Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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インタビュー (2)    「バルタサー神父」

この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。

今月の「この人」は、東チモール出身のカトリック神父 Dr. Balthasar (バルタサー)をお訪ねして、東チモールのお話をうかがいます。最近里帰りをされ、普段はメルボルン大学で人権問題のセミナーを担当されています。

*あちらの様子はどうでしたか。

私は去年も行きましたが、1年立ってまたずっと良くなってます。そうそうビックニュースがあります。日本の自衛隊が680人の平和部隊を送り込んでくれます。女性の隊員も6名います。2月15日に発表になったばかりです。680人なんて国連の平和部隊の中では一番の数ですよ。すごいですよ。第1団は3月4日にディリに着きますが、私はこれを聞いた時うれしくて。日本には期待しています。

*もうインドネシア軍は全くいませんか。

一人もいません。1999年の10月で完全に引き上げました。今は国連軍がいて、28カ国から来ています。オーストラリア軍は一番多いです。

*ところで、チモールが東と西に分かれているのはどうしてですか?

今から500年前、16世紀のことですが、まずポルトガル人がやって来ました。宣教目的です。それから100年位してオランダもやって来ました。ポルトガルとオランダは長い間チモール島全部を自分の物にしようと争っていたのですが、結局1859年に話し合いで二つの国でチモールを分けました。島の西半分はオランダ領、東半分はポルトガル領です。

*それではチモール島は、人為的に境界線をつけられて分けられたのですね。民族的に違いがありますか?

全然ありませんよ。同じ人、同じ文化です。親戚同士、西と東に分かれてしまった人もいました。

*西と東の行き来はどうでしたか?境界線は越えられなかったのですか?

そんなことはありません。自由に行き来できました。

*本に、ポルトガルは東チモールを治めたといってもたくさんある小さな王国をそのまま残して、その王様達が実際は自由に 治めていたと書いてありましたが、そうですか?

ええ、そうです。植民地といっても当時の暮らしは結構幸せだったと思います、インドネシア軍が来るまではね。東チモールに住んでいるポルトガル人はたったの500人でした。それとポルトガル軍人です。

*第二次世界大戦中は、一時日本がチモール全土を占領しましたね。

1942年の2月から1945年の8月までの3年半です。戦争が終わって又西チモールはオランダ領へ、東チモールはポルトガル領へ戻りました。そして1949年インドネシアがオランダから独立したのと同時に、自動的に西チモールはインドネシア領となりました。アジアでオランダが治めていたインドネシア周辺の領土は無条件でそうなりました。

*東チモールはまだポルトガル領のままでしたか?

ええ、1974年ポルトガルが手離すまでね。その頃には、東チモール独立に向かっていくつかの政党も生まれていました。その政党同士の勢力争いにつけ込んで、インドネシア軍が侵入してきました。1975年12月ディリに攻め込んできて無差別に人を殺し始めました。

*東チモールの最悪の時期は何年から何年までですか?

1975年から1989年までですね。この間に20万人が殺されました。人口の1/3が殺されたことになります。インドネシア軍は1975年には、朝にはディリ、昼にはバコリ、夜にはロスパロスと皆殺しにしながら進みました。男ばかりでなく、女、子供、赤ん坊も殺されました。

*インドネシアはどうしてそこまでしたのですか?

インドネシアは東チモールの土地が欲しかったのです。人はいらなかった。二つの方法を取りました。一つは皆殺し、または牢屋に入れる。もう一つは女の人に避妊をさせました。当人の意志を無視してです。手術や薬、特にひどいのは、有害な避妊注射までしているんです。東チモール人を減らして、ジャワやスマトラ、バリ等から人を移住させています。正にこれは大虐殺です。

*インドネシア軍と戦ったフレテリン(東チモール独立革命戦線)についてお話しして下さい。1978年にはインドネシア側はフレテリンを完全にやっつけたと思ったらしいのに、1981年には復活していますね。かなり根強い国民的支持のある政党なのですね。

リスボンへ留学したことのある人達が中心になって反植民地主義を唱えていたグループが作った党で人気がありました。活動的で反ポルトガルでありながら、ポルトガル政府から援助のお金も出ていて、インドネシアが手を出しさえしなければ、このフレテリン主導で平和に独立できたかもしれなかったんです。アメリカの軍事援助を受けたインドネシア軍にはかなわず、どんどん山地へ逃げ込みました。女の人や子供達までフレテリンのメンバーになって、スパイとして、また食料係りとして働きました。指導者シャナナのもとに 復活し、ゲリラ戦でインドネシアと戦って来ました。 シャナナは92年インドネシア軍に 捕まり、ジャカルタに送られ刑務所に入れられていましたが、99年9月の国民投票で 東チモールの独立が決まった時、自由の身となりま した。4月に行われる総選挙では多分初代大統領に選ばれるだろうと言われています。もしそうなったら、世界で初めてのゲリラ活動家の国主です。

*東チモールの今の人口はどの位ですか?

およそ80万人でしょうか。1999年の初めに89万人と言われていましたが、その後難民で流れて行ったり、山に隠れていた人が出て来たり、それに99年の10月までは人が殺されていましたからね。難民で出ていっても戻って来る人もいます。私の叔父は3回難民になって今は東チモールにいます。

*神父様のことを少し聞かせていただけますか。

私は1953年東チモールで生まれ、西チモールで高校に行きました。

*それではインドネシア軍が東チモールへ侵入した時はどこにいましたか?

1974年からフローレス島に移ってそこで4年間大学へ行ったのでちょうどその時はすでにチモールを出ていました。フローレスはインドネシア領ですが、ポルトガル領もありました。その後西パプアでソーシャルワーカーとして2年働きました。フローレスに戻って、哲学と地質学を勉強していました。

*オーストラリアには何年お住まいですか?

4年です。オーストラリアはチモールに近いし、チモール難民がたくさん来てます。特にメルボルンは東チモール人が一番多い街です。

*メルボルン大学で講義もされると聞きましたが。

ええ、人権問題のセミナーを去年は2時間ずつ3回持ちました。今年も同じくらい持つと思います。2時間通しのデッスカッションですが皆熱心です。

*最後に日本に対してのお考えを聞かせてください。

初めにお話しした様に700人近い平和部隊を送り込んでくれる日本はとても力強い味方です。戦争の後で国中めちゃくちゃになっています。いい道路を作って欲しいですね。日本の上智大学ではチモール問題をとりあげていますし、日本の人には期待しています。最後に我々東チモール人にとって歴史的な三つの出来事をお話ししておきます。一つ目は1989年ローマ教皇が東チモールを訪れて下さった事、二つ目は1991年ディリで300人の大殺りくがあり、イギリスの写真家がこの有り様を撮影していて、世界中にチモール問題が知れ渡った事、三つめは1996年カトリックのベロ司教とフレテリンのジョセロモスハタが、ノーベル平和賞に輝いた事です。東チモールは山の多い所で土地も豊かできれいないい所です。あなたもぜひ行ってみて下さい。

*はい、必ず行ってみます。たくさんのお話聞かせていただいて頭の中が一杯になりました。東チモールが大変な時、私、子育ての真っ最中で何も知らないでいました。
東チモールをこれから見守って行きたいと思います。今日はどうもありがとうござい ました。

インタビュアー       前田晶子


参考図書 チモール 知られざる虐殺の島 田中淳 夫著 1988年発行 彩流社
写真はバルタザー神父撮影の最近(2002年2月)の東チモールの人々

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