Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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インタビュー (49)    足立良子                                
  
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。今月は昨年「Shadows of War」というタイトルで、太平洋戦争中に日本軍の捕虜となった豪州兵の体験を本にされた足立良子さんにお話を伺いました。
 
*オーストラリアにはいつ頃いらしたのですか?

1973年です。その前に1年間ニュージーランドのハイスクールで日本語を教えていました。その後、日本に帰る途中にオーストラリアは近いので寄って行こうと思って、旅行に来たのですが、その時にオーストラリアが好きになってしまって居座ってしまった、という感じですね。幸いニュージーランドのワーキングビザを持っていたので、オーストラリアでも自動的にワーキングビザがとれて仕事ができました。

*どんなお仕事をされたのですか、やはり日本語の先生を?

最初は知り合いもツテもなかったのでリクルートのエージェントに行きました。そこから派遣されてタイピストなどの仕事をしましたが、一度はお茶の給仕の仕事も。当時はまだテータイムが大切にされていて、1日に2回午前と午後にきちんと職員にお茶を出すという習慣があって、それを専門にする職業がありました。

*ティーレディですね。
そう、そのテーレデーの仕事が2週間あるけれどやってみるか、とエージェントから言われました。“Why not?” と思って、「はい、やります」。そこは社員が200人くらいの電気製品の会社で、いつも働いているテーレデーの1人が2週間の休みを取るので、その間、私がピンチヒッターとして雇われたのです。最初の1日は、予行演習としてテータイムにそのテーレデーと一緒にトローリーを押して回ったのですが、その人はやはり専門家だけあって、誰がテー、誰がコーヒー、誰がミルクを入れる、入れない、お砂糖はいくつ、と全部知っているんです。いやー、これはどうなるんだろう、と心配しました。さあ翌日、私だけの本番になりました。テー、コーヒーの入ったタンクみたいな容器、カップや受け皿、ミルクやお砂糖を載せたトローリーを押して部屋に入って行ったら、社員がどっと私のところに来て、後は自分たちでやるから、あなたはそこに座ってなさい、と言うんです。そうですか、と言って見ていたら、みんなそれぞれに自分でお茶やコーヒーを入れて、課長や部長さんの分は秘書が入れて、自分の分と2人前持って行ってくれました。そして1時間ぐらい後にカップや受け皿を取りに戻ったら、それが全部一箇所にまとめて置いてありました。その前の日にはテーレデーがデスクを回って集めていたんですけれど、素人の私のためにそうしてくれていたんですね。その時は、この国の人は何て親切なんだろう、と感激しました。
*では初めからすべて順調で。

いいえ、エージェントを通した仕事で1週間するつもりが1日で首になったこともありました。法律事務所で封筒に宛名をタイプする仕事だったのですが、その宛名のリストが手書きだったのです。読めないし、セントキルダなんか St. Kとしか書いてないんですよ。今ならメルウェイのインデックスを見ればいいと分かりますが、来たばかりで見当もつかない時だったので無理でした。1日で、もういい、って言われました。それからメルボルンでは最初セントキルダに住んだので、その辺り一帯の学校に、「ニュージーランドで日本語を教えていましたが、そちらで日本語を教える機会はありませんか?」という内容の手紙を出しました。そしたら手紙を出したすべての学校が返事をくれました。全部断りだったのですが。現在は残念だが日本語を教えていない、とか、将来教科に入れるようになったら頼むかもしれない、とか。断られたにしても、全部から返事が来たということに好感がもてて、やっぱりオーストラリアはいい国なんだな、と思いました。そのうちに日本語を教える仕事の声が掛かるようになって、ハイスクールで教えたりもしました。

*日本語を教えた他にジャーナリストのお仕事もされて、本も出されていますね。

ええ、その頃はまだオーストラリアに関する情報はほとんどが経済とか産業とか専門分野のもので、一般的情報は少なかったですね。日本でオーストラリアというと単にカンガルーの国、羊の国、鉄鉱石の国、と見られていた頃ですから。それで、専門的なものではなくて私のような一般人が見たオーストラリアを日本の人たちに知らせたいな、という気持ちは、この国に住みたいと思った時から持っていました。でもまずは、オーストラリアの新聞に「日本人が見たオーストラリア」というのを何回か書いたんです。そしたらそれを読んだラジオ・オーストラリアの人から、うちの日本語課で働かないか、と声が掛かり、「良子のオーストラリア便り」という週番組を持たせてもらいました。と同時に日本からは、ジャパンタイムズが発行していたスチューデントタイムズという海外に興味を持っている若者向けの新聞なんですが、そこからオーストラリアについて書かないか、と言われて書き出しました。それを集めて、1979年「女が見たオーストラリア」という単行本になりました。

