Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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この国の成り立ち (5)
―――悲壮な旅立ち―――
前田晶子 
オーストラリアに送られる囚人達は出発の1ヶ月前から船底に閉じ込められました。 彼らは、目的地に着く前に死んでしまうかもしれない、 生きて着いたとしても2度とイギリスには戻れないし家族とも会えないと悟っていましたから、大変惨めな思いでいました。
最終的に選ばれた囚人の数は772人でした。内訳は、男568人 女191人 子供13人。 それに加えて、210人の海軍、そのうち20人は士官、203人の海兵隊、233人の商船員、 そして士官はじめ海軍の奥方達27人とその子供達19人合計692人が同行しました。
数ヶ月を費やした準備期間の後、1787年5月13日、11隻の船団はイギリスのポーツマスを出航しました。 長い航海は四段階に分けて進められました。第一段階はカナリア諸島までです。3週間かかりました。 食料その他必要な物資を積み込み、人々は陸に上がりましたが、囚人は船に残されたままでした。 第二段階はリオデジャネイロまでです。 8週間かかりました。ここでは1ヶ月とどまり物資の積み込みのほか船の修理もしました。 囚人はまたも陸に上がることは許されませんでした。第3段階はケープタウンまで、6週間かかりました 。ここでも1ヶ月滞在して、家畜(豚、山羊、羊、牛、家禽)や 穀類の種までも積み込みました。 植民地での自給自足の生活に必要なものです。いよいよ最後の航海は目的地ボタニーベイまでです。 10週間かかりました。1788年1月20日11隻の船団は無事目的地に到着、8ヶ月と1週間の月日が立っていました。 その間の死者は23人、この数字は第2回囚人輸送団の惨事が知らされた時、いかにアーサー、 フィリィプの船団が大成功であったかを示すものとなりました。
この長い航海の間、囚人達は陸に上がることは許されず、暗く狭い船底に閉じ込められたままでした。 定期的にデッキに出され新鮮な空気を吸い、お日様にあたり、体や服の汚れを払うことができました。 その時デッキの掃除もさせられました。病気になり命を落とす囚人もいました。
参考図書  Dreamtime To Nation Lawrence Eshuys Guest


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