Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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インタビュー (48)    永嶋実                                
  
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。メルボルンでは、毎年ジャパンフェスティバルが盛大に行われ、地元の人気をよんでいます。今月は、今年のジャパンフェスティバルの実行委員長をされている永嶋実さんにお話をうかがいました。
 
*今年は「日豪交流年」ということで、いろいろなイベントが計画されていますが、毎年盛大に行われているメルボルンのジャパンフェスティバルについて少し伺いたいのですが、そもそもの始まりはいつ頃からですか?

ジャパンフェスティバルは、もともとはJCV(ジャパン・クラブ・ビクトリア)がおこなっていました。JCVというのは、ビクトリア州に住んでいる日本人の親睦のために1982年に発足しています。そもそもは会員の親睦をはかるため、ということで1986年頃からフェイト(祭り)が始まったようです。食べ物などは、お汁粉、やきとり、赤飯、お寿司といった程度で、本当に内々の、みんな手弁当で集まってきてバザーなどをやっていたようです。当時のニュースレターにもありますが、目的は会員の親睦と資金集めでした。会を運営していく為にはいろいろと費用もかかりますから。

*そうですか。それが20年後の現在では何千人という人が集まる、お祭りになっていますね。変わったのはいつごろからですか?

10年くらいで、だんだん出店の数も増えてきて、JCVの会員以外の人たちも集まるようになり、和太鼓、いけばな、琴、尺八、空手、柔道、剣道などといったパフォーマンスも加わるようになりました。規模も大きくなってきたので1999年から会場も少し大きなところに移して、名称もジャパンフェスティバルとなりました。その後、さらに会場を現在のBox Hill に移して、今年で4年目になります。

*ちなみに昨年の来場者は何人ぐらいですか?

6000人ぐらいですね。

*かなりな規模ですね。来場者はどういう人たちですか? やはり日本人が多いのでしょうか?

始まった当初は、在住の日本人が多かったのですが、最近は日本からの留学生やワーキングホリデーの若い人たちが増えてきたのと、日本語に興味をもっているオーストラリア人、それから日本文化に興味を持っている中国系の若者たちが、増えてきました。それに日本食の売店もたくさんあるので、日本食はブームですから、そういうものが楽しみで地元の人たちも来てくれているようです。半分以上は日本人以外だと思います。

*日本文化は10年以上も前から東南アジアで人気がありますからね。マンガとかゲームとかファッションとか。

そうですね。Tシャツのデザインなんかも、中国の漢字ではなくて、わざわざ日本語の漢字、それにカタカナとか使ってますね。その他にも、オーストラリアの小中学校で日本語を教える学校がかなり増えましたので、子供たちの両親が日本文化に興味を持つようになってきた、ということもあると思います。

*規模が大きくなると開催する側も大変だと思いますが、準備などはどのようにされるのですか?
ほとんどボランティアです。現在JCVの有志の方々が20名ほど集まって、もうすでに準備はスタートしています。あと当日にお手伝いしていただける一般のボランティアを80人くらい募集することになります。
*昨年は開会式に市長さんも祝辞を述べられるなど、盛大なお祭りでしたね。実行委員長さんとしてはご苦労も多いことと思いますが、今年も期待しています。ところで永嶋さんの個人的なことをおうかがいしたいのですが、メルボルンは長いのですか?
1986年にオーストラリアに来ましたので、ほぼ20年になります。
*いらした理由というか、きっかけは何ですか?
最初に来たのは1972年でした。その時は、オーストラリア人に野球を教えたい、と思ってきました。
*野球を? それで実際にコーチされたんですか?

ええ、当時はまだワーキングホリデービザがなかったですから、普通の観光ビザで来て、オーストラリア人の家庭にホームステイしました。ビザが切れてからは、野球のコーチとしてビザを延期してもらって1年間滞在しました。その時オーストラリアがすごく気に入りました。だけど永住するとかそういうことは全然考えてなくて、一年で帰国しました。だけど、今度は1、2年ではなくてもっと長く住んでみたいな、という気持ちになりました。それから5、6年たってから、オーストラリアで野球を教えた子供たちが、親善試合に日本にやってきました。そのチームの団長さんが、オーストラリアでの私のホストファミリーだったんです。その時に自分の気持ちを伝えて、「もう一度オーストラリアに行きたいのだけれど、何か手立てはないか」、と聞いてみました。

*それでビザは簡単にとれましたか?

