インタビュー (50) デイビース洋子 |
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。今月は、SBSラジオ日本語放送で長年活躍してこられたデイビース洋子さんにお話をうかがいました。 |
*週に1度デイビース洋子さんの声を聞くのを楽しみにしていた方がたくさんおられると思いますが、SBSの日本語放送が始まったのはいつですか? |
1981年です。それまで他のエスニック言語の放送はたくさんあったのに、どうして日本語放送はないのか、ということで日本語放送もして欲しい、という働きかけがあったようです。それで日本語放送のスタッフの公募がありました。8人か9人の応募があったらしいですが、幸いにも私ともう一人の方が篩いにひっかかったようです。ラジオ放送は全く経験がなかったのですが、最初はこの方と2人体制で番組を始めました。1992年からは、基本的には一人で担当することになりました。
*それではSBS日本語ラジオ放送のスタートからずっと関わってこられたのですね。それでSBSの前は何かお仕事をしていらしたのですか? 結婚する前は銀行で働いていました。*それではオーストラリアに住むことになったきっかけなど、最初から伺わせてください。 日本では日本勧業銀行に勤めていました。少々事情があって全日制の大学に行けなかったものですから、昼間銀行で働いて夜学に通学していました。その時に出会ったアメリカ人の英語の講師の方が、「これからの女性は海外へ羽ばたかなければいけない。結婚する前に世界を見なさい」と、しきりにおっしゃっていました。それに感化されて、私たち5人仲間のグループがいたのですが、「海外に出なくてはね」と話していました。その頃オーストラリア人の老夫婦と知り合って、その方と文通を始めました。それである時、自分は海外に行きたいと思っていて、オーストラリアにも行ってみたい、と手紙に書きました。そうしましたら、「いらっしゃい」、と言ってくださったのです。英語の講師の先生がアメリカ人だったので、初めはアメリカに行きたいと思っていましたが、アメリカには知り合いがいないので、どこか他の英語圏でもいいと、思っていたところ、この老夫婦が「いらっしゃい」といってくださったので、オーストラリアに来ることになりました。その老夫婦の方が、お知り合いを紹介してくださって、私はそちらに泊めていただきました。その方とは、私の「オーストラリアのお母さん」、といっていいほど親しくなりました。その方が、「せっかくオーストラリアに来て、ただ遊んで帰るのはもったいないから、私がスポンサーになってあげるから1年間勉強していきなさい」といってくれたんですよ。それで1年間滞在しました。 |
*それはいつ頃のことですか? |
確か1967年だったかしら。 |
*まあ、そんなに前にいらしたのですか。その頃は日本人は少なかったでしょう。 |
メルボルンにいらしたのは、ほとんどが商社系の方々だったと記憶しています。勉強の方は日本に帰ってから速記ができれば、外資系の企業に就職するのに役立つだろうと考えて、速記のコースをとりました。 |
*英語の勉強ではなくて速記を! それは凄い! |
ええ、英語の方もままならないのに速記を始めたものですから、もう本当に大変な思いをして1年間続けました。そのおかげで聴き取りの方は早く上達しました。話が少し戻りますが、日本では銀行の外国部で働いていたので、上司が、辞める時にメルボルンに行ったら訪ねなさい、といってメルボルンの銀行(NAB)の方に紹介状を送ってくれました。メルボルンに着いた時には、その銀行の方からの手紙が届いていました。そしてお昼に誘ってくださいました。この銀行の方との面会が、再び私がメルボルンに来るきっかけになりました。1年間速記を学んで帰国し、職探しをしていた時に、メルボルンの銀行から会長、頭取、外国部特設日本課の課長が仕事で日本にいらして、3週間滞在中に仕事のお手伝いをさせていただきました。その時に、メルボルンの銀行の国際部に日本課を設けるが、日本語の解かる秘書を探している。この来日で秘書を公募することになっているが、あなたさえ良ければメルボルンの銀行で働いてみないか、といわれました。それがオーストラリアにもう一度くることになった理由ですね。その後も、もっと勉強したい、という意欲があったのでメルボルンで通訳・翻訳コースを取って勉強しました。SBSに入ってからはエスニック・メディアのコースを大学で勉強しました。 |
