Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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この国の成り立ち (3)
ーー流刑地はどこにーー
前田晶子 
ふくれあがる囚人の数と刑務所の不備は、社会的大問題となってきました。イギリス政府はなんとかせざるをえない状態に追い込まれました。評議委員会が設置され、新たに大きな刑務所を2個所に建設する案が議会を通過したものの、お金がかかる事と建設地周辺の住民の反対に会い消えてしまいました。
ここで登場したのがクック船長の船に同乗した植物学者、バンクスです。囚人を送るのに良い場所はないかと意見を求められた彼は、自分が見てきたニューサウスウェールズを思いつきます。逃げ出すのはまず不可能なこと、送った1年後からは囚人達が自分達で自活出来るくらいは土地は肥えているだろう、しかも母国からの援助はごくわずかか又は全くなしに・・・とバンクスの頭の中には、上陸したボタニーベイの景色が浮かび上がり、最適の場所に思えてきたのでした。
バンクスの提案が本格的に検討される以前に、政府は独立戦争で独立したアメリカにまで囚人を送れるか頼んでいます。 もちろん断わられました。アフリカに4個所、カナダ、西インドも候補地に挙がっていましたが、いずれも他のヨーロッパの国と摩擦が生じる、 商人の反対、すでにいる自由移民の反対、黒人の奴隷の中に白人の囚人が混ざる不都合等から、適地ではないと外されて行きました。
ついに1786年政府はニューサウスウェールズのボタニーベイを流刑地に決定しました。この決定には囚人問題解決以外にもいろいろな理由がつけ加えられました。例えば、クック船長の航海に加わっていた一人は、砂糖、茶、コーヒー、綿、絹、タバコ等を産出できる可能性があり、イギリスの国力を高めるのに役立つと主張しました。その他、囚人を運んだ船は帰り道に中国に寄り、貿易をしてイギリスに物を持ち帰れる、船のマストに最適な材料がノースフォーク島からとれる、船の帆やロープの材料になる麻の栽培に適する、海軍の基地となる・・・といろいろな人がいろいろな理由を言及しました。でもある歴史家は、一番の理由は囚人の捨て場所であり、その他はただ単にこの決定を正当づけるためにつけ加えられただけである、と述べています。
いったん決定されるや政府は船の準備、食料や機材の用意、そして750人の囚人選び、新しい植民地の防備、囚人の警備のための海軍軍人、兵士の任命にと忙しくなりました。中でも一番の難題は新植民地の指揮官となる総督の人選でした。
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