Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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この国の成り立ち (1 7 )

 囚人(1)


前田晶子

 流刑地として始まったオーストラリアに、いったいどのくらいの囚人が送られてきたのでしょうか。アーサー フィリップが11隻の船団で初めて囚人を連れてきた1788年から、最後まで囚人を受け入れていたウエスタン オーストラリアへ最後の囚人の船が着いた1868年までの80年間に、16万8千人の男の囚人と2万5千人の女の囚人が送られてきました。ならすと、年間2500人くらいになります。

ではどんな人達が送られてきたのでしょう。決して、凶悪犯や殺人犯ばかり送られてきたわけではありません。8割近くは、窃盗罪で捕らえられた町に住んでいた人達でした。田舎の人はほとんどいなかったので、アーサー フィリップが嘆いたように、農業を知らない人ばかりでした。手に職をもった労働者もほとんどいませんでした。残りの2割は、凶悪犯も含めて、いろいろな罪に問われた人々でした。上官の命令を聞かなかった兵隊もいました。産業革命の犠牲者とも言える人々は、機械に職を奪われたと思い、機械を叩き壊した人達でした。今の私達が考えると、こんな軽い罪で・・・と思ってしまう人もいます。リネンを盗んだ人、ハンカチを盗んだ人、ひもじい妹のためにパンを盗んだ少年、羊や馬を盗んだ人・・・貧困のどん底で苦しむイギリス庶民の姿が浮かんできます。当時貧しかったイギリスでは、布も食べ物も貴重なものでした。家畜も大事な財産でした。

政治犯も送られてきました。中でもアイルランド人は数も多く、反抗心が強く有名でした。アイルランド反乱(1798年)の後から送られ、最後の船でも60人がウエスタン オ-ストラリアに送られてきました。シドニーのカースルヒルで起こった囚人の暴動(1804年)もアイルランド人が指揮をとったものでした。スコットランド人の政治犯は、議会の改革に熱心だった5人でした。フランス革命の激しさに度肝を抜かれたイギリスは、革命が自国へ飛び火するのを恐れ、改革論者には必要以上に厳しい処置をとりました。イギリスの中でも、低い賃金に抗議して労働組合を作ろうとした人々が罰せられました。 

囚人の60%はイギリスから、30%はアイルランドから、5%はスコットランドからでした。イギリスの法で裁かれた他の国の人もいました。イギリスの商船に海賊行為を働いたギリシャ船員達は自由の身になった後住み着いて、オーストラリアで最初のギリシャ人となりました。

 私達はオーストラリアに送られてきた人々は、ほんのささいな罪をよんどころない事情で犯してしまった人達とつい考えがちですが、実際はこういう人々は19万人以上の囚人のうちの中の少数派でした。全体の三分の二は盗みを働いた人、三分の一は何回も罪を犯している人でした。そして、全体の7割近くが15歳から30歳の年齢層に入りました。

・主な参考図書 

   Dreamtime To Nation   by    Lawrence  Eshuys  Guest MacmillanAustralia
   
1822-1850 Our Explorers  school project material (Child & Henry)
       A Country Grows Up  by  J.J.Grady   (Cassell Australia)            

      その他の参考資料は連載の最後にまとめて表示します。

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