには第2次世界大戦後に、ギリシャ人がたくさん移民しました。だからメルボルンはギリシャ生まれのギリシャ人が、ギリシャ以外で一番多い都市、といえるかもしれません。特に第2次世界大戦後に、たくさんのギリシャ人がオーストラリアに渡ってきました。ヨーロッパでは、短い間に第1次、第2次と2度も世界大戦の舞台となって、人々は危険にさらされましたから、もうたくさん、という気持ちで新天地のオーストラリアに希望を託してやってきたんだと思います。
*そうでしたか。メルボルンとギリシャでは気候がずいぶん違いますよね。それなのになぜギリシャ人がそんなに多いのかと思って不思議だったのですが。
そう、気候はまるで反対ですね。メルボルンの冬だってそれほど悪くはないのでしょうが。雪は降らないし、温度も零下にさがることはありませんから。ただ雨が多くて曇り空が長く続くので、気がめいることもありますね。それで私はメルボルンの冬にはヨーロッパかアメリカに行きます。だから、ここしばらくメルボルンの冬は経験していないのですよ。
*まあ、なんとぜいたくな。どうしてそのような暮らし方ができるのですか?生い立ちを話していただけますか?
ええ、自分でも幸運だと思っています。私は今78歳で、1927年にオーストラリアで生まれました。1932年から1940年まで、オーストラリアの1930年代を小学生として過ごしました。しかし学校生活は酷いものでした。
*なぜですか?
そうですね。いろいろな理由がありますが、1930年代のオーストラリアはブリティッシュエンパイヤー、という英国支配、アングロサクソン優位の傾向が強かったし、人種差別もあり、オーストラリアの北にあるアジアの国々への警戒心が強かった時代です。人々の教育程度も高いとは言えず、無知からくる偏見も強い時代でした。そんな時代でしたから、小学校ではいじめなどに会い、酷い体験をしてみじめなものでした。
*ギリシャ人ということで? でも私からみるとギリシャ人は西洋人なのですが。
小学校では、自分の国に帰れ、といってはやされました。でも私は、オーストラリア生まれで、オーストラリアが自分の国ですから、そういわれても帰るところはないわけですから、ずいぶん傷つきました。幸いなことに家族愛が強い家庭で育ちましたので、家族に守られている、という思いで救われました。小学校では奨学金制度があって、私はその試験を受けて合格しました。そんなにたいしたものではないのですが、奨学金試験に合格した、ということがとてもうれしくて、誇りに思いました。もちろん両親に報告して喜んでもらいました。ところが2日後にキャンセルされたのです。
*まあ!どうして?
校長室に呼ばれて、悪いけど奨学金は試験で2番目の生徒にいくことになった。君のお父さんはギリシャ人でまだオーストラリアの国籍を取得していないことがわかったので、といわれました。
*まあ、そんな、ひどい!
その時私はまだ11歳でしたので、そう言われて、どうすれば良いかわからなくて、ぼうぜんとしていました。後から考えると、「ちょっとまってください。試験を受けたのは父ではなくて僕ですよ。」、と言えば良かったのですが、当時は校長先生の言ったことを黙って受け入れました。これは本当に酷い体験の一つでした。当時は世界恐慌の時代でオーストラリアでも不景気の嵐が吹き荒れていました。不景気で仕事に就けなくなると、最初に槍玉にあがるのが外国人です。まあ、そういう背景を考慮にいれたとしても、やはり許しがたいことです。
*本当に11歳の生徒に対してそんなことをするなんて、今では信じがたいことですね。
そのことに対して、今ではそれほど恨んだりはしていませんが、ずっと後に、ギリシャ人社会の福祉の仕事をするようになって、いろいろな団体で講演をしたりするようになりました。その時には必ずこの話をします。オーストラリア人は人種差別はない、と言っていますが、実際に差別はあったし、今でも消えてはいません。だからといって自分の文化的な背景を卑下することはありません。むしろ誇りにすべきなのですね。
*本当にそうですね。それでご両親は、あなたにギリシャ語を教えようとなさいましたか?