*とても努力家でいらっしゃるのですね。 |
うーん。なんというか、負けず嫌い。オーストラリアでの長い生活が平穏無事だった、というわけではなかったのですが、その間の人との出会いが、いつも良い方に動いてくれて、プラスをもたらしてくれました。ラッキーな人間なんですかね。 |
*それはやはりデイビース洋子さんのお人柄ですよね。一つの出会いが良い方に発展していくというのも。その頃はちょうど日本企業の海外進出が始まった頃ですね。日本人の女性でメルボルンで仕事をされていた人は他にいましたか? |
オーストラリアの企業に日本からきた日本女性が正式に就職する、というのは私が初めてだったようです。ビザを初め何から何まで、そういう法律や事務的な手続きは全部銀行の方でしてくれました。 |
*永住されるつもりでいらしたのですか? |
いいえ、3年契約でしたので3年経ったら日本に帰るつもりでした。というのは最初家族に反対されましたので。婚期もずれると言われましたが、それを3年間だから、ということで自分の力を試したい、といって説得してしぶしぶ認めてもらった、という経緯だったのです。それで正式に豪州行きが決まってから、本当に珍しい例だったのでしょうね。在日オーストラリア大使が東京の大使館に招待してくださって、「日本女性がビジネスビザでオーストラリアに仕事をしに行く、というのはあなたが最初ですから、頑張ってください」、といった激励をいただきました。私も「オーストラリアで仕事をする最初の日本女性として、恥ずかしくないような仕事をしてまいります」みたいな返事をしたような気がするんですよ。 |
*あの頃海外に出た方は、留学にしろ仕事にしろ、自分が日本を代表しているような全権大使のような気分にさせられたでしょうね。なにしろ周りに自分しか日本人がいないし、海外には日本に関する情報なんてほとんどなかったので、日本についていろいろ質問してきたりするし。それで3年が30年以上になったのは、また出会いがあって結婚されたからですか? |
ええ、夫との出会いは、最初にオーストラリアに来た時で、でも当時はただの友達で私が帰国してからは、時々文通をしていたくらいでした。2度目に3年間滞在した時もグループでどこかに行ったり、という程度でした。それで3年が終わる少し前に、せっかくオーストラリアに来たのだからオーストラリアを見て行った方がいいのではないか、と誘われて一緒にサファリツアーに参加しました。そのサファリツアーというのは3週間の団体のバスツアーでした。その団体というのが男性が6人で、そのうちのお一人は70何歳の方、一方、女性は20何人でした。ある病院の看護婦さんのグループが団体で参加していたので、そういう人員構成になったのですが。私たち女性は、これでは男性の取り合いになるわね、と冗談をいいながら、旅行中の力仕事は全部男性にまかせて、とても楽しいサファリツアーでした。当時はまだダーウインからアリススプリングス、エアーズロックの道は舗装されていませんでした。トイレもなくてバスが停まると、ドライバー兼ツアーキャプテンが「はい、女性は左、男性は右側」といって、男女左右に分かれて用を足しに行った時代でした。 |
*では、大の方の時はシャベルを持って行って穴を掘って、という本格的なブッシュのキャンプスタイルですね。 |
そう、あの草むらの陰でしなさい、とかいわれて、本当に大変な思いをしました。でも、とても貴重な体験で、あの時やっておいて本当に良かった、と思います。いまではもうとてもできないですね。それと今では、主な観光ルートになっている道は舗装されていますし、もうずいぶん変わっています。ところで話がちょっと飛んでしまうのですが、昨年、夫と2人で約3ヶ月かけて4輪駆動車でオーストラリア一周旅行をしてきました。ケアンズからブルームまで東から西へ横断ドライブ。ノーマントンという田舎町からスチャート・ハイウェイにぶつかるダーリー・ウオータースまでは、サバナウェイ/カーペンタリア・ハイウェイを走りました。この区間はまだ舗装されていませんでした。別に舗装された道路(マウント・アイザ経由)もあるのですが、どうせだから昔の人が通った道を行こう、ということになって、夫と二人で2日間赤土が舞い上がる、もう凄い砂埃の道路を走りました。砂が皮膚の毛穴に入り込んで、閉口しました。 |
