インタビュー (51) 太田奈緒美 |
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。今月は、ファイバー/テキスタイル・アーティストの太田奈緒美さんにお話をうかがいました。 |
*太田さんはオーストラリアにいつ頃いらしたのですか?
1991年です。 *どういうきっかけで?オーストラリアに来る前は京都で制作活動、展示会などをしていました。その合間に海外に行ったりしていたのですが、日本の外で自分の作品がどう受け止められるのか見てみたかった、というのも動機の一つです。英語圏に行ったのはオーストラリアが初めてでした。最初は1年ほど滞在して展覧会が1回ぐらいできたらいいな、と思っていました。1年のつもりだったのが、あっという間に15年経ってしまいました。 ほとんどアジアですね。チベットとか。 *チベットですか、いいですね。いつ頃ですか?京都でまだ大学院にいた頃ですから1987年でした。とっても興味深い大変な旅でした。チベットはとても悲しい面もありますし。 *そうですね。20世紀になってから、英国、清朝、中華民国に侵略され続けた歴史ですものね。 |
友だちと二人で行ったのですが、ハプニングの連続でなかなか大変な旅でした。私たちがチベットにいた時は、大きなデモストレーションの起こる直前だったようで、日本に帰ってニュースで知ってびっくりしました。 |
*アジアへはお仕事でいかれたのですか? |
仕事ではなくて旅行ですね。ただ私は絣織りにずっと興味があって、インドネシアの村には絣のリサーチのために何度か行ったりしています。 |
*インドネシアというと、すぐバティックを連想するのですが絣もあるのですか? |
ジャワがバティックで有名なのでインドネシアというとすぐバティック、と思われる方が多いですけれど、東の方に行くと絣の織物が主ですね。各村に伝統のパターンがあるんですよ。 |
*そうなんですか、それは知りませんでした。日本の絣も昔はそうだったんでしょうか? |
実はそれは私の研究テーマでして、長い間興味をもっているのです。もともとはインドから始まった、といわれていて、そこからアジアの国々に伝わっていったんですね。日本には南中国、あるいはマラッカ帝国から交易を通して最初に琉球王国に入って、琉球から日本へ献上されたのが始まり、といわれています。14、5世紀のことなんですけど。正倉院にはシルクロードから入ってきた古い絣がありますけれど、献納されただけで実際に広まっていったのは、南から入ってきた絣が根付いていったということです。 |
*日本でも絣の模様は地方独特なものがあるのですか? |
私は特に沖縄の絣に注目しているのですが、島々や地方によって少しずつ違うパターンがありますね。その中でも八重山諸島の八重山上布という絣にとても魅かれていて、研究テーマなんですよ。 |
*どういうところが好きなんですか? |
八重山上布というのは、石垣島、竹富島あたりで織られているのですが、地の色が真っ白なんです。そこにささやかに絣のパターンが入っているという感じです。仕上げは海にさらして白さをきわだたせる、ということをしています。東南アジアの絣は詰まったパターンが主なんですが、それが沖縄に来てなんであんなにあっさりとしたパターンに変わっていったのか、そんなところに興味があります。でも何故かというのはなかなかよく解からないんですよ、文献があるわけではないですから。 |
*1991年にオーストラリアにいらっしゃる前に、日本で布地の勉強をされていたのですか? |
大学の染織科で織物を専攻しましたので、その頃からずっとですね。学生の時に初めて沖縄に行って、すっかり虜になってしまいました。その時から南に目が向いていった、という感じですね。 |
*では織物や染色に魅かれたそもそものきっかけは? |
昔から絵が好きでしたが、高校時代に美術の先生に出会って、その方の影響が強かったですね。それまでは絵が好きでただ描いていたのですが、ある時「先生は何故絵を描くのですか?」と質問したんですよ。そしたら、「僕は社会の中で自分がどこに立っているのか、自分の視点とかをはっきりさせる為に描いている」とおっしゃったのです。その答えにすごくショックを受けて、高校1年生の時だったのですけれど。それから自分の絵がすごく変わりました。 |
*どのように変わりましたか? |
それまでやわらかい感じの絵だったのが、焦点がきっちりと合ったコントラストのはっきりした絵に変わりました。やっぱり美術の方にいったというのは、その先生の影響が大きかったですね。 |
*それで絵から布に移っていった、というのは? |
手作業的なことが好きなので工芸を専攻したいとは思っていましたが、初めから染織を、という強い動機があったわけではありませんでした。ただ、京都で染織を学んで良かったと思っています。身近に工房や小さな博物館などもたくさんあって。自分がしていることは伝統的なものではないのですが、伝統的なもの触れる、ということはとてもいい経験だと思います。 |
*その頃はどういうことをなさっていたのですか? |
繊維をつかった立体的な造形ですね。その当時の先生が、日本で布を使って立体的な造形を始めた作家の一人なのです。繊維を選んだ、というのは身近にあって、それでいて歴史的には一番古い素材の一つ、ということもあると思います。 |
*古いといえば一番古いのでしょうね。人間が身体を隠したい、と思い始めたころからですものね。機織り機なんか人間が作った一番古い機械なんでしょうね。身近な素材であっても造形的に使う場合はどうなのですか?絵の具とか粘土や石に比べて。 |
扱いが難しいですね。破損しやすいし。だから恒久的に残るもの、というのはあまりないです。それでちょっと別な方向性をさぐっていて、一昨年あたりから額に入るようなものも創り始めています。 |
*1991年にオーストラリアにいらした頃はどのようなものを創っていらしたのですか? |
その頃はジュート麻の、ロープになる前の繊維を使って作っていたのですが、オーストラリアに来てユーカリを見て、生え方とか木の皮の落ち方とか、枝の形そのものとかが有機的で面白いなと思って、ジュートとユーカリを素材にして制作していました。 |
*オーストラリアで最初の展覧会はどこでされたのですか? |