するとそれがオーストラリアについて書かれた最初の一般的な本ということになるわけですね。それでその後はずっとジャーナリスティックなお仕事をされてこられたのですか?
一般的な本の最初かどうかは分かりません。最初の本の1冊に入るとは思いますが。で、その後ですが、フリーランスの物書きで食べていくのは本当に大変なんです。日本のある新聞の論説委員から、読者はセンセーショナルな話を求めていてオーストラリアは平和すぎる、とはっきり言われました。知人からは、ニューヨークからだったらいくらでも君の書いたものを買ってあげられるけれど、オーストラリアじゃなー、とも言われました。そういうわけで発表の場がなかなかないので、食べていくために通訳、翻訳、パートタイムの日本語教師などをしました。でも、どの仕事も好きだったし、レポーター業に役立ったから、やり甲斐がありました。
*それで今回はご主人でジャーナリストの Andrew McKay さんと共著で「Shadows of War」という本を出されましたが、出版の動機はどんなことから?
1980年代の中ごろから日豪関係が急速に良くなってきました。経済面だけではなく、日本語教育が盛んになってきたし、日本食レストランがわっと増えてきたし、観光客、ハネムーン族、ワーキング・ホリデー族の来訪とか、学生交換、姉妹都市の結成とか、文化的、人的にも両国間の友好が見られ、いい線をいってるな、と思いました。でも、その陰に太平洋戦争に起因する反日感情、反日とまでいかなくても日本に対する複雑な感情のあるのが感じられました。個人のレベルで言えば、お互いに相手の真の気持ちが分からなければ親友になれませんよね。国のレベルでも同じで、真の友好的な日豪関係を望むなら、お互いに本心を知り合わなくてはいけない、それには、まずオーストラリア人の本心を知りたいと思うようになったのです。とは言っても、長い間具体的には何もしませんでしたけれど・・・
*その反日感情はいらした当初から感じられましたか?
1973年に来た当初から、アンザックデーには日本人は家に隠れているように、と言われていました。80年代に入ってからもそうでしたし、ブルース・ラクストンさんというRSL(退役軍人会)のビクトリア州会長は、事あるごとに反日感情を剥き出しにして、それが新聞、ラジオ、テレビでよく取り上げられていました。ラクストンさんだけではなく、昭和天皇が亡くなった時とか終戦50周年とかの節目に、普段は隠している感情を吐き出したり謝罪・補償を云々する向きもありましたし・・・70年代よりも80年代、90年代の方が、日豪間の貿易や文化交流がこんなにも盛んなのに、とむしろ余計に太平洋戦争に起因する反日感情が気になっていました。
*そうですね。オーストラリアに在住している日本人は、親日的なオーストラリア人と接する機会が多いから、今のオーストラリア人は友好的だと思いがちですが、反日とまでは言わなくても、日本に対する不信感みたいなものが常にどこかにある、というのは感じられますね。メディアの記事や取り上げ方にしても。昭和天皇崩御の時は、昭和天皇の戦争責任がむしかえされて問題にされましたしね。
外の例では、1997年に姉妹都市関係にあるキャンベラと奈良の友好を祝う公園がキャンベラにできたのですが、RSLはキャンベラ・奈良平和公園と名付けるのに大反対。日本は正式に謝罪をしていないのだから、平和という語はふさわしくない、取り除け、と言い張って、その主張を通らせてしまいました。だから公園の名前はキャンベラ・奈良公園になっています。私はRSLを非難するつもりはありません。タイ=ビルマ鉄道での過酷な使役、サンダカンの死の行進、バンカ島の看護婦虐殺など、日本軍がオーストラリア人戦争捕虜に働いた残虐行為について聞いたり読んだりしたら、これが日豪関係に影響を及ぼさないということがあるだろうか、と考えざるを得なくなります。果たして、オーストラリア人は日本を、そして日本人を許してくれているのだろうか、戦争は過去のことになったといえるだろうか、今の日本、日本人をどのようにみているのだろうか、といった疑問も持たざるを得なくなります。それで、やっと自分で調べる気になったのですが、一人でするには荷が勝ち過ぎる。オーストラリア人の夫に話したら、うん、悪くはないアイデアだから一緒にやってもいいよ、と言ってくれました。日本軍と戦った元兵士、元戦争捕虜、その家族にインタビューをし始めたりアンケート用紙を送ったのは2000年です。
