Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
前へ 次へ
 
インタビュー (8)    ポーリン マルホランド(Pauline Mulholland)
 
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。今月のこの人は、移民の国、オーストラリアならではの家族の輪を広げているポーリンさんをお訪ねしました。
 
*子供さん3人、皆さん独立されて、家庭を持っていられるのですね。

ええ、長女はオーストラリア人と、息子はエチオピア人と、次女はアメリカ人と結婚して、子供もそれぞれ3人、3人、2人といて円満な家庭を作っています。

 *国際結婚についてはどうでしたか

そう、全くなんともなかったと言ったら、うそになりますが、私も主人も子供達を信用していましたから、私たちの愛する子供が決めた人ならばどこの国の人であろうと、受け入れる気持ちはありました。一番心配したのは、息子の相手です。今から20年前でしょう。黒人はこのあたりには一人もいなかったし、言葉習慣の違う若い女の人が来て暮らせていけるのか、いじめられはしないかと心配しました。

 
急に結婚すると言われたのですか?
いいえ、そんなことありません。息子は小児科の医者で、医学部の時に1年休学してバックパッカーでインドなど貧しい国を旅行した時、自分は開発途上国の子供を助ける医者になると決めました。それでスーダンで働いていました。そこで、看護婦として働いていた娘さんです。息子が送ってくる写真によくいっしょに写っていた娘さんで、主人と「これは、」と笑って見ていました。30才には結婚するとかねがね息子は言ってたもので。長い手紙ももらいました
 
*それでは順調に進んだのですね。
それがなかなか大変だったのですよ。彼女は難民で、そのころ内戦状態のエチオピアでは10代の時鉄砲を撃っていた兵士でした。スーダンに逃げてきて看護婦をしていました。お父さんは牧師で教育熱心だったので、彼女も英語で教育を受けた人でした。難民なのでオーストラリアには来れないので、まずいったんアメリカへ行って結婚してからオーストラリアへ入ることにしました。急に息子から電話が来て、結婚式をアメリカでするから来てくれと言われました。私はハイスクールの数学の教師をしていましたから、大急ぎで学校に頼んで休みをとり、アメリカへ飛びました
 
*初めて会った印象はどうでしたか
一目で気に入りました。とてもかわいくて教養もあり素晴らしい娘さんでした。アメリカにはエチオピアの難民がたくさんいて、結婚式もエチオピア式で大勢の人が集まってくれました。私はすぐ帰って仕事にもどり、息子たちは後から帰ってきて、ひとつ裏の通りに住み始めました。彼女が私たちのそばがいいと言ったので。私は仕事があったので、主人が彼女にいろんな事を教えました。車の運転も教えましたし、初めての妊娠の時、病院へ連れて行ったのも主人です。主人はもう引退していましたから。強いアクセントはありましたが、英語はできました。私たちのことをマム、ダッドと呼んで、子供が次々3人産まれるまで、乳母車を押しては遊びにきていて、主人とはすっかり仲良くなりました。
 
*息子さんはまた小児科医として海外へ出られたのですか。
ええ、上の子が5才で小学校の幼稚園部へ入って1学期間通ったと思ったら、今度は西アフリカのガンビアへ行ってしまいました。住んでた家は貸家にして、小さい子供を連れてね。その頃私は定年になっていましたから、息子の家の管理をしてやりました。国は違っても、アフリカ人を奥さんに持っていることは、医者として向こうで働くにはずいぶん都合が良かったようでしたよ。私も気楽な身分になってましたから、遊びに行きました。その後、今度はユニセフの仕事でスイスのジュネーブに移りました。ここにも私は2回遊びに行きました。この頃、主人ががんでこの先長くはないと分かったので、彼女は子供を連れてしばらく帰ってきていっしょに暮らしました。主人と仲が良かった彼女の最後のお別れの意味でした。
 
*彼女のエチオピアの家族がオーストラリアへ移って来ているといつか話されていましたが

息子が引き受け人になって、難民キャンプにいた兄弟を捜し出して、オーストラリアに来れるようにしてあげました。兄弟は8人で皆教育を受けているので、ここに来て大学へ行ったりして、暮らしています。私も学校の相談に乗ってあげて助けてあげました。そのうち彼女の両親もやってきました。おかあさんが来た時は、皆で飛行場へ迎えに行きました。読み書きも英語も全然できない方ですけれど、利口な方とはわかりました。私、市内の公園を案内してあげて、笑顔と身振りでなんとかなりましたよ。お父さんはここでまた牧師をされています

 

*息子さんたちはまだジュネーブですか。

2年前に帰ってきました。小さかった子供たちも大きくなって、上の女の子は今年から大学生です。子供たちは、アフリカ、スイスにいた時はインターナショナルスクールで、家の中も英語で育ちました。だからエチオピアの言葉全然わからないので、向こうのおじいちゃん、おばあちゃんと話せないで、私はかわいそうと思うのですけれどね

*下のお嬢さんはなかなか活発な方ですね。

そうですね、演劇の方に興味がある子で、ラジオの仕事でイタリアへ行っていました。その時、スペインへ旅行した時知り合ったアメリカ人と意気投合して、彼がイタリアへ通ってくるようになりました。また電話をもらって、結婚するからイタリアへ来て、と言われて、私、一人で今度はイタリアへ飛んでいきましたよ。結婚後しばらくメルボルンにいて、子供が2人生まれました。でも相手がここでは仕事がなく、数年前に一家でアメリカへ行きました。娘は今アメリカで舞台女優をしていますが、オーストラリアンアクセントでしゃべるので、おもしろい、と言われているんですって。子供2人はすっかりアメリカアクセントです。

 
*上のお嬢さんはどんな結婚をされましたか
銀行マンのオーストラリア人と結婚しました。結婚式もウエディングドレスを着てここの典型的な式を挙げ、ずっとメルボルンで落ち着いて暮らしています。向こうのお母さんとも私はお友達で、今晩もいっしょにバレエを見に行きます。子供3人3様の結婚の仕方ですが、皆夫婦仲良くて幸せに暮らしてます
 
*日本の親は国際結婚と聞くと人種うんぬん以前に、だたもうびっくりしてしまう場合が多いのですが、ここでは割とおおらかですね

 私たちは戦後移民の波が押し寄せて、人種を超えた結婚にもう慣らされていますからね。英語では国際とは言わずに、もっと直接的な言い方で、血が混ざるのでミックスと言います(mixed marriage)。日本は伝統のあるアジアの国で、長い間孤立していたので、当然だと思いますよ。ここでも、私の父の時代はやはり抵抗がありました。現に私が10才年上の人とたった3ヶ月の付き合いで結婚を決めたら、反対されました。ミックスでなくてもね。長女のところの孫息子のガールフレンドが生粋のユダヤ人なのです。いろいろな人種が混ざったほうがいいと、私は思いますよ。アジア人と結婚する家族も出てくるといいなと思っています。

 

*今日はお出かけの前の時間をさいてくださってありがとうございました。

インタビュー: 前田晶子

(c) Yukari Shuppan
この記事の無断転載、借用を禁じます。


前へ 次へ