特に教えようとかバイリンガルに、というようなことはなかったですね。両親は、当時のごく普通のギリシャ人で、教育も小学校教育しか受けていませんでしたから。でもギリシャ人ということの誇りはもっていました。それと両親とはいつもギリシャ語で話していました。でも4人の兄弟姉妹の間では英語で話していました。だから一応、ギリシャ語は話しましたが、その程度はたいしたものではありませんでした。母との会話が主なキッチンギリシャ語というようなものでした。それで70歳を過ぎてから、メルボルン大学で現代ギリシャ語を修得しました。私のギリシャ語は今が一番良いと思います。今、ギリシャ人に会って話をすると、一度もギリシャに住んだことがないのに、どうしてそんなにギリシャ語が上手いのか、といってみんな驚きます。これは両親にたいする私の敬意からきています。両親は無教育でしたが、本当に一生懸命働いて、子供たちに良い教育をうけさせてくれました。私に大学教育を受けさせてくれましたし、子供、家族の絆を大切にする本当に良い両親でしたから。
*ギリシャ、イタリア、スペインとか、ラテン系の人たちは家族、親戚を大切にしますね。いいことですね。ところで、音楽はどうようなきっかけで始められたのですか?
少年の頃はオージーフットボールをしたかったのですが、オーストラリアのフットボールチームには入れなかったので、ギリシャ人のフットボールクラブに入りました。両親は、当時のオーストラリア人を文化的でない粗野な人たち、とみていたようで、特にオーストラリアの女性は、男性と外出するのに帽子もかぶらずに出かける野蛮人だ、といってあきれていました。面白いでしょう、私はそんな保守的なギリシャ人の両親のもとで、オーストラリアで育ったのですよ。両親はそういう粗野なオーストラリア人たちと一緒に私がプレーするのは反対でした。それでギリシャ人のフットボールチームに入りました。そのメンバーの一員が、アメリカのジャズのレコードをもっていて聞かせてくれて、レコードも貸してくれました。それを聞いて、私がやりたいのはこれだ、と思いました。でも両親は反対でした。その頃、両親にとってミュージシャンというのは、社会のマイナーな存在、アウトサイダーで、飲んだくれで、トルコのハシシを吸って、女にだらしがなくて、短命で、というように考えていました。だからだいじな息子がそんな風になったら困るとおもっていたようです。だから楽器を買ってもらうまで2、3年かかりました。3年間、レコードだけを聴いていたのですよ。楽器を買いたくてもポケットマネーがありませんでしたから。3年目にやっとサクソホンを買ってもらいました。それで1週間目には、ダンスパーティで演奏しました。
*レッスンなど受けずにいきなりですか?
1942年、戦争中でした。突然知らない人から電話がかかってきて、「君の学校の友だちから聞いたんだが、サキソホンを持っているそうだね。今度の土曜日のダンスパーティで演奏してくれないか」といわれました。「そんなことできません。楽器は買ってもらったばかりで、まだ自分で使っていないのですよ。レッスンだって一度も受けていないんです」というと、「それでもいいからとにかく来てくれ。来て椅子に座っていてくれ」といわれました。戦争中で男たちが出払ってしまって、ミュージシャンがいなくなってしっまたのです。とにかくその土曜日のダンスパーティにサキソホンを持って行きました。バンドがあってピアノ、ギター、ドラムがありました。やはりサキソホンがいりますね。土曜日までに、たった1曲だけ自分で練習してなんとか吹けるようにしました。
*なんという曲でしたか?
シュガー、という曲でした。その晩に三つのことが私に起こりました。ステージで初めて演奏したこと、みんなに拍手をされたこと、そして出演料をもらったことでした。
*出演料はいくらでしたか?
29シリング。2ドル90セントです。当時の少年にしてみれば、なかなかいい金額でした。そして次の土曜日にも来て欲しい、と頼まれました。それでレコードを聴いて、なんとかもう2、3曲吹けるようにしていきました。教えてくれる人もいませんでしたから、レコードを聴いて自分で音を出してみる、という仕方で曲を学んで演奏しました。
*少年にとっては大きな経験ですね。
ええ、私は学ぶことが好きですし、試験を受けてもけっこういい成績がとれました。その後もいろいろな種類の奨学金をもらいました。最初の時のように、キャンセルされるということは、もうありませんでした。一つのことを深く研究するというのではないのですが、記憶力がいいのと早く学べる能力があるようで、いろいろなことを浅く広く早く学べるのです。試験では設問者がどのような答えを要求しているのか、質問を読むとすぐわかってしまうのですね。それで、出題者の意向に沿うように回答を書きました。だから結果はいつも良くて、奨学金をたくさんもらいましたし、大学でも優秀な成績で科目を修得しました。試験に向いているのでしょう。でも、その間でも、私が本当にしたかったのは、音楽を演奏することでした。だから趣味として音楽はずっと続けていました。
*では大学で専攻したのは音楽ではなかったのですね。