*2000年に手をつけ始めて出版されたのが、2005年、完成に5年かかったのですね。
余りにも長過ぎて恥ずかしいのですが、途中でこんなことをやってどうなるのだろう、という思いに何度も襲われて・・・
*それはどうしてですか?
オーストラリア人の真の声を日本人に聞いてもらいたい、と思って始めたことなのですが、日本は、それこそ「新しい歴史教科書」が出るような時世で、太平洋戦争史の暗い面は隠そう隠そうという傾向にありますでしょ。そんな時にこういう本を書いても出版されないだろう、と何人もの日本人に警告されました。それで、まずは英語版を出してもらったのですが、日本人に読んでもらうために日本語版もぜひ出させてほしいと願っています。
*そうでしたか。教科書問題というのも難しいですよね。どこの国でも自国のやった悪事や不利なことは書いてないんですよね。以前まだイギリスでも反日感情が強かった頃にイギリスにいたことがあって、そのころイギリスの中学生の歴史の教科書をみたことがあるのですが、イギリスが使ったアヘン戦争の汚い手口とか、どうやって香港を分捕ったなんてことには全然ふれていなかったですね。植民地にしても、むしろ未開の国に自分たちが文明をもたらした、キリスト教を教えてやった、というような書き方ですよね。それをみて、あなたの国が日本の教科書を非難できるの?と感じたことがありますが。
そうですね。歴史は常に勝者によって書かれてきましたからね。戦争に負けた日本人が見る歴史は違うかもしれないし、日本人として言いたいこともたくさんあると思うんですよ。広島・長崎の原爆投下を初めとして・・・日本はこれからも世界にノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキとアピールしていくべきですが、その際、日本は加害国としてこういうことをしたのだ、という認識があった方がいい、加害国としての部分を伏せておいてノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキと言っても、世界に向けての説得力は弱い、と私は思うんです。他の国はともかくとしても、日本軍のやった悪いことは認めるべきじゃないでしょうか。
*それはそうですね。日本では東京大空襲とか、ヒロシマ、ナガサキで酷い目に会ったということは知られていても、日本軍が海外でいったいどんなことをしていたのか、ということについては国内の人は意外に知りませんからね。
そう、日本人にとって太平洋戦争といえば、真珠湾を奇襲攻撃して、アメリカと戦って、東京大空襲に遭い、広島・長崎に原爆を落されて無条件降伏した、ということでしょう。ところがオーストラリア人にとっては、日本軍に65回もダーウーンを空襲されて日本に侵略されるという恐怖におびえたことであり、ポートモレスビーの占領を図った日本軍の進撃をオーストラリア軍がココダ・トレイルとミルン・ベイで食い止めて、日本のオーストラリア本土侵略という大危機から自国を守ったことなんです。さらに、マライ半島に送られていたオーストラリア兵が捕虜として捕らえられ、日本軍の残虐行為を受けたことなんです。日本がオーストラリアと戦ったということさえ日本人の多くは知らないようですが、オーストラリア人はみんなちゃんと知っています。
*そう、そのギャップは大きいですね。
それから、オーストラリア社会に残る反日感情は、戦争犠牲者と共に、これから何年か後に消えるでしょうけれど、太平洋戦争の歴史がオーストラリア人の記憶から消え失せることはないでしょう。というのは、オーストラリアでは、今国民が享受している自由と平和は自分の身を犠牲にして雄々しく戦ってくれた兵士のおかげであることを忘れないようにと、毎年、さまざまな全国的追悼・記念式典の日があります。アンザックデーとか、9月第一水曜日のオーストラリアを守るための戦い記念日とか。この式典に若い人たちの参列が年々増えているんです。この人たちが、追悼や記念の意義を学ぶ時、日本軍の捕虜に対する残虐行為を習わないわけはないでしょう。それに歴史教育が盛んになってきて、ビクトリア州では、どの子も学校教育を受ける間に少なくとも2回は戦没者慰霊堂(Shrine of Remembrance)に行くようにという教育要綱ができて、地方からも政府が交通費負担のバスに乗って来ています。また、キャンベラにある国立戦争博物館にも毎日どこかの学校の生徒が見学に来ていると聞いています。そのほか、連邦国家成立100周年の2001年や終戦60周年の去年は、太平洋戦争のドキュメンタリーやドラマが次から次へとテレビで放映されて、広く国民に知らされました。中には「チャンギ」のような作り話もありましたが。