当時は今よりは取りやすかったですね。ただビザが下りる前に日本の会社を辞めてしまいましたので、ビザが下りるのを待っている間がつらかったですね。

*その時はもう結婚されて、ご家族もあったわけですか?
ええ、家内に話した時は、子供が2人いて、家内は3人目を妊娠して出産まぎわだったんですよ。
*まあ、それは大変な時でしたね。よく思い切って。それでビザはスムーズに下りましたか?
大変ショックでしたが、ビジネスビザの申請は却下されてしまいました。今では考えられない話ですが、最後の手段の永住ビザに変えて申請したところ、オーストラリアでスポンサーになってくれた会社が旅行代理店だったので、トラベルコンサルタントで3ヶ月後にビザが下りました。
*永住されてからも野球のコーチをなさったのですか?
ええ、コーチはしましたが自分の体が動くうちは、やはり教えるよりも自分でプレーする方が楽しい、ということがわかりましたので、自分でもチームでプレーを始めました。私がコーチをしていた時は、10歳以下、12歳以下、14歳以下、16歳以上シニア、というように段階があって、私は一つのチームをずっと継続して教えていたのですが、長男が16歳になった時から、親子で同じチームでプレーができるようになりました。それがとてもうれしかったですね。どうしてかというと、最初に私のホストファミリーになってくれた方の家族は、その人がおじいちゃん、子供、孫と、三代で野球をやっていたんですよ。それをみて感動しましたので。
*オーストラリアはスポーツの盛んな国ですが、普通野球というのはあまり聞きませんが、永嶋さんが最初にいらした頃はどうでしたか?
オーストラリアはクリケットがありますから、やはり野球をする人は少なかったですね。だけどオーストラリアの野球の歴史は古いんですよ。1850年代のゴールドラッシュの時に、アメリカ人もやってきて野球をやったりオーストラリア人に教えたりしていましたから。
*そうなんですか! それは知りませんでした。
私が所属しているチームもクラブ歴は確か今年で108年のはずです。創部100年記念パーティに出席しましたから。10年くらい前まではプロリーグもあったんですよ。オーストラリア人は身体も大きいし、実力もあるのですが、プロがなくなってしまったので、選手たちはアメリカに行ったりして活躍しています。この前のアテネオリンピックではオーストラリアチームは日本のチームを負かしたでしょう。それだけ、実力はあるのですよ。
*そうでしたね。オーストラリアが勝ったんですよね。
私が最初に来た1972年当時、私でも教えられた、ということは、当時はそのくらいのレベルだった、ということになりますね。オーストラリア全体からみると野球はマイナーなスポーツですが、オリンピックのような国際舞台でも活躍できるし(アテネでは準優勝したのだと思います。)、現在では、スカウトされてアメリカでプロとしてやっていける者もでてきている、というくらい実力はあるのです。こういうことご存知なかったでしょう。
*知りませんでしたね。特にオーストラリアには100年以上の野球歴があったなんて。それでは1986年に永住してきてからも、余暇はずっと野球をしてこられたのですか?
ええ、2000年まで。その頃50歳くらいになっていたのですが、ボールがそれまでのように投げられなくなってきました。それと、軽い怪我を時々するようになって。それで5年間ほど休んでしまったら、だんだん体がいうことをきかなくなってきてしまいました。しかし、60歳以上のマスターズ世界選手権に、オーストラリアチームのメンバーとして、野球の本場であるアメリカで試合をするのが、私の野球人生の最後の夢ですので、その準備のために今シーズンからまたユニフォームを着たのですが、大切なアキレス腱を切ってしまいました。やっぱり年でしょうかね。
*怪我は早く治してください。特に足は日々の生活にかかわりますから。ところでお仕事の方はずっとトラベルコンサルタントをされてこられたのですか?
2年ほどした後、事情があってツアーガイドに転職して、8年ほど続けました。オーストラリア建国200年の1988年頃は日本のバブル経済のピークでしたからね。こんなにガイド料をもらってしまっていいのか、と思う時もありましたね。
*今は日本からの旅行者はずっと減っているのでしょうか。
数はそれほど変わりないようです。というのは、修学旅行などの人数の多い団体が増えていますから、数字の上ではあまり変わっていないのですが、中身がずいぶん変わっています。新婚旅行一つにしても、1980年代の後半では、一人、60万円、お土産にも30万円くらいかけていましたが、もうそういうことは無くなってきています。
*そうですね。あの頃の日本人は鼻息が荒かったですからね。ところでお子さんは3人とおっしゃいましたが、皆、オーストラリアの学校教育を受けて育ったのですか。

ええ、長男、長女が幼稚園児、そして次男が10ヶ月の時に連れて来ましたので、最初からオーストラリアの学校に入りました。

*お父さんから見て、お子さんは日本的なものとオーストラリア的なものとどちらが強いですか?
ずっとオーストラリアの学校教育を受けて育ってきていますので、友だちもオーストラリア人ですし、新聞テレビも英語ですし、非常にオーストラリア的ですね。ただ、三人ともメルボルン国際日本語学校に中学生まで通わせましたし、親子の会話は日本語で不自由しません。私たちはここに永住するつもりで来ていますから、基本的には、日本にいるおばあちゃんたちと電話で話せるくらいの日本語ができれば良い、と考えていました。ただ、今から思うと、両親が日本人で国籍も日本なのに日本語が少しヘンになっているとしたら、ちょっとかわいそうかな、と感じることもありますが。
*でもバイリンガルで両方完璧というのは無理ではないですか?そんな人あまりいないと思いますよ。これからはやはり英語がきちんとできる方がいいですよね。
まあ、そうでしょうね。長男も今年25歳になりまして仕事をしていますし、長女は大学の最後の年、次男は大学2年生なので、子育てもほぼ終わって、親としての義務も終わりつつある、と思っています。
*それでは、これからは時間をご自分のお好きなことに使えますね。オーストラリア人はリタイヤーを楽しみにしている人が多いですが、リタイヤーなども考えていらっしゃいますか?

今は60歳といっても昔の50歳くらいの感じですよね。健康のためにも働けるうちは現役で働いた方がいいのではないかと思っています。やはり少なくとも65歳くらいまでは頑張っていたいですね。

*また野球のコーチも始められますか? これから10年もしたら、お孫さんのコーチをするチャンスに恵まれるかもしれませんね。
そうできたらいいですね。そしたらお世話になったホストファミリーと同じ、親子3代で一緒のチームでプレーできるかもしれませんね。現在は一番下の5軍で現役でやっていますが、怪我をしてここ2週間くらい休んでいます。
*ぜひ早く怪我を治されて、野球を再開してください。
はい。それから最後に、今年のジャパンフェスティバルは、5月21日(日)に Box Hill Town Hall で行われますので、今年もたくさんのひとたちにご来場いただきたいと願っています。

それでは、今日はお忙しいところ、お時間を割いて興味深いお話をしていただき、ありがとうございました。


インタビュー:スピアーズ洋子

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