ぜんぜん関係ありません。私が魅かれていた音楽は、1900年代からのニューオーリンズの黒人のジャズなんです。彼らはまともな教育も受けてなくて、南北戦争の後、その辺に置き去りにされていた楽器を拾って、正式なレッスンなど受けずに独自に演奏し始めたのですね。まあ、こういう話をすると長くなるので止めますが、そういうミュージックに私は魅かれました。最初はサキソホンだったのですが、3,4年演奏しているうちにクラリネットの方が好きになって、クラリネットに移りました。質問に戻ると、大学では経済を専攻しました。そして卒業すると父が工場を買ってくれました。

*工場?
ええ、私の両親はギリシャ人の移民として何ももたずにオーストラリアに来て、ゼロから出発しました。男と女の子供を2人ずつ4人産んで、息子には大学教育を受けさせました。兄は弁護士になっています。私には医者になって欲しかったのですが、経済を専攻して医者にはならなかったので、私には工場を買ってくれました。
*何の工場ですか?
飴を作る工場でした。虫歯を増やすことに一役買っているようなものです。私はこの工場経営に身を入れることができませんでした。大学で経済を学びましたが、戦後のことで、アカデミックな世界では世界恐慌を経験した資本主義に批判的な風潮が主流でしたから、私もその影響を受けていました。それなのに小さいとはいえ、急に身替りして会社の社長になるのは心理的にも難しいものがありました。労働者に対するシンパ的な感情もありましたし。とはいえ、戦後の1950年代のオーストラリアは、ビジネスを始めるのには、絶好の機会でした。私は自分なりに社長として経営を上手くやったと思います。20年後にビジネスを売って、もう働かなくても暮らしていける経済的な基盤ができました。
*それでは1970年代でもうお仕事をする必要がなくなったのですか?

非常に幸運だったのですね。時代とのタイミングがピッタリだったのです。いくら有能で努力家でも時代の機に乗っていない場合は、その半分いえ4分の1も成果をあげることはできないでしょう。ビジネスを売った後、働くことを止めたわけではありません。その頃、メルボルンのギリシャ人社会でも少しずつ問題が起きるようになってきました。ギリシャ人家庭でも子供たちはオーストラリアの教育を受けますから、親子の間の溝や、これまで悩みを持った時に頼りになった宗教の力もあまりなくなってきました。そこで福祉が必要になってきたわけですが、オーストラリア人でギリシャ語が話せるカウンセラーがいませんでした。私はリタイヤーしたばかりで時間もありましたので、ボランティアで問題の相談役を引き受けていました。私はその仕事が気に入って、ボランティアを続けていましたが、政府から基金を得てきちんとしたものを設立することになりました。しかし、資格を持ったソーシャルワーカーがいないと政府は資金を出さない、ということがわかったので、私は社会福祉士の資格を取る為に再び大学に行くことになりました。そして資格を修得して、ギリシャ社会福祉協会のディレクターになりました。1987年にリタイヤーするまで続けました。