*そうですか。でもオーストラリアがいつも正義の戦争をしてきたわけではないですよね。ベトナム戦争ではアメリカ、オーストラリアは侵略、加害国ですし、彼らがベトナムでやったことはずいぶん酷い。捕虜や一般人を虐殺しているし、ナパーム弾だとか枯葉作戦だとか、それによって奇形児が生まれたことなどは教えているのかしら。どこの国も自国の都合の良いプロパガンダが多いから、国民はまず自国の政府にだまされて扇動されないように注意が必要ですね。現在のイラク戦争でも、大量殺戮兵器を保有している、とか。実直そうなパウエル長官にサテライト写真を見せられて、ここに貯蔵されていてトラックが出入りしている、なんてテレビで説明されたり、ブレア首相にヨーロッパは3時間以内にやられる可能性がある、なんてあの調子で確信的に言われて。あれだけメディアであおられると、普通の人はふーん、そうか、と思ってしまいますよね。でもあれって、全部うそというか間違っていたわけですよね。
そうですね。事実はどうなんだろう、と探求する心構えがみんなに要求されている、と思わせられますね。それで「チャンギ」なんですが、あの連続ドラマをご覧になりましたか?
*いいえ、予告編だけでどんな内容かわかりますから、観る気になれなくて。
あれはチャンギ捕虜収容所を舞台に、あそこで日本兵がどんな残虐行為を働いたか、その残虐行為にオーストラリア兵がいかにメイトシップで支え合って耐えたか、というストーリーになっています。ところが実際には、チャンギではああいうことは起こっていません。チャンギ収容所は連合軍の士官によって統率されていたし、監視員の多くは朝鮮人で、日本兵は余りいなかったはずです。だから、あそこで日本兵が残虐行為を働いたというのはうそなんです。で、オーストラリア人の戦争歴史家が新聞で叩いたり、私の夫も作者に手紙を出したりしました。非難の声が上がったら、その作者は認めました。あれはアンボンとかチモールとかタイ=ビルマ鉄道とか、各地で日本兵がどんなに残虐だったかという話を集めて、チャンギという舞台にのせたのだ、と。だったら、チャンギという名前を使わずに「捕虜収容所」というタイトルにするべきですよね。歴史を知らない人は、それこそプロパガンダではないけれど、日本軍はチャンギであんなことをしたのか、と思ってしまいます。こういう、日本人にとって心外な時には、はっきりと異議を唱えられるようになるためにも、もちろん日本軍によって受けたオーストラリア人の痛みを理解するためにも、日本人は、特にオーストラリアに住んだり、来ようとする外交官、ビジネスマン、学生たちは、一人一人、太平洋戦争の史実について学ぶべきだと思います。私自身もまだまだ知らないことがたくさんあるから、大きな口は利けませんが。こう言うとすぐに日本では、自虐的だとか日本人としての誇りを失わせるとか非難されますが、日本人が接するオーストラリア人はよく知っているのですから、何も知らないという方が恥ずかしいし、事実をオーストラリア人から知らされたときの方が、誇りを失うのではないでしょうか。アンケートに答えてくださったオーストラリア人も、口々に、日本人に太平洋戦争の史実を全面的に認識してもらいたいと言っています。
*この本は日本軍の捕虜になった人または日本軍と関わらざるを得なかった人を対象にしたアンケートとインタビューをもとに、足立さんと Mckay さんで編集、構成、執筆という形になっていますが、対象が対象だけにアンケートやインタビューが難しかったということはありますか?
私の方は、ジャップ呼ばわりされても罵倒されても受け止める覚悟をしていたのですが、皆さんよく協力してくださいました。インタビューされた人の方が、日本人に根掘り葉掘り聞かれてつらかったのではないでしょうか。アンケートの回答者は多くが高齢者で、病院から退院したばかりだとか、中風で手が震えるとか・・・それと分かる筆跡もたくさんありました。自分の体験や気持ちを表すチャンスをありがとう、とわざわざ言ってくださった方もいらっしゃいます。全部で178人の方から回答を頂いたのですが、本に載せたのは3分の1くらいで、載せた人の話もずいぶんカットしました。でも、回答者全部の声をカットなしで一冊の本にまとめて残したい、と目下、夫と二人三脚で編集中です。
*それは貴重な時代の証言ですものね。