*そうですか。ではそのサファリツアーがロマンスの始まりになったのですね。 |
まあ、そういうことになるのかな。そうですね、それから将来のことを真剣に考えるようになって、結婚したのは最初の出会いから4ほど後です。 |
*ご家族の反対などありませんでしたか? |
ありました。勘当寸前でした。当時はまだ今の様な世界の交流がなくて閉ざされていましたから、国際結婚というのはあまり聞かなかったし、危ない賭け、のようなものでしたから猛反対されました。でも彼とは4年間つきあった上で、この人とだったら一生一緒に暮らしていける、と思いましたから、私の方も頑固に自分の意志を通して、親を説き伏せました。彼は仕事で日本に行くチャンスがあって、その時に家族に会ってくれました。私の友達を通訳に頼んで、親にあってくれたものですから、その時点で少し家族の態度が和んだみたいですね。 |
*1960年代でオーストラリアでお仕事をなさったこと、また当時国際結婚をされたことといい、先駆者ですね。 |
国際結婚の場合は、私の前に戦争花嫁の方々がたくさんいらして、いい意味での日本女性という地盤をつくってくださっていたから、次の私たちの世代は楽だったと思います。あの方たちが経験された苦労、というのはしないで済んだ、ということはありますね。ただ最初に来た時からお世話してくださった、私が「オーストラリアのお母さん」、と呼んでいる方から、アンザックデーだけは外に出ないでね、といわれました。オーストラリアに来て4、5年の間はアンザックデーの日は外出しませんでした。日本軍に対する恨みを持っている人がまだたくさんいて、お酒が入ったりしたら、何が起こるか予測がつかないので、この日だけは家にいなさい、といわれましたので。 |
*太平洋戦争で日本軍がオーストラリア兵の捕虜たちに行った残虐行為は、いつまでも尾を引いていますね。オーストラリアに来る日本人は日豪間で戦争があったことすら、今では知らない人が多いのですが。それで結婚されてからお仕事の方は? |
私、子供は自分の手で育てたい、と思っていましたから、末の子が学齢期になるまでの約7年間は仕事をしませんでした。ただ、その間に通訳とか翻訳など頼まれて、時々は家でできる仕事をしていました。家で子育てをしていても、それだけに専念するのではなくて、社会とのつながりを保っていたかったので。私はとても運が良くて、SBSの仕事もタイミング良く、末の子がプレップに入った時に募集の広告がでたんですよ。仕事もパートタイムでしたし、そろそろ社会復帰したい、と思っていましたので、その足場になると思って応募したのです。 |
*パートタイムとはいっても、例え1時間の放送時間にしても、準備が大変でしょうね。 |
そうなんです。ほとんどフルタイムと同じような時間帯で仕事をしてきました。でも、人との出会いとか、仕事が楽しかったから苦になりませんでした。同僚たちも、みなさんとても良い方たちばかりで幸いでした。時間に制約なく仕事ができたので、時間をかけて仕事をしたい場合には時間をたっぷりかけることができましたし。 |
*それで最初の放送はどのようなものでしたか? |
最初は30分だったんです。ニュースなどは全然なくてコミュニティの情報、メルボルンの情報を集めて、音楽も2曲ぐらい入れて、という感じで放送していました。最初はメルボルンだけだったのですが、メルボルンとシドニーというようにだんだんと広がっていって、1992年に全国ネットになりました。 |
*日本人が少なくて日本語の情報が手に入りにくい所に住んでいらっしゃる方にとっては、頼もしい存在ですね。 |
ただ日本人コミュニティは出入りが激しくて、人がいつも入れ替わっていますから、今でも新しく来た方で、日本語放送なんてあったの、とおっしゃるかたがいます。だから、いかに多くの方にSBS日本語放送の存在を知っていただくか、ということを、いつも心にかけていました。 |
*放送が始まったのが1981年でしたか?約25年経ったわけですが、その間に色々なことがずいぶん変わったと思うのですが、視聴者の私たち在豪日本人でいうと、何が変わったと思われますか? |
まずオーストラリアに来られる方の年齢層がかわりましたね。以前は駐在というと中年の方が多かったのですが、今は20代の方も増えてきています。それと留学生やワーキングホリデーで来られる方たちの数がもの凄くふえましたね。 |