今は無くなってしまったのですがメルボルン大学の中にあったグリフォン・ギャラリーというところでした。大学のテキスタイルの先生がスーパーバイザーになっていた方との二人展でした。その方は日本のテキスタイルをテーマに研究していたので、屏風とか着物とかを扱った作品でした。私の方はユーカリとかジュートを素材にしていたので、観に来た人は彼女の作品を私のだと、私の作品を彼女のだとかん違いする人が多かったみたいでした。 |
*それからずっとこれまで定期的に展覧会をしてこられたのですか? |
そうですね。最初は様子がよくわからなかったので、やみくもにやってきたところもあります。クラフトビクトリアを紹介していただいて、そこを通していろいろ知っていったという面がありますね。今でもお世話になっています。活動としては必ずしも個展とは限らないのですが、何かの形で毎年作品を発表する、などのコミットメントはしてきています。 |
*毎年、それは立派ですね。なかなか大変でしょう、作品を発表するというのは。制作すること自体が大変な苦労だと思うのですが、例えばギャラリーで展示会をする、ということは誰でも簡単にできることなのですか? |
制作することは一人で閉じこもって内にこもっていく作業ですが、展覧会とかになると外に出て行って人に会って、という全く正反対のエネルギーを使うことになるので疲れますね。制作そのものも大変ですが、その他のことが、私は苦手なんですよ。 |
*両方一人でするというのはなかなか大変なことですね。アーティストの方はいろいろな面でご苦労が多いと思いますが、経済的な面で、創作活動だけで生活していけますか? |
難しいですね。たいていの方は学校で教えるとか、副業で収入を得ていると思います。私も教えていたのですが、今、大学で実技関係の科目を縮小していて、私が教えていた科目もその対象になりました。大学という構造内での要望に応えていくことと、アーティストとしての活動を両立させるのには精神的につらいこともあったので、私自身としては大学で教えていた時よりも、今の方が創作活動が活発になりました。 |
*オーストラリアにいらして約15年ですよね。その間に作品の傾向が変わった、ということはありますか? |
基本的には変わらないですね。素材もずっと繊維を使っていますし。部分的に違う素材を使ったりはしますが。この頃は繊維の他に漆喰を使い始めました。昨年暮れにクラフトビクトリアでの個展でも、漆喰を使いました。繊維と漆喰といってもちょっとイメージしにくいかもしれませんが。でも漆喰も初めてではなくて日本にいた時に試したこともありました。その時はしっくりとくる使い方ができなかったのですが、素材として暖めていたものではあるんです。 |
*オーストラリアで創作していて困ることとか不利なこととかありますか? 材料が手に入らないとか、 |
初めの頃はジュートの繊維が手に入らなくて、日本から取り寄せたりしたこともありますが、素材にはあまりこだわらないので、今ではほとんどここで手に入るものを使っていますし、オーストラリアの赤い砂など自然の素材も使います。 |
*オーストラリアのアートの世界は外に対してどうですか?オープンですか? |
オーストラリアに限らずですが、やっぱりつながりとか、紹介してもらう、ということはすごく必要ですね。それは何処でも同じだと思います。私はオーストラリアで創作活動をしているので、オーストラリアのアーティストだと自分では思っているのですが、オーストラリア人は私を日本人のアーティストと見る方が多いですね。ですからオーストラリアのアートとして海外に出す場合、外されてしまうことも多いです。反対に日本の方から海外に、という場合は、オーストラリアだから、ということで入れてもらえない、ということもあって、なかなか難しいところがあります。両方に入れてもらえれば良いのですけど。以前シンガーポールでマルティカルチャー・アートということでグループの展があって、私も参加しました。その時もシンガポールの人は、ヨーロッパ系の参加者については納得するようなのですが、オープニングの時に、「何故日本人がいるんだ」といわれましたよ。そういうことが時々あって、オーストラリアのアーティストとはなかなかみてもらえない、というところはありますね。 |
*みんなそれぞれに先入観をもっていますからね、アートの世界でもそういうことがあるのでしょうね。それでこれからの計画はおありですか? |
去年の暮れにクラフトビクトリアでした展覧会を、今年は日豪交流年ということでジャッパンファンデーションの企画で、シドニーでもすることになりました。オーストラリア在住日本人アーティストの個展というのは、ジャパンファンデーション・シドニーのギャラリーでは初めてということです。それから、今年はブリスベンのアートフェスティバルで、クイーンズランド・ユニバーシティ・オブ・テクノロジー(QUT)が会場で国際的なグループが集る "Accented Body" というパフォーマンスの企画があります。私もメルボルンからのグループのメンバーとして参加します。 |
*パフォーマンス? |
ディレクターがマレーシア人のダンサーで、私はビジュアルアートを担当します。 |
*ちょっとよく理解できないのですが、舞台装置とは違うのですか。 |
広い意味で舞台装置と考えてもらっていいと思います。ダンスと音とインドネシアの伝統的なボーカルも加わります。 |
*面白そうですね。将来、そういう実験的なものにどんどん参加していくつもりですか? |
特にそういう方向にというわけではないのですが、機会があれば参加したいです。展覧会とかイベントとか日本でもやりたいですね。それとここのところ忙しくて、ちょっとおろそかになっている八重山の絣のテーマも研究を続けたいと思っています。 |
*今日はお忙しいところを興味深いお話をしていただきありがとうございました。 インタビュー:スピアーズ洋子 |
シドニーでの展覧会
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Opening: Thursday 6 April Japan Foundation Gallery Level 1, ph: (02) 8239 0055 Email: reception@jpf.org.au *コピーライト:ユーカリ出版 *この記事の転載・転用を禁じます。 |
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