それが、私たちに協力して心の声を聞かせてくださった方々へのせめてものお礼だと思います。そんなものを本にしても売れないよ、とすでに言われていますが・・・

*でも、日本軍から残虐行為をされた捕虜たちの証言をまとめて残す、ということを日本人がする、ということに意義があると思いますよ。ただ、最近、残虐ということで考えさせられるのは、話が少しそれますが、イラクでは人質をとって首を切ったりしていますね。あれはもの凄く野蛮で残虐な行為で非難されています。もちろんそうなのですが、ではボタンを押してミサイルを撃ち込むのは残虐ではないのか、ということなんですね。最新の技術を駆使したミサイルが目的地点に落下するのを、命中、やった、と居間のテレビで観ているわけでしょ。これって凄く怖ろしいことですよね。
そうですね。東京大空襲や広島・長崎の原爆投下も抵抗できない市民に対する残虐行為。抵抗できなくなったオーストラリア人捕虜に日本軍が加えた暴行や拷問も残虐行為。戦争には残虐行為が付き物、と言ってしまえば簡単だけれど、無防備の人に対してするのは犯罪でしょう。
*オーストラリア側も無抵抗な捕虜に残虐行為をした、ということを一番怒っているようで、反日感情や不信の根もそこにあるようですね。
ええ、戦場で弾に当たって顔をメチャメチャにつぶされた元兵士にも会いましたが、その人は負傷したことについて日本兵を非難するつもりはない、と言っていました。お互いに殺すか殺されるかの戦争だったのだから、と。今でも残る反日感情や不信の根が戦時中の残虐行為にあるのは確かですが、その残虐行為が日本で認識されていないということも反日感情がなくならない理由になっています。
*捕虜虐待はあれから60年たった現在でも無くなっていませんね。アメリカがイラク戦争の捕虜に対してやっていることは、心理的に一生立ち直れないようなひどい虐待で、もっと非難の声が世界から上がってもいいと思うのですが。
残虐行為の傷跡がなかなか消えないのは、元日本軍捕虜だった方たちからも痛感させられました。今でも当人が癒されない心のために苦しんでいるだけではなく、その家族も、夫あるいは父親の滅入っている姿に自分まで憂鬱になったり、思わぬ時に八つ当たりされたりして苦しんでいます。さっきも言ったように、無防備の人に対する残虐行為は、ほんと、大犯罪だと思います。一方、元日本軍捕虜だった人の中で、言語に絶するひどい拷問を受けたのに、日本人を許している、日本に旅行して楽しい思いをした、と言う方もいらっしゃるんです。こういう方には頭が下がります。
話を「Shadows of War」に戻しますと、もっともだ、と思う部分と反撥したくなる部分もいくらかあったのですが、とても感動したのは、やはり最後の To the Future の章で、オーストラリアの Mentone Grammar School と日本の名古屋学院高校の生徒が、ニューギニアの激戦地であったココダトレイルを一緒に歩くところ。これは表紙にもなっていますが、本当に素晴らしい試みですね。
ええ、心を打たれますね。あの若者たちはあの時、歩く苦しみを共にしただけでなく過去の歴史も共有したわけですから、本当の意味で親密になれたと思います。理想的な日豪関係の象徴のようです。こういう試みがもっともっとあればいいのに、と思いますね。
*今年は日豪友好協力基本条約30周年ということで、日豪交流年としていろいろな催しが企画されています。過去の歴史をきちんと理解し踏まえた上で、次の世代がそれを乗り越えていく、というような企画がたくさんあるといいのですが。自戒も含めての思いですが、やはり過去の歴史をよく理解していないと、ああいう素晴らしいアイデアはなかなか出てこないですね。今日はお忙しいところ、貴重なお話をしていただきありがとうございました。

インタビュー:スピアーズ洋子


Shadows of War」(戦争の影)に関する特別セミナー

スピーカー:足立良子とアンドリュー・マカイ
日時:2006年3月10日(金)、午後3時
場所:
Auditorium, Japanese Studies Centre, Monash University, Clayton Campus
連絡先:
radachi@netspace.net.au         amckay@netspace.net.au                japanese.studies.centre@arts.monash.edu.au

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