*それは国際化ということで英語を勉強しなければならない、ということなのかしら。日本で登校拒否とか受験に失敗という学生を、親が世間体をはばかってオーストラリアに留学という形で送リ出す、という話も聞きましたが、そういうことも留学生の人数に関係ありますか? |
それもあるでしょうね。 |
*それだけ日本が経済的に豊かになった、ということなんでしょうね。私の頃は、親がお金を出して送り出すなんてことは考えられなかったですね。反対されるのが関の山で。 |
そうですね。人間、だめ!といわれると、逆らいたくなるし、できない、といわれると、やってみる!と思いますからね。私にとっては、最初は反対されたのが良かったと思います。末っ子で甘えん坊のところがあったので、海外に行ってもすぐ帰ってくるだろう、と親は思っていたらしいのですね。それが解かっていたから、ここでくじけてはいけない、と意地になっていたところもありました。本当に初めのうちは、オーストラリアの生活で辛いがための涙もずいぶん流しましたから。でも、全てが良い方に流れていってくれました。 |
*それで、SBSラジオ放送の他にホープコネクションというボランティア活動もされていますね。どのような内容のものですか? |
短期、長期に限らず日本からいらした方々がすんなりとここでの生活にはいっていけるよう、そのための情報などを提供しています。豆知識を提供するカルチャースクール、電話相談は匿名で受けています。草の根の活動です。電話相談はオーストラリアではホープコネクションが一番最初に始めたんだと思います。 |
*それは、そういう必要性をデイビースさんが感じたから始められたのですか? |
いいえ、私が発足させたわけではありません。そもそもの始まりは、沖縄琉球大学の精神科医の山本先生という方がメルボルンに来られていて、お帰りになる時に、何らかの形で日本人の方たちをサポートできるようなグループがあるといいですね、とおっしゃったのです。当時、山本先生を中心に話し合いなどの会合を持っていた10人ぐらいのグループがあって、山本先生がお帰りになった後でも、グループを解散しないで続けていきましょう、ということになり、ホープコネクションが発足したのです。グループの活動を登録したりする必要があって、会長、副会長、書記、会計を決めなければならない、ということで数年後に、たまたま私が会長を仰せ付かった、ということなのです。でも便宜上であって、みんなで協力しながら仕事を振り分けて活動しています。 |
*では当時から短期に滞在された山本先生も含めて、グループのみなさんが、ホープコネクションのようなものが必要だと感じていたわけですね。発足したのはいつでしたか? |
非営利団体として正式に登録したのが1995年ですから、今年でちょうど10周年になります。フルタイム、パートタイムでお仕事をしていらっしゃる方、専門職の方、学生さん、いろいろな方が100%ボランティアで、それこそ手弁当で参加して下さっています。初めのうちは電話相談が多かったのですが、現在はEメールでの相談が増えてきています。 |
*どのような相談事が多いですか? |
やはり時代の流れというか、どんどん変わっています。今は国際結婚が増えてきていて、国際結婚に関しての相談が多いですね。 |
*それは国際結婚をする段階での相談ですか、それとも結婚してからの? |
結婚してからの相談事が多いですね。私たちはそういう問題での専門家ではないので、こういう場合は、こういうところがある、この場合はこちらなら無料でアドバイスが受けられますよ、というようなことを教えてさしあげる、といったようなことをしています。八方ふさがりという感じで悩んでいた方に、糸口になる情報を提供して差し上げる、ということですね。人によっては第三者に思い切り話した、というだけで少し気分がすっきりしました、という方もいます。 |
*外国で親戚や友人、知人、ぐちをこぼせる相手がそばにいるわけではないですからね。そういうサポートのシステムがあるということは心強いことですね。ボランティアの方はいろいろと大変でしょうけれど、訓練などもあるのですか? |
ええ、もちろん。皆さん、相談内容については絶対に口外されません。 |