*会社の社長さんとして20年間ビジネスをしていらした間もミュージックは続けていらしたのですか?
もちろんです。20年のうちに何度も1年とか3年の休暇を取って、海外に演奏旅行に出かけました。イギリスでバンドに加わりプロとして演奏したこともありす。1961年から1963年にかけてでした。素晴らしいことでした。メルセデスベンツを運転しながら、イギリスやヨーロッパを自分の好きな音楽を演奏して周り、ギャラももらえたのですから。
*その間、会社の方はどうされたのですか?
義兄が経営してくれました。彼は20歳の時にギリシャからメルボルンにやってきました。姉と結婚して私と一緒に会社を経営してくれました。そして1年ほどギリシャに帰国しました。ギリシャに行く前にアメリカへ行って、キャデラックを買って、それから故郷へ帰りました。その頃ギリシャの道は細くて舗装もなくて、キャデラックを乗り回せるような状態ではなかったのですが、彼は故郷に帰って、自分がオーストラリアで成功している、ということをみんなに証明したかったのでしょう。まあ、人それぞれですからね。私にとっては好都合でした。私も彼に仕事を任せて、長期間海外に出かけることができましたから。
*結婚などしている暇はなかったのですね。
演奏を続けたり、海外へ出かけたりする自由を失いたくなかったので、そのためにずっと独身で過ごしてきました。10年間くらいは「ルイジアナ・シェイカー」というバンドで、年に3,4ヶ月演奏を続けてきました。
*アメリカにもいらしたのですか?
最初に行ったのは1963年でした。シカゴ、サンフランシスコ、ロサンジェルス、ニューヨークなどにも行きましたが、目的はニューオーリンズです。ニューオーリンズの黒人ジャズの元祖たちが年老いてはいましたが、まだ健在で彼らと共演させてもらったことは、人生の宝といえるでしょう。不思議なことに彼らは私を気軽に受け入れてくれて、一緒に演奏させてくれました。それ以来、ニューオーリンズには1年おきくらいに行っています。
*日本にもいらしたとか?
ええ、1966年に私がニューオーリンズで、黒人のジャズミュージシャンたちと演奏していた時に、大阪から来たニューオーリンズ・ラスカルズというバンドのメンバーに出会いました。そもそもの始まりは、1963年にニューオーリンズのクラリネット奏者、ジョージ・ルイスが率いるバンドが日本で演奏しました。大阪のニューオーリンズ・ラスカルズのバンドリーダー、ヨウイチ・カワイはジョージ・ルイスに心酔していて、3年後の1966年にニューオーリンズを訪れました。その時に、たまたま私もニューオーリンズにいて、一緒にミュージックセッションをしたりして、何度も一緒に演奏しました。それが縁で私を大阪に招待してくれたのです。1970年の大阪万博の時にそれがやっと実現しました。大阪万博では、大勢の聴衆の前で彼らと一緒に演奏しました。彼らの知り合いのいろいろな日本人家庭にホームステイさせてもらって、日本の暮らしぶりなども学べて素晴らしい体験をしました。それ以来、彼らとは生涯の友だちになりました。1985年にもまた行きました。この時は、アメリカのジャズバンドと一緒に大阪、神戸、東京コンサートツアーをしてまわりました。この時も素晴らしい時を過ごしました。 実をいうと、ニューオーリンズで日本のバンド、ニューオーリンズ・ラスカルズに出会うまで、日本人に会ったことがありませんでした。私は、第2次世界大戦中から戦後にかけて、シンガポールのチャンギ捕虜収容所やタイとビルマの国境の鉄道建設現場、ニューギニアでの日本軍人の残虐性を聞いて育ったので、日本人に対して良い印象をもっていませんでした。ところがニューオーリンズ・ラスカルズのメンバーは礼儀正しくて、本当に素晴らしい日本人で、私が抱いていた日本人像とはあまりにも違っていました。あまりにも極端から極端にかけ離れているので、どちらが本当の日本人なのか、と首をかしげてしまいました。もちろん、どのグループ、どの民族にも、善と悪があって、時によって、そのどちらかが表に出てくる場合があるのですね。連合軍側でも広島と長崎に原爆を落としました。私には、本当にそうしなければならなかった、とは信じられません。私は広島の戦争博物館にも行きましたが、直接戦争に関わっていない赤ちゃんや子供、老人や女性たちが何十万と犠牲になっていますね。あそこまでする必要はなかったと思います。問題が解決できないからといって、戦争で殺し合いを始めるなんて、本当に野蛮なことです。私が会った大阪のミュージシャンたちは本当にいい連中です。音楽に限らず、芸術的なことに夢中になって続けていたら、悪くなりようがないでしょう。
*本当にそうですね。ところでニューオーリンズ・ラスカルズの方たちとは、やはり英語でお話を?
ドラマーでシカゴ大学に行った人がいて、その人は英語が上手でした。その他にだいぶ話せる人、それほどでもない人もいましたが、一緒に演奏してコミュニケーションに困る、ということはなかったですね。
*私は音楽家はもちろんですが、プロでなくても楽器を演奏する人がうらやましいですね。音楽を通して言葉という障害を、軽々と飛び越えることができるでしょう。
本当に音楽は国際語、ともいえますね。私は世界のいろいろな国で演奏しましたが、その国の言葉は二言三言しか知りませんでした。それでも、音を介して気持ちがすぐ通じ合って友だちになれました。ずっとクラリネットを演奏してきて本当に良かったと思います。そういえば両親は、音楽に興味がありませんでしたが、祖父は父が育ったギリシャの小さな島で、少しは知られたクラリネット奏者だったそうです。母は、私が若い頃はそのことを言わないで、もうずっと後になって教えてくれたのですが。
*ご自身のなかに音楽家の血がながれていたのですね。
たぶんそうなのでしょう。それでなぜ、こんなにも自分が音楽にこだわり続けてきたのか、納得がいった思いがします。今でもニューオーリンズ・シェイカーというバンドのメンバーで、毎日曜日の午後、パブで演奏しています。よかったら聞きに来てください。もう2週間は演奏していますが、その後、6週間、ギリシャに行ってきます。
*いいですね。好きな音楽を続けられて、ご両親の母国のギリシャで長い休暇を過ごされるなんて。ゆとりのある実り豊かな晩年ですね。今日はいろいろなお話を聞かせてくださってありがとうございました。

注:このインタビューは2005年8月初旬にされました。ハリケーン、カテリーナがニューオーリンズを襲う以前のことで、それゆえ、ニューオーリンズの惨状にはふれていません。

インタビュー:スピアーズ洋子

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