*デービスさんが初めてメルボルンにいらした頃と比べると、今では本当にいたれりつくせり、とまではいかなくても、ホープコネクションのようなサポートシステムもあり、日本語の情報もラジオやテレビ、インターネットとローカルの日本語情報紙もあって、雲泥の差ですね。 |
そうですね。私が来た頃は日本の情報というと、駐在の商社の方のところへ伺って1週間とか2週間遅れの新聞をまとめて読ませていただくとか。日本食料品も、とっても貴重品でした。駐在の奥様方も漬物だとか、いろいろと工夫して作っていらっしゃいましたね。 |
*その頃に比べると今は日本食もすぐ買えるし、日本食のレストランもたくさんあって夢のように暮らしやすくなっていますが、その代わり自分が異文化のまっただ中にいるということをひしひしと感じる、ということは少なくなっていますね。それがいいことなのか、どうなのか・・・・。 |
世界が一つになる、というのは良いことなのではないかしら。オーストラリアにはいろいろな国の人が住んでいますから、個人として、その人をどう思うか、ということが大切だと思うんですよ。日本人はとか、あの人は何国人だから、という風に考えるのではなくて。文化は文化ですから、各々の異なる文化は認めあって尊重しなければなりませんが、何人だから、という考え方はもう止めた方がいいと思いますね。 |
*SBSはマルチカルチャーの放送局ですが、現在、何カ国語で放送しているのですか? |
68言語です。例えば中国語は2つの言語で放送しています。 |
*そんなにたくさんの言語で放送しているとは知りませんでした。本当に素晴らしいですね。そこで25年間お仕事をされてきてのご感想は? |
パートタイムだったからできたのだと思います。それと仕事の内容が、毎週毎週、同じことを繰り返す、ということがないですから、飽きないですね。そしてSBSの日本語放送という仕事を通してたくさんの方と知り合いになれた、ということですね。インタビューにしても、留学生やワーキングホリデーの若者、官僚やビジネスマン、芸能関係、皇室の方など、あらゆる方面の方々にインタビューすることができました。普通の職種、あるいは同じ仕事でも日本にいたら、こういうチャンスは無かった、と思います。オーストラリアのメディアで、それもユニークな日本語放送ということで、皆さん、インタビューに応じてくださったのだと思うのです。これは私にとって本当にプラスになりました。 |
*やりがいのあるお仕事を存分に楽しんでこられたのですね。 |
楽しいことばかりではなくて辛いこともありましたよ。一人で放送を担当して来たので、どんなに高熱が出ていても、今日は体の調子が悪いので休みます、というわけにはいきませんから、無理を押してスタジオに入って、終わったとたんに倒れた、ということも2回ほどありました。これまで25年間続けてきましたが、今年の1月に退職しました。その間、働きながらホープコネクションの活動に参加し、自分の趣味の事も同時進行でやってきましたが、人生、時間には限りがあるので、このへんで一区切りをつけて、別のことにチャレンジしてもいいかな、と思いまして。 |
*まあ、それは素晴らしいことで。今度は何にチャレンジなさるのですか? |
たまたまそういう機会が与えられたからなんですが、今度の場合は時間の制約がずっと短くなるのです。自分の時間がたくさんとれるので、それにひかれて。ある日本企業のために日本、オーストラリア、ニュージーランドの間でコーディネートをする仕事なのですが、1年に1回か2回、その企業の方が商用で来られた時に同行して通訳などをし、その他はインターネットで仕事をする、ということなんです。だから自分の時間がぐっと増えます。願ったり叶ったりなんですよ。私の夫はすごく旅行好きな人なので、今までは休暇をもらって一緒に旅行に行っていましたが、これからは夫と旅行も気兼ねなくできますし。新しいことにチャレンジしながら、時間をもう少し自分のために使いたいと思っています。 |
*そうですか、いいですね。そうですよね、仕事にもよりますが、今は通信システムが使える所であれば、インターネットを通して世界のどこからでも仕事ができる、ということですよね。インターネットが入ってきてから仕事の世界がずいぶん変わりましたものね。それでは新しいお仕事も存分になさって楽しんでください。今日はお忙しいところ、貴重なお話をありがとうございました